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「あんまりだ」

 加瀬谷はコンサートホールのピアノを見つめて呟いた。

 屋根は非常にわかりづらいが、なだらかにへこみがあった。

 傷があることは予想していたが。

 まだ加瀬谷のただの推理だ。だが、事実と思わずにいられなかった。

 何故なら事件はここで起こったのだから。二十七年前の調律師はここで発見されたのだ。調律途中に殺されたのだ。

 どうして、このピアノばかり。

 しかし悲しみにばかり囚われているわけにもいかず、加瀬谷は調律を始めた。


 その頃、由依はというと。

 コンサートホールの正面玄関の前で赤く腫れた両手をさすっていた。先日由依の弾くピアノに驚いた警備員の若者が鍵盤蓋を思い切り落としていったため、弾いていた由依の手に鍵盤が当たったのである。

 由依は幽霊で普通の人や物には触れられない。ピアノは何故か例外だ。彼女がピアニストだからか、ピアノにだけは触れられる。

 そしてその怪我は痛みを伴っていた。

 ……可笑しい。幽霊の自分が"痛い"だなんて。

 けれど、由依は同時に誇らしかった。大切なピアノの鍵盤をこの手のおかげで守ることができた。手がクッション代わりになって、鍵盤は傷つかなかったのだ。音楽を愛する者にとって、楽器は命よりも大切なもの。それを少しでも守れたのなら、それ以上のことはない。

「でも、痛くて弾けない……」

 由依の唇が小さく紡ぐ。

 痛みは蓋が直撃した指の付け根のみならず、手全体に渡り、腕には痺れをもたらしていた。

 まさか死んでからこんなに物理的な痛みを感じることになるとは思ってもみなかった。

「あーあ。これだとしばらくピアノ弾けないだろうな」

 その言葉には奏者としてピアノに触れられない悲しさもあったが、それ以上に頭の中を支配する存在があった。

 春に知り合ったばかりの若い調律師。ピアノが上手いのに、その才能があるのに、何故か弾くことではなく調律する(なおす)ことに己を注ぐ人。

 けれどやはり、調律師(それ)が一番似合っている、不思議な人。


「由依さん、この間はすみませんでした。頭に血が上ってしまって……」


 久々に彼の方から声をかけてくれた。柔らかい声で謝罪をしながら。彼の視線が無意識か、由依の手の位置に注がれているのを由依は感じていた。

 心配してくれているのだ。

 そう思うと胸がいっぱいになって。怪我をしてしまった自分が情けなくて。……彼に緑色の"月光"を聴か()せたくて。けれどその本音はとても言えなかった。情けなさと恥ずかしさで由依はぼろぼろだった。

 だから、逃げてしまった。

 どうすればいいだろう。今回のことは警備員が来ることを充分想定できたはずなのに演奏をやめなかった自分に非がある。だから彼に"月光"を聴かせるのは怪我が治ったらにしよう。

 ピアノを弾く以外に、自分にできることはないだろうか。

 考えて。

 考えて考えて。

 日が高く昇る頃、人が多くなってきたことに気づく。そのことに不審な点はない。今日も演奏会があるのだろう。それで客が来ているのだ。

 ただ、驚くべきことに、その中に由依の知る顔が複数あったのだ。

 仲良し家族といった雰囲気の親子三人組。白髪の老人。穏やかな雰囲気の中年男性。それらが五人揃ってやってきた。

 由依は驚愕に目を見開く。それから慌てて五人の後をつけていく。

 当然この五人にも由依の姿は見えていない。由依がどれだけ近くに寄っても誰も気づきはしなかった。

 会話を聞くために由依は息をひそめる。いくらなんでもこの五人が一緒に来るなんて、偶然にしてはできすぎている。

「久しぶりねぇ、うん、久しぶりよ、ここ」

 特徴的な語り口で喋りながら老人は辺りを見回す。

「私も久しぶりですね。辞めて以来ですか」

「あら、細軒さん、以前こちらに勤めていたんですか?」

 中年の感慨深げな一言に家族三人組の奥さんが訊ねる。中年はにこやかに頷いた。

 母に手を引かれる子どもは静かだった。不安そうに辺りをきょろきょろしている。

「いやしかし、たまたまハイツの皆さんがこのコンサートのチケットを手に入れていたとは、幸いでしたね。ちょっとした身内旅行みたいな気分です」

 家族連れの父親が言った。どうやらこの一行は同じハイツに住んでいるらしい。

 ハイツ。確か彼が春に越してきた先もそうだと聞いた。

 まさか。

「調律師さんはどこかねぇ。ねぇ、どこかねぇ」

「そうですね。あのハイツで殺人事件があってから、彼は別の住居から行き来しているようですが、顔を見ていないとやはり心配ですよね。まあ、その事件が彼の部屋で起こっていたのですから、仕方ありませんが」

 そのまさかだった。あの優しい調律師はこの五人と同じ場所に住んでいる。

 それにしても殺人事件とは物騒だ。しかも彼の部屋でとは穏やかじゃない。

 しかし、由依の脳はそれ以上の警鐘を鳴らしていた。穏やかじゃない程度では済まされないような不吉な予感。

 普段は気温など一切気にならないはずなのに、悪寒が背中を駆け巡り、ぞくりと由依は震えた。

 そんな由依の当たってほしくない予想を裏切ることなく、家族連れの父親が不気味な笑みを浮かべる。

「正直、彼が来てこんなことになるとは思いませんでした。"死なない調律師"とは……都市伝説破りとまで言われたら、黙っているわけにはいきませんよね」

 その言葉に各々が頷く。不思議なことに子どもも漏れることなく。

 では、と父親は高らかに告げた。

「そんな都市伝説には"死んで"もらいましょう」




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