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細軒責。その名には覚えがあった。
当然だ。同じアパートに住まう住人。名前くらい覚えている。一〇一号室の人当たりのいい会社員だ。
その人が昔はあのコンサートホールの警備員を?
事件簿の続きに目を走らせる。
「事件当時、三十代手前くらいだった細軒はもう一人の五十代後半──事件の翌年定年となった先輩警備員と交互に巡回したらしい。巡回は一時間ごと。春加コンサートホールは有名だが、実はあまり部屋数はなく、ホール、事務室、館長室、練習室一〜三、楽屋一〜三、放送室一〜二だけだ。
まあ、トイレなどは細々とあるがそれは置いといて。
大体どれだけかかっても全体を見て回るのに三十分もかからない。警備員は互いの戻ってくるまでの時間をそれとなく計っていたが、両者とも不自然なほど遅くなったりはしなかったという。
しかし、不可解な点がある。
何故朝まで調律師は見つからなかったんだ?
いくらピアノを愛しているとはいえ、夜明かししてまで調律しようとするやつはいないはずだ。いたとしても、なかなか帰らないことを警備員が不審に思うはず。
二人体制ということで二人共ぼけていたのだと細軒は言ったが。
いやいやぼけるなよ、という話である。そのため、三人体制に変わったのだろうが。
いまいち納得がいかないが、警察でもない俺が根掘り葉掘り聞けるわけもなく。調査はここまでとなった。
追伸。俺が春加コンサートホールのピアノ調律を始めた年に細軒は希望の企業に就職が決まったらしく、警備員を辞めた」
意外な名前の登場に驚きはしたものの、これといってピアノの変調の手掛かりになるような情報はなかった。
続くクリスマス不審死事件の資料はなんだか不承不承といった雰囲気で始まっていた。
「クリスマス事件……こいつはピアノに関係ないと思ってあまり調べていないんだが。
そもそもピアノの変調について調べるために調査しているのだから、調べなくてもいいと思うんだ。しかし、別の目的もある。
まあ、ここにあまり書くこともないから、そもそもの目的を確認するのもいいか。
俺が春加コンサートホールにまつわる事件を調べる理由は二つ。一つはもちろん、別嬪さんのためだ。ころころと風を引いたように声を変える別嬪さんを、男としちゃ放ってはおけない。
もう一つは、このコンサートホールにまつわる都市伝説を知ったからだ」
"都市伝説"という言葉に加瀬谷はぴくりと反応した。
叶李から聞いた話では自分も既にその一部に組み込まれているのだ。他人事ではない。
しかし、紫埜浦も都市伝説を気にしていたとは興味深い。
「夜にホールのピアノを聴くなり弾くなりすると死ぬ──そんなことが巷でまことしやかに囁かれるようになったのはいつからなのか。他にも早逝した曽根崎春加が生者を妬んで死の世界に引きずり込むのだとか、ピアノにとっちゃ傍迷惑な話だ。
そんな適当な与太話で別嬪さんが貶されるのは我慢ならなかった。
もっとも、噂を流す当人たちには貶している自覚など蟻ほどもないのだろうが。
困った世の中だ」
噂。それは人が生み出し、人を振り回す道具だ。形のないものであるはずなのに、人に語られることによって命を得たように一人歩きを始める。
実際その一人歩きに振り回されかけている加瀬谷は苦虫を噛んだ。
師匠もそれに振り回されたのだろうか、と加瀬谷は読み進める。
「あまり夜遅くまでいないように、と事務員に釘をさされる始末である。まあ、定時で帰れるのは嬉しいが。
さて、クリスマス事件に戻ろう。
と、この事件に関しては先に述べたとおり、書けることはあまりないのだが。
自殺事件と並んで謎の事件と称されるだけあり、本当に資料がない。
どうにかわかったのは
・ホール近くで発見された。
・仏さんは二十そこそこの男性。
・その日はしんしんと雪が降り積もるホワイトクリスマスだった。
ってことくらいか。
あああと、男の死因が"急性心不全"と公表されていることだな。
"急性心不全"というのはまあ心臓が突然異常をきたして止まってしまうってことなんだが、隠語? 的な意味合いだと"原因不明の死"を表すらしい。そんな無駄知識を持つ一部の連中が面白がって色んな憶測を立てるのだ。
本当にただの"急性心不全"かもしれないのに。
人は人の死を面白がる。それが様々なものを貶める行為とも知らずに。
それが一番顕著に表れているのがこのクリスマス事件だ。だから俺はあまりこの事件について掘ることを望まない。
それでも書くのは、俺がクリスマスの日にある青年に会ったからだ。
クリスマス事件があってから、毎年発見現場に花を供えに来ているという。といっても、冬真っ只中、花は咲かないので、折り紙だ。赤い丸い花。ジニアだそうだ。百日草だっけか。
そいつは"クリスマス事件で出た死人は自分のせいなんだ"と語った。
待ち合わせをしたのに、すっぽかしてしまったから、ずっと待っていたあいつは……と。
色々聞いたが、本当かどうかはわからない。本当だとしても、俺はそいつのことを詰る気にはならなかった。
図書館で調べたんだが、ジニアの花言葉は"友を思う"だった」