む
肩を落として加瀬谷が帰ってきたのは夜九時。自室の前で項垂れる加瀬谷の頭の中は一日振りの帰宅のことよりも由依のことでいっぱいだった。
由依はまだ許してくれていないのだろう。自分は酷いことを言って相当に傷つけてしまったのだ、と加瀬谷は深く反省する。
部屋に入るのも憂鬱だ。こういうときにこそ酒は飲むべきなのだろう。そんな考えがよぎったが、残念ながら明日は仕事だ。
項垂れたまま鍵を差し込み、くるりと回す。スローモーションと見紛うほどの緩慢な動作。
かしゃり。
鍵を開ける。
「……おわっ」
かさかさ。木の葉の揺らめくような音が足元からする。見れば、部屋は一面紙ひこうきだらけ。
全て血文字で何か書かれているようだ。一つを手に取ると、「もうあのほーるへはちかづくな」。以前も見た文言だ。
もう一枚拾う。そこには「おなじようにしぬぞ」とある。
がさがさと紙ひこうきの山をかき分けながら進む。いくつか拾って読んだが、中に書いてあることは大体一緒。相変わらずひらがなで「ほーるにいくな」「しぬぞ」というもの。
リビング中いっぱいのそれ。よくもまあこんなに飽きずに作ったものだと思う反面で、恐ろしいことに気づく。
というか、部屋の中にって……侵入された?
おかしい事態である。昨日家を出るときにちゃんと戸締まりを確認したはずなのだ。叶李と会話する傍ら、入口の鍵もかけた。窓だってあの警告文を受け取った後、ちゃんと閉めたのだ。
その上──と加瀬谷は奥の戸に目を走らせる。普段は奥の洋間の戸を閉めるなんて手間のかかることはしない。
これは警察に電話だな、と考えながら、部屋の戸を開ける。
その先には
「わっ!?」
ぶらんぶらんと吊り下げられた人間。
天井から首を吊って死んでいる。目を剥き、舌をだらんとだらしなく垂らして、見たことのない青年が、死んでいる。
宙を漂う手が握っていた紙が加瀬谷が来るのを見計らったかのようにひらりと舞う。不完全な紙ひこうきはまだ折り込みが入っておらず、そこにある文字はすぐ読めた。
「ほんとうにしぬぞ──おれのように」
加瀬谷の頭は凍りついた。
にもかかわらず、手は冷静に携帯電話を取り出し、一一〇をプッシュする。考えがまとまらないのに耳に当てた。コール音が一回と鳴らないうちに相手方が出る。
凍った頭でも、状況説明はできた。動揺しているはずなのに冷静な対処。どこまでも思考と行動がちぐはぐな自分に少し笑いたくなった。
だが、笑う余裕はない。戸締まりしたはずの自分の部屋に大量の紙ひこうきがあり、知らない首吊り死体がいた。もう死んでいる。
冗談はほどほどにしてほしい。せっかく里帰りで息抜きをしてきたのに、変な噂は流れているわ、由依には拒絶めいた対応をされるわ、しまいに不法侵入されている? いくら優秀な加瀬谷の脳でもパンク寸前だった。
ほどなくして警察がやってくる。救急車もだ。サイレンの音がわんわんとけたたましく喚き、近くで止まった。
警察の者です、と開け放したままの入口から刑事が入ってくるのに、加瀬谷は黙って会釈した。
外には案の定、野次馬がいた。一番の野次馬は近隣住民──もとい、同じハイツに住まう人々だ。
「おんやおんや加瀬谷さん。加瀬谷さんとこよねぇ? どうしたのどうしたの、騒がしいことね、騒がしい」
いつもどおりの独特な言い回しで真っ先に声をかけてきたのは一部屋挟んで隣の叶李。
「あれ、加瀬谷さん、帰ってきたんですね」
一〇一の細軒も何事かと上ってくる。
「救急車にパトカー! ウオーンって、かっこいい」
「こら、不謹慎よ、灯。あら、加瀬谷さんのところ?」
紗菜絵が息子を伴って上がってきた。たちまち二階は大所帯になる。
一〇二と二〇二は沈黙したままであるが、そもそも会ったことがないのでいいとして。これで全員だろうか。
「半村さん……由行さんは?」
半村一家が一人足りないことに気づき、加瀬谷が訊ねると、紗菜絵は苦笑して「寝てるの」と答えた。
そこで加瀬谷は一つ思い至り、ぺこりとする。
「すみません、皆さん。起こしてしまいましたか」
「かまわんかまわん」
「お気になさらず。それより何が?」
「私もそれが気になったんです」
口々に加瀬谷へ説明を求める。
「昨日から、少しばかり里帰りをしておりまして、家を空けていたんですが、帰ってきたら、知らない方が中で首を吊って……」
聞いたそれぞれが絶句する。ただ一人灯だけが飲み込めなかったらしく、こてんと首を傾げた。
「ここ二日間、不審な人を見かけませんでしたか?」
「さあ」
大人たちは全員首をひねった。
そこで、救急隊員が遺体を運び出してくる。急いでいたのか、顔にかけられた布がはだけていた。
そんな遺体の顔を見て、叶李があ、と声を上げる。
「りんちゃんさぁね、りんちゃんだぁわ!」
「知ってるんですか?」
「知ってるも何も……」
そこで何故かはっとしたように叶李は口を閉ざしてしまう。救急隊員は叶李が黙り込んだのを見、さっさと遺体を運んでいってしまった。
「怖いですねぇ。知らない方が自分の家で死んでいるなんて」
「そうですね」
紗菜絵が気まずくなりかけた空気を紛らすように言った。おかげで加瀬谷は叶李に問い返すタイミングを失う。
「物騒なことですね。皆さん戸締まりをしっかりして眠りましょう。今日のところはおやすみなさい」
「おやすみなさい」
細軒が上手い具合にまとめて、その場は解散となった。
あまりにも自然に流れてしまった話。ハイツの人々の奇妙な一体感に加瀬谷は疑念を抱かずにはいられなかった。
ここの人々全員が、何かを知っているということを。




