ろ
「こんにちは。今度二〇三号室に越してきました。加瀬谷縁です。よろしくお願いいたします」
「あらあら、まあまあ、ご丁寧にどうも。二〇一の叶李秋子です。どうぞどうぞ、こちらこそ、よろしくよろしくでございます」
独特な言い回しをするおばあさんにひょろっと背の高い青年が会釈する。目を細めて人のよさそうな笑みを浮かべているが、実は彼はおばあさんの開けたドアの隙間から見えるものを目で必死に数えるという謎の行動をしていた。
「僕、"並列回路性思考乖離症候群"という病気で、簡単に言うと挙動不審になるんですよ。だから言ってることとやってることが噛み合ってないっていう変な挙動をたくさんすると思うのですが、あまり気にしないでくださいね」
「うんうん。難しいことはよっくわかんねぇけども、大変さぁね。うん大変。わかったよ。加瀬谷さんだったね。加瀬谷さん?」
「はい。よろしくお願いいたします、叶李さん」
では、と去ろうとした加瀬谷を叶李というおばあさんが引き留めた。
「二〇二号室には行ったか? 二〇二」
「いえ、これから伺おうかと」
「んで、訪ねんでいいから」
「誰もお住まいになってないとか?」
「訪ねんでいいから」
「ええと、今ご在宅でないとか?」
「訪ねんでいいから」
やんわりとした笑顔で、しかしそれ以外のことを頑なに語ろうとしない叶李に戸惑う。諦めて、加瀬谷は一階の住人について聞いてみた。
「うんうん。一〇一はね、細軒さん。一〇二が梶さん。一〇三は……あ、今帰ってきたみたいだな。ほら下の下の男の人。あの人と家族が住んでる。名前は」
「半村さん!!」
叶李が紹介するより先、加瀬谷が叫び、手を振る。仕事帰りらしいかっちりとしたスーツ姿の男性が加瀬谷に気づき、驚く。
「加瀬谷くん、久しぶりじゃないか」
男性がわざわざ階段を上ってきて、顔を合わせる。
叶李だけが状況を理解できず、きょろきょろと二人を交互に見て問いかけた。
「お知り合いかい? 知り合い」
「はい。半村さんは兄弟子で」
「んん? 半村さん、サラリーマンだったはず。違ったかねぇ? うん、違った?」
「おばあさん、彼はピアノ調律師だよ。変わっていなければ、"紫埜浦夜嘉多"先生を師に仰いでいるはずだ」
「師匠は先日逝去しまして……」
「なんと、知らなかった。御愁傷様です」
「それで、半村さんも以前、調律師の勉強を同じ師の許で」
「そうなんかそうなんか。なるほどね」
叶李がうんうんと頷き、納得するのを見てから、半村と共に加瀬谷は下の階へ向かった。
加瀬谷は一〇一号室から順に訪ね、最後に半村の家に上げてもらうことになった。
ぴんぽーん。
一〇一号室の呼び鈴を押すとすぐにがちゃりとドアが開き、初老くらいの人当たりのよさげな男性が出てきた。白い毛糸のセーターを着ていて温かそうだ。
「こんにちは。二回の二〇三号室に越してきました。加瀬谷縁と申します」
「ああ、どうもこんにちは。二〇三号室の。はじめまして。私細軒責です」
柔らかい笑みを浮かべて男性は答えた。言葉を交わしながら、加瀬谷はまたしても、細軒の部屋に目をやる。戸の隙が狭くてあまり見えないのだが、昼間にしては中が暗いように思う。
「どうしました? 部屋に何か」
「あ、すみません。落ち着きがなくて」
不審に思われたらしく、慌てて加瀬谷は説明する。
並列回路性思考乖離症候群。加瀬谷は特殊な脳構造をしている上に脳の発達のしすぎが影響して、こんな病を抱えるようになった。
病、といっても死に至るようなものではなく、分類としてはダウン症や自閉症スペクトラム症(旧名:アスペルガー症候群)に近いだろう。
加瀬谷は頭はいいし、障害と思えるほどの不都合な体や思考回路をしていたわけでもない。しかし、思考回路と行動のずれが激しい。それは他愛のない会話をしながらドアの隙間から部屋の様子を確認するといった行動に現れている。
加瀬谷は一度に複数のことを考えられる回路の持ち主なのだ。
聖徳太子は十人の話を同時に理解することができた、などという話があった。簡単に言うと加瀬谷はそれができるのだ。
そんなことを短くまとめて細軒に説明する。細軒は珍しい病気ですね、と相槌を打った。
