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 加瀬谷が卯月から帰ってくると、周囲からの視線が気になった。

 加瀬谷の姿を見ると、怪訝そうに眉をひそめ、ひそひそ話を始めるのである。何も後ろめたくなるようなことはしていないのだが、そんな視線に会うたびに気まずく思う。

 気になった加瀬谷は試しに近くの喫茶店に入り、様子を窺う。反応は外を歩いていたときと同じ。加瀬谷はアイスティーを注文し、どれどれ、と少し耳を澄ませる。加瀬谷から程近い席に座る奥様方がこんな会話をしていた。

「あ、あの人ね。あのハイツの二〇三号室に住んでいるっていう調律師さん」

「死なない調律師でしょう? 春加コンサートホールのピアノを聴いても平然と帰ってくるっていう」

「春先に越してきたって聞いたけど……ものものしい噂の割には、随分若くてイケメン?」

「わからないわよ? 人は見た目で判断できないというじゃない。本当は不慮の事故とか自殺とかで死んじゃった浮遊霊って噂よ?」

「ええっ! 死ん」

「しっ。声が大きいわ」

 既に丸聞こえですって。

 心中で突っ込みつつ、会話の内容に苦虫を噛み潰す加瀬谷。一昨日叶李に言われたとおり、噂の中で自分は勝手に殺されている。まさかここまでになっていようとは。

 溜め息を吐く。

「ああ、でも、その噂、嘘っぱちですってよ」

 第三の声が奥様方の会話に介入する。通りすがりの別な奥様らしい。「ご一緒してよろしいかしら?」とその奥様方の席に合流する。

「え? どういうことですの?」

「いえ、ね。昨日息子の友人とたまたま街中でばったり会って。何かぐったりしているから、どうしたのかしらと聞いてみたら、あのコンサートホールで警備員をやっているらしくて、夜勤帰りだったんですって」

「あらあら夜勤! お疲れさまねぇ」

「しかもあのコンサートホール? あら、ということは……」

「そうなの、ホールのピアノを聴いてしまったらしいわ」

 話の新しい展開に加瀬谷が驚く。それは聞いていた奥様方も同じようで、あらあらまあまあとかしましい声が響く。

「大丈夫なの? その方」

「大丈夫よ。でなければお話なんて聞けませんもの。いやぁ、でもわたくしも驚きましたのよ? 目の前にいるのは実は幽霊なんじゃないかって思ったくらい」

「幽霊ではなかったの?」

「手も足もある幽霊なんておかしいでしょう?」

 その説明に加瀬谷は苦笑する。黒いワンピースのピアニストが脳裏をよぎる。彼女は手も足もあるが幽霊だ。それを知っている身としては微妙な心地である。

「疲れているようだから、うちに連れていって、一緒にお茶を飲みながら話をしたわ」

「お茶を飲む幽霊はいないわね」

「うんうん」

 他の奥様方が納得したところで、話は本題へと向かっていく。

「それでその方ね、真夜中に見廻りをしたそうなのよ。警備員のお仕事だから仕方ないのだけれど。それで、放送室を見ていたら、どこからともなく、ベートーベンの"月光"が流れてきてね」

 真夜中の"月光"とはなかなか風流な、とずれたことを考える加瀬谷。その曲名に加瀬谷は何か話の正体が読めた気がした。

「最初、放送機器の誤作動か何かだと思って、チェックしたんですって。でも、何も動いていなくて。まさかと思いながら、ホールに向かったそうよ。そしたら、中からピアノの音がするではないですか!」

「誰かいましたの?」

「その日は演奏会もなくて、居残ってお仕事する方もいなかったらしいわ。だから、館内には警備員以外はいないはずなのよ」

 その一言に聞いていた奥様方が二人共息を飲む。

「それで、不審者と思って扉を開けたら……」

「開けたら?」

「ピアノが、ひとりでに動いていたんですって!」

「まあ!」

「彼、怖くなって他の警備員を呼びに行ったの。で、仲間の警備員ともう一度戻ったら、まだ"月光"が鳴り響いていたって。思い返せば、とても素敵な演奏だったらしいけど、そのときはそれどころではなくてね。ピアノに近づいても、やっぱり鍵盤が勝手に上下しているものだから、恐怖しながらも鍵盤の蓋をばたーんって閉じたらしいわ」

「っ!?」

 加瀬谷は声を上げそうになるのを必死でこらえた。

「だんっていう不協和音の後は一切音はしなくなったらしいけど……怖いですわよね」

「ええ、本当に。学校の七不思議を思い出してしまいましたわ」

「他の方も一緒だったなら、間違いございませんわね」

 のどかに言葉を交わしていく奥様方の傍らで、加瀬谷は手を震えさせていた。

 先程の話の影響か、指の付け根が痛む。いきなり鍵盤蓋を閉められたら打ち付けるであろう指の付け根が。

 加瀬谷は包み込むように手を胸に抱き、瞑目する。……痛かっただろう。

 脳裏に浮かぶピアニストの姿に加瀬谷はいてもたってもいられず、ちょうどやってきたアイスティーを飲むこともなく、会計を済ませ店を出た。

 迷いなくコンサートホールに向かって走っていく。バスを待ってはいられない。

 走って、走って、走って。

 着いた頃には日が傾き始めていた。

 今日は休みだったのでは? と訝しむ事務員たちには目もくれず、加瀬谷はホールの扉を開けた。

「由依さん!!」

 ピアノの側に由依の姿はなかった。加瀬谷はステージへ上がっていく。すると袖の方からあ、と小さな声があった。

 声のした方に向かうと、袖の奥、柱の陰にしゃがみ込む人影。黒いワンピースの裾がふわりと揺れていた。

「由依さん?」

 加瀬谷が息を整えながらその名を呼ぶ。陰の肩がぴくりと跳ねた。少し怯えるように。

 そこで加瀬谷は以前顔を合わせたときに喧嘩別れになっていたことを思い出し、柔らかく声をかけた。

「由依さん、この間はすみませんでした。頭に血が上ってしまって……」

「いいえ」

 静かな声が返ってくる。

「私の方こそ、ごめんなさい。貴方が調律していないピアノを弾いてよくわかったの。あのピアノ()には貴方が必要だって」

 由依は柱に隠れたまま、出てこようとしない。

「だから……ごめんなさい」

「由依さん?」

 由依が立ち上がり、不意にその姿が消える。加瀬谷が名を呼ぶが、返事はない。

 言い様のない不安が加瀬谷の胸を占める。慌てて柱に駆け寄る。当然、由依の姿はない。辺りにも人気はなく、由依の後ろ姿も見当たらなかった。

「由依さん、由依さん!」

 ステージ、ホール内、地下……館内中を探して回るが、その日由依の姿を見ることはなかった。




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