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 その頃、春加コンサートホールでは。

 誰もいないホールで、由依がピアノに触れていた。

 今日は加瀬谷が休みらしいというのは館内をさまよっているうちに知った。

 由依はステージの上で一人、ピアノを弾きたい衝動に耐えていた。加瀬谷の調律していないピアノを弾くのは躊躇われた。先日の一件がある。まだそのわだかまりも解けていない。

 けれど、ピアノが弾きたい。

 "月光"を練習したかった。加瀬谷に聴かせたくて。真っ暗な"月光"、青白い"月光"、淀んだ"月光"。由依の中には様々な"月光"のイメージがある。

 その中で一番好きなのは緑の"月光"。

 夜の静けさ、暗さを持っていながら、同時に月の仄かな明るさを放つ、そんな"月光"なのだ。

 由依は共感覚で五感が鋭い分、自分のミスに苛立ちやすい性格をしていた。完璧主義とまではいかないが、自分の理想に一度到達すると、そののちも理想どおりにできないと満足できない質なのだ。

 だから、理想の演奏を加瀬谷に聴いてほしかった。

 とはいえ、今はまだ昼間で、ホール内には誰もいないが、事務員は通常どおり勤務している。加瀬谷がいないのに勝手にピアノが鳴り出したら、騒ぎになるのは間違いない。

 普通にピアノが弾けるから時折忘れそうになるが、由依は幽霊。加瀬谷以外の人間には見えないのだ。そんな由依がピアノを弾けば"ひとりでに鳴り響くピアノ"である。一体どこの学校だという話だ。

 夜に弾こう、夜に。

 そう自分に言い聞かせ、由依は手を引っ込めた。


 草木も眠る丑三つ時……とはいかないが、真夜中のことである。

 春加記念コンサートホールの今日の夜勤警備員はやる気に欠ける若者だった。

 一応自分の当番なので見廻りに行くが、内心かったりー、と思っていたりする。

 懐中電灯を携え、暗い館内を回る。じっとり暑い空気がだるさを倍増させた。

 こんな夜中にクーラーも入らない場所に入る物好きなどいないだろう、と半ば投げやりに確認する。館内は夜になると警備員室以外の電気が落とされ、クーラーも明かりも使用できない。故に懐中電灯を持って暑い中を歩かねばならないのだ。

 やる必要あるのか、この巡回……ととことんやる気なく歩き回る警備員。地下の練習室、楽屋を見て回り、残るは放送室とホール。さっさと終わらせ、クーラーの効いた警備員室に戻りたい警備員の足は自然と早くなる。

 放送室の扉を開け、中をぐるりと照らし、誰もいないことを確認。

「放送室ー、異常なーし」

 適当に掛け声を上げて出て行こうとしたそのとき。

 薄暗いこの場によく似合うしっとりと静かな旋律。柔らかなピアノの音色で奏でられるのは、ベートーベンの"月光"。窓が閉鎖されてほとんど密閉空間の放送室に青白い光が射し込む──そう錯覚するほどにピアノの音色が部屋ごと警備員を包み込む。

 しばしその旋律に浸っていた警備員だが、ふとあることに気づく。

 この音はどこから?

 はっとし、放送室内をもう一度照らす。何かの機器が作動している様子はない。放送機器の誤作動ではないようだ。

 となるとピアノの音など、閉鎖された窓の向こうのホールからとしか考えられない。

 しかし、今日は誰も館内に残ってはいないはず。ここのピアノを担当する調律師はそもそも今日は休みであるし、今日明日とこのコンサートホールでは珍しいことに演奏会はないため、奏者の可能性もない。

 不審者か、と警備員はようやくそれらしく緊張を高めた。汗の滲む拳を握りしめる。

 放送室を出て、ホール入口へ向かう。扉に耳を当てると、やはりピアノの音。変わらず"月光"を弾いている。

 そこで脳裏をふと、ある噂がよぎる。この辺りでは有名な都市伝説。「春加記念コンサートホールのピアノを夜に聴くと、死ぬ」というもの。"死ぬ"。それを思い出し、ぞくりと背筋を悪寒が走る。

 おれ、死ぬのか? などと考えたら、足がすくむ。必死にそれをこらえ、扉の向こうを睨み付けた。あんなのはただの噂話。鵜呑みにする必要はない、と自分に言い聞かせる。

 実際に人死にがあったため、信憑性があるのがこの都市伝説の厄介なところである。当然この若者も警備員になるときに一通りの事件は教えられた。懐中電灯を握る手が震える。

 待て。そういえば最近、別な噂も広まっているんだっけ。

 警備員はもう一つ噂を思い出す。確か、"死なない調律師"という話だ。現在ここのピアノを担当している調律師はどんなに遅い時間までピアノのところにいても死なない。このことから、この調律師は実はもう他界していて人間じゃないなどの新たな都市伝説が生まれ始めているが、この警備員は何度かその調律師を目撃している。彼は正真正銘人間だ。夜、よほど遅くなったときでない限り、バスを使って帰る。それに事務員たちとも普通にコミュニケーションを交わしており、なかなかの好感度を得ている。そんな幽霊がいてたまるか、と調律師と同年代の警備員は思った。

 ちょっとした嫉妬心も混ざっていたが、それはさておき、不安が紛れてくる。そう、ピアノを聴いて死んでいないやつはいる。自分はそれを見ているのだから、死ぬとは限らない。

 落ち着いてきた警備員は意を決して扉を開け放つ。

 すると、そこには。

「……え?」

 警備員はステージを照らす。

 そこには、誰もいない。しかし、ピアノは鳴り続けている。

 ステージに近づく。すると、ピアノの鍵盤蓋は開いていて──鍵盤がひとりでに上下しているのが、見えた。

「あ、あ、うわあああああああっ!!!!」

 警備員は一目散に逃げ出した。




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