「今のように不審げな行動を取ったりするかもしれませんが、他意はないのでどうかご理解を。ご迷惑をおかけします」
「いえいえ。そういったご病気をお持ちだと、大変ですよね。承知いたしました。よろしくお願いしますね」
さて、次は一〇二号室、と思って呼び鈴を鳴らすが、そこですぐ扉を開けたのは隣の細軒だった。
「梶さんちは呼んでも出て来ないよ」
「ご不在ですか?」
加瀬谷が問うと、細軒は眉根を寄せ、渋い顔をした。
「いるにはいるけどね……大きな声では言えないが、梶さんはひきこもりなんだ。年に二日ほど空けるくらいで、後はずっと家の中。出てくるのは郵便配達のときだけだよ」
「はぁ、そうなんですか」
言われ、加瀬谷は一〇二の扉をじっと見る。
事情は知らないが、そういうことなら無理に引っ張り出すこともないだろうと扉の向こうに挨拶をし、細軒に礼を言った。
次は一〇三、半村の家だ。
「こんにちは」
「あら、いらっしゃいませ」
呼び鈴に応じて出てきたのは若々しい艶々した肌の奥さんだった。
「どうも。僕はこの度二階の二〇三号室に越してきた加瀬谷縁と申します。半村さんですよね。先程、由行先輩とお会いして」
「あぁ、今お話ししていたところですわ。貴方が主人の弟弟子さんね」
上がって、とスリッパを用意する奥さんに軽く頭を下げ、加瀬谷は中に入った。
部屋は1LDKで結構広々としている。当然二階にある加瀬谷の部屋も同じ構造なのだが、入居したばかりでいささか殺風景な自分の部屋に比べると、半村宅は生活感があり、温もりに溢れていた。
居間に入ると加瀬谷の足にどんっと何かがぶつかる。
「うう、いあいよぉ……」
「わわ、ごめん」
しゃがむと、小さな男の子。男の子というには髪が長く、愛らしい面差しをしているが服装はやんちゃ盛りの男の子らしく、泥跡がついたもの。今少し濡れている。水遊びでもしていたのだろうか。
「あら灯くん、また駆け回っていたの? 駄目じゃない、もっと気をつけて歩かなきゃ」
「らって、らって、知らないお兄ちゃんがどんって立ってるんだもん!」
ふえぇんと泣き出す男の子。加瀬谷はそっと髪を撫でた。
「ごめんね。お兄さんでっかいもんね。びっくりしたよね。お兄さんもぼうっとしてたからぶつかっちゃった。ごめんね、灯くん」
「灯、悪くない?」
「そうだねぇ、今のは悪くないかな? でも、悪いときはちゃんと謝らなきゃだよ。だから今はお兄さんがごめんなさい」
優しい表現で子どもを宥めつつ、加瀬谷は他のことを気にしていた。
子どもを撫でながら、加瀬谷は奥さんに声をかける。
「奥さん、なんか焦げ臭いような」
「ん、ああ!」
奥さんは慌てて台所の方へ。かちりと何かを止めた。
「すみません、助かりました。ガスを止め忘れるなんて」
「それは大変ですね。何も起きなくてよかったです」
「おかげさまです。助かりました」
いえいえ、と首を横に振りながら、また加瀬谷は別なことを考えている。
「この匂いは、肉じゃがですか? 食事はいつも手作りで?」
「はい。食べて行かれます?」
「それは悪いです。それに僕、午後から新しい職場にもご挨拶に伺わなくてはならないので」
「新しい職場?」
そこで奥から着替えてラフな格好になった半村が現れる。
「と、その前に。紗菜絵、灯、紹介しよう。お父さんが昔調律の勉強をしていた頃に一緒だった後輩の加瀬谷縁くんだ。加瀬谷、妻の紗菜絵と息子の灯」
「よろしくお願いいたします。ちょうど真上の二〇三号室に越してきました」
「こちらこそよろしくお願いします」
互いに挨拶が終わると半村が「それで」と話を切り替える。
「新しい職場って? 調律師の仕事、やってるのか?」
「はい。先日、紫埜浦師匠が亡くなって、師匠が請け負っていたところの一つを僕が。他のところはすぐ新しい調律師が見つかったそうですが、ここのだけはなかなか引き受けてくれる人がいないそうで」
ここの、という加瀬谷の言葉に半村が顔をひきつらせる。
「まさかお前、あそこの……」
加瀬谷は怯えた顔の半村にあっさり頷き、答える。
「はい。春加記念コンサートホールです」