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加瀬谷が向かったのは他より壁の厚い部屋。防音処理がしてあるのだ。
そこには昔に紫埜浦が買ったピアノがある。
紫埜浦があの日記で指していた"別嬪さん"はおそらくこのピアノのことだ。
中途はおそらく一冊目と三冊目の途中、つまり二冊目。
となると、「二冊目のことを知りたきゃピアノに訊いてみな」というメッセージになるのだが。
単純にピアノの上にぽんと置いてあったりは……しなかった。
「まあ、師匠だからね」
悪戯好きというか、ひねているというか。
加瀬谷はひとまず、ピアノに触れてみることにした。よくよく考えれば、当初の目的を忘れている。落ち着くのにピアノはいいだろう。
鍵盤蓋を開けると、きぃと軋んだ音がした。耳を引っ掻くような不快な音にも思えるが、紫埜浦は「これも味だ」と言っていた。加瀬谷も悪くないと思い、直さないでいる。
ぽーん、と適当に一音弾く。A(ラ)だ。
「……え?」
加瀬谷は首を傾げた。弾いたのは一音だ。それなのに、音を聞き分けた?
自分の耳を疑い、もう一度別の音を一つ弾く。
「C♯(ド♯)って、やっぱり」
不審な感じがしたが、加瀬谷は聞き分けられる原因がわかった。
屋根を開け、突き上げ棒で支える。すると露になった弦たちの上にノートが置かれていた。弦にノートが干渉して複数の音を生んでいたようだ。
しかし、妙である。ピアノの弦の上に物を置くなど、調律師としてはもっての外である。弦は丈夫だが、万が一歪んだり、傷がついたりしたらことだ。
ノートという軽い物なのでいいかと思う反面、誰よりもピアノを丁重に扱った紫埜浦が何故このようなことを、と疑問を抱く。
ノートは二冊。どちらも同じ大学ノートで、片方は日記の二冊目、もう一方は当初の目的である調律日記だ。
何故こんな場所に。まるで隠しているようだ、と考えながら、加瀬谷はぱらりと"二冊目"の方を開いた。
「加瀬谷に仕事道具を揃えてやった。異様に目をきらきらさせていた。普通、中学生の男子といったら、もっと別なもんに興味を持つもんなんじゃないかと思ったが、これが加瀬谷というやつだ。調律の仕事を楽しいと思ってるんなら、それ以上のことはない」
「加瀬谷に引き換え、半村はどうだ? 音感がないのは持って生まれた素質があるから仕方ないとして、ピアノに対する真摯さが足りない。見た目どおりなよっちいし。自分から勝手に師事しといて、俺の仕事を見にも来ない」
「……俺はあまり半村が好きになれん。やつは努力をしない。調律道具も揃えなければ、音感を補うチューナーも買わない。やる気があるのか? もう会ってから何年経つ? 何の努力もなく、加瀬谷を妬ましげな目で見るな」
「加瀬谷が俺に謝りに来た何事かと思ったら、チップを一つなくしたらしい。かなり気に病んでいるようで、終始どんよりした顔をしていた。しかし、珍しいこともあったもんだ。俺と違って物の管理が完璧な加瀬谷がなくし物とは」
「許せねぇ。半村のやつ。あいつが加瀬谷のチップを盗んだんだ!! あいつが今日チューニングピンにつけたチップに、見覚えのある傷がついていた。あれは加瀬谷のだ。俺が落としたときについた傷と加瀬谷が落としたときにつけた傷。二度と落とすまいといつも大切に使っているのを見ていたんだ。間違いない」
「半村を破門した。調律師になんてなるなと激怒した。半村がどうするかはわからないが、俺はあんなやつの顔、二度と見たくはない。逆ギレして道具を投げるやつがあるか!!」
苛立ちも露に書き殴られた文面に加瀬谷は絶句する。
紫埜浦が半村をここまで嫌っていたというのも驚きだが、半村が自分のチップを盗んでいたというのにも驚いた。事実かどうかは文面のみなので判断しかねるが。
それに、半村が自分からやめたと聞いていたのが、本当は紫埜浦が破門したのだというのも衝撃をもたらした。
二冊目はほとんどそれで埋められていた。なんとなく、人に見られたくなかったのだろう、と加瀬谷は隠されていた理由を察する。
色々とショックを受けたが、本題の方に移ろう、と加瀬谷は調律日記を開いた。
そこにはピアノ調律の基本的な作業手順が最初に書かれており、何度も何度も書き込みがされた様子がある。おそらく調律を知らない者には読み解けないような"汚い"ページが広がる。
ほうほう、と加瀬谷は唸りながら読み進め、やがて紫埜浦が担当したあらゆる場所のピアノについて書かれていた。
ピアノごとにページ分けされていて、専任していたピアノは一年か半年ごとに書き込みが追加されたらしく、書き込みの脇に括弧書きで日付が綴ってある。
ページタイトルに「〜の別嬪さん」とつけられているあたり、いかにも紫埜浦らしい。
かなり多くのピアノを調律したのだな、と加瀬谷は改めて師の偉大さを実感する。担当したピアノのほとんどが専任である。
紫埜浦夜嘉多といえば、調律師の中では有名な人物だと聞いていたが、このノートを見ると師匠がどれだけ信頼に見合う仕事をしていたかが窺える。
と、それはいいのだが、なかなか目的のページが見つからない。"春加記念コンサートホールの別嬪さん"が見つからないうちにノートが終わってしまう。
ところが、最後のページを開いたところで、ぺらりと紙が一枚落ちた。メモ用紙だ。
そこにはこう書かれていた。
「一番手のかかる別嬪さんはパンドラの中にこもった」