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 クリスマス事件の真相……なのだろう、これが。

 本当にピアノに関係がなかった、と考える傍ら、加瀬谷の手はページをめくる。

 次が加瀬谷にとっては本番だった。

 十七年前に起きた"警備員首吊り事件"である。


「警備員首吊り事件。

 不謹慎ではあるが、この事件の面白いところはどんな記事を見てもこの首吊りを"自殺"とも"殺人"とも書いていないことだ。

 意外とこの件に関しては箝口令、もしくは報道規制が徹底されていたのかもしれない。

 となると記事を鵜呑みにして調査するのは愚の骨頂だろう。

 そういう結論に達したので、俺はとりあえず写真資料だけを頼りに俺なりの推理を展開してみた。

 推理といっても、基礎は報道の一部と言っていることは一緒。他殺説。ロープとは違う紐ないしは糸の跡、と言われたらどんなやつだってその結論に達する。つまりこれはこの事件の推理における前提条件なのだ。

 使われた糸、太さは糸と言われるくらいだ。一ミリ程度だろう。首の跡の中には切り傷になっている部分もあった。となれば、職業柄、凶器となり得そうなものは一つしか浮かばない。

 ピアノ線だ。

 しかし、だとすれば許し難い事件だ。あの別嬪さんが悪意の実行のために傷つけられたということになる。

 俺がついていながら、と情けなく思う。が、確定事項ではないため、チェックを行おう。

 ピアノは基本的に二百三十本程度の弦で構成されている。春加記念コンサートホールのピアノの場合は二百三十七本と聞いた。前任からの引き継ぎ資料だ。引き継ぎは大事だな。案外役に立つ。

 それはさておき、だ。明確に数字がわかっているのなら話は早い。つまりは一本でも二百三十七本に足りなければ、ピアノ線絞殺説が証明されるのだ。

 しかし、ピアノ線二百三十七本を正確に数えようとするのはあまりに骨が折れる。

 ここで俺の裏技が役に立つわけだ。

 俺がピアノ線の数を数えるときの裏技は──歌を歌うことだ。鼻歌でも何でもいい。"×××"を歌うのだ」


 耳寄りな裏技なのだが、肝心の部分がこすれてよく見えない。

 どこか納得がいかない気持ちを抱えながらも読み進める。紫埜浦が試した結果が書かれている。


「二本足りないな」


 まさかの事実だった。

「二本も……」

 加瀬谷はぎゅと唇を噛む。ノートを持つ手は震えていた。


「細い裸線の方だな。まあ元々遺体に残った跡から考えて巻き線の可能性は低かったが。そもそも裸線の方は高音で一音につき二、三本ついているから上手いところを切れば音に大きな支障は出ない。……まあそれは一般人の感覚でだが。

 音感の鋭いやつ、同じ畑の人間からすると辛い事実だ。弦が一本あるかないかで随分と音質が変わる。調律師の作業で言ったら"整音"の部分に多大な支障が出るな。"調律"もだが。

 これを語り出したら当初の目的に沿わなくなるのでこの辺にして、この件に関しての結論を言おう。

 線は二回切られた。以上」


 その後は一応といった体で数ヶ月前の子どもの死亡事件の記事について書かれていた。興味がないのか、記事をなぞっただけの情報のようだ。

 興味がないのは加瀬谷も同じだった。すぐにノートをぱたんと閉じる。

 "線は二回切られた"。端的に書かれた結論に加瀬谷は少なくない衝撃を受けていた。

 明確な表現はされていないが、二回というのはおそらくこの事件以外にも一回ということだ。

 あのピアノが哀れに思えた。

 何故元々の主人を失ってのち、このような目に遭わねばならないのか。

 あのピアノはきっと悲鳴を上げているのだ。傷つくのなら、もう弾かれたくないと。

 そう思うと、加瀬谷は今の仕事に対して疑問が生じる。──あのピアノを治し続けるべきなのか、と。

 調律というのは楽器の修理というのとは少し違うが、奏者が弾きやすいように"治す"のが役目だ。

 加瀬谷が調律し続ければ、あのピアノは弾かれ続ける。望まぬのに弾かれ続けなければならない。

 ピアノを愛する調律師として、ピアノを苦しませてしまうのは嫌だった。人の好奇の餌食になるのも。

 あのコンサートホールの公演がほとんど休みなしで行われるのは、調律師がピアノを丁寧に調整するから、とピアノについた噂が人を呼んでいるという理由がある。面白半分に人が寄ってくるのだ。噂という偽りにすりより、真実をないものとして見ようとしない。それが真実(ピアノ)を苦しめるとも知らず。

 ある意味、隣の部屋からの紙ひこうきに書かれたことは正しいのかもしれない。あのホールにはもう行くべきでは……

 しかし、加瀬谷が仕事を辞めたところで、あのピアノの環境が変わるわけではない。新しい調律師に声がかかり、あのピアノは調律され、弾かれ続けるだけ。

 どうすればいいのだろうか。

 加瀬谷は頭を抱えながら、紫埜浦の日記を一つ開く。


「ピアノは奏者のために存在する。ただ弾かれるだけ。そんなピアノのために調律師は存在する」


 ぱらぱらとめくった先、そのノートの一番最後のページにそう綴られていた。

 その一言が加瀬谷の脳裏で紫埜浦の声で告げられる。

 ある記憶が蘇る。

 それはまだ調律師の勉強を始めたばかりの頃。

「加瀬谷、お前にとってピアノは何だ?」

 突拍子もなく、紫埜浦にそう問われた。

 そのとき加瀬谷は迷った果てにこう答えたのだ。


「……友達」


 ピアノは何も言わない。ただ彼が抱える思いを汲み取って、それを音に変えて流してくれる。

 "友達"のいない加瀬谷にとっては数少ない安らげる存在だった。

 加瀬谷の答えに紫埜浦は満足げに笑い、その頭を乱雑に撫でた。

「それ、忘れるなよ」

 調律師になるならその友達(ピアノ)のために全力を尽くせ──

 それが紫埜浦の教えだった。

 ならば、やることは一つだ。

 日記を仕舞った加瀬谷からは迷いが消えていた。




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