う
翌朝の加瀬谷の足は重かった。
今日は午後からの演奏会に向け、仕事があるのだが。バス停に行きたくなかった。おそらく、昨日の事件が広まっているにちがいない。
バスの中、奇異の目にさらされるのか。そう思うとバスや人混みにも行きたくはなかった。
しかし、今日は歩きで行くわけにもいかない。それでは遅刻してしまう。
どうあっても仕事をなくすわけにはいかない。その思いで重い鞄を持ち上げた。
バスに入ると何故かバスの中での加瀬谷は好印象で名前も知らない女子高生に「やっほー☆」とフランクに声をかけられる。戸惑いながら「……やっほー?」と手を振ってみると隣の友人とにわかに盛り上がっていた。
ざわざわと賑わうバスの中。嫌なざわめきではなく、歓迎ムードというか。
予想からかけ離れた反応に加瀬谷は戸惑いつつ、周囲の会話に耳を傾ける。
「わあ! あれが噂の"死なない調律師"さんか」
……さん?
敬称がついている。
「都市伝説破りのすごい人でしょう?」
都市伝説破り?
「真夜中にあのホールのピアノ聴いても死なないの」
そこは昨日聞いたのと変わっていない。
「でも、実はあのピアノには呪いも何もなくて今までの都市伝説がガセだったっていうのを証明したんだよ! あの人は」
??? 話が変な方向に逸れ始めたぞ?
「えー? あの人がピアノに憑いてた霊を追っ払ったんじゃないの? ほら、なんかおっきい鞄持ってるし」
「あれが霊媒道具?」
うきうきした視線が加瀬谷に刺さるが違う。断じてそんなものはない。加瀬谷が持っているのはただの仕事鞄である。
チューニングハンマーやチップなどの独特の工具の他にもドライバーなどの通常の工具が入っている。意外とがさばるのだ。
しかし、それをいちいち説明するのも億劫だった。
好奇の視線が鬱陶しい上にさすがは人の噂、適当だ。早く降りたいと思いながらバスに揺られる。
「でもさ、霊媒師説って結構有力よ? こないだ警備員が夜中にピアノ聴いちゃったけど大丈夫だったって噂流れてるし」
「おお」
「案外と大したことないのかもね。そのピアノの幽霊も」
そのコメントに少しいらっとしたが、コンサートホール前に着き、加瀬谷は降りた。
職員玄関から中に入っていく。二日間来なかっただけだが、なんだか久しぶりの感覚。
──と思ったら。
「全くキミは何をしとるんだね!」
机を叩く音、耳障りな怒鳴り声。……久しぶりなのは、ぴりぴりしたこの空気感だった。
事務室からきんきんと富貴屋のがなり声が聞こえる。耳を塞ぎたいのをこらえ、状況把握のために会話を聞く。
「何故キミはいつも前後不注意なのだね、笹木クン。わたしのスーツが汚れた上に、茶碗が割れたじゃないか! どうしてくれるんだ!?」
「す、すみません」
「何がすみませんだ! すみませんで済んだら警察はいらんわ」
「ご、ごめんなさい」
「……それに、きちんと謝るときは"すみません"でも"ごめんなさい"でもなく、"申し訳ございません"だ。そんなことも習わなかったのかね? キミは!」
後半の言葉遣いの指導はごもっともなのだが。
事務室の方から流れてくる険悪な雰囲気。これがいけない。当事者たちより周囲の方が殺気立っている気配が五十メートルほど離れた加瀬谷にもしっかり伝わってくる。
周りが破裂してしまったら、収拾がつかなくなる。それを危ぶんだ加瀬谷は素知らぬ顔ですたすたと受付に顔を覗かせた。
「おはようございます。二日間お休みをいただきましたが、今日からまたよろしくお願いいたします」
「あ、ああ、おはよう、調律師クン。今日は十時から奏者さんがリハーサルに入るから、急いで頼むよ」
この人は賢い。が、まだ自分の名前を覚えていないようだ。その証拠にそれとなく"調律師クン"とごまかした。
加瀬谷にそれを詰るつもりはない。彼は仕事ができればそれでいい。
「十時からですか。早いですね。ということはもういらっしゃってるんですね。お話ししたいので、楽屋まで案内していただけますか?」
加瀬谷がにこやかに言うと、周りの者たちがそそくさと動き出す。
事務員の一人がすっと怒鳴られていた同僚──柚花梨に歩み寄り、いってきな、と耳打ちする。
柚花梨は泣きそうな目で、片付けを始めた同僚を見やると、弾かれたように振り返り、「ご案内します」と元気よく事務室を飛び出してきた。
柚花梨について、地下への階段を下りる。
「先程は、お見苦しいところを」
柚花梨がちらりと加瀬谷に振り向き謝る。加瀬谷は「何のことでしょう?」とシラを切る。
いえ、と言葉を濁した後、少し躊躇い気味に柚花梨は続ける。
「ここからは、わたしの独り言ですが。
わたしは正直、あの館長のことが好きではありません。
だから嫌がらせのようなことをしているわけじゃありません。あれはただわたしがドジなだけで……
わたしはまだまだ新人です。先輩方に支えてもらってばかりで、一人前には程遠い自覚もあります。……でも、いちいちあそこまで怒る必要があります? しかもいつも"自分のスーツが"とか自分のことばっかりで……うんざりしているんです」
振り返ると確かに、いつぞやの怒鳴り声もスーツがどうのと言っていた。いつもなのか。
「それに。まだ加瀬谷さんの名前、覚えていないんですよ? わかったでしょう?」
わざわざ真っ直ぐ見上げてくるあたり、さっきの加瀬谷の介入がわざとだと理解しているのだろう。
加瀬谷はただ苦々しく笑った。
「僕は自分の仕事ができれば、それでいいんですよ。富貴屋館長が覚えていなくても、貴方や他の方々は覚えているみたいですし、それで充分です」
そんな加瀬谷の答えに柚花梨が不満そうだったのをこのときの彼は気にしなかった。




