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加瀬谷は家の中を散策していた。
というのも、今回の目的の一つに、春加記念コンサートホールについての資料を探すというものがあるからだ。生前、紫埜浦は調律日記をつけていた。それにはきっとあのコンサートホールのピアノについても書かれているはずだ。
それに図書館で柄仁枝が紫埜浦もよく来ていたと言っていた。つまりは紫埜浦も春加コンサートホールについて調べていたのだ。
師匠なら、ピアノの異変について自分より詳しかったにちがいない──そう思って、加瀬谷はかつての紫埜浦の私室に向かった。
紫埜浦の私室は以前来たときのまま──紫埜浦が生きていたときのままだった。
箕舟はまだ心の整理ができず、なかなか片付けられないと苦笑していた。故に紫埜浦がいた当時のままなのだ、と。
紫埜浦の部屋は雑然としている。読みたいときに読みたい本を次から次へと手に取る紫埜浦は本を片付けず、山積みになるまで机に置き続ける癖があり、近づくたびに本の雪崩に遭っていた。
山積みでなくとも、開きっぱなしの本がばらばらとページが変わったりして、よく寄るなと言われたものだ。
机には、あの日のままなのであろう開きっぱなしのノートがある。文鎮のつもりか片側のページにどんと辞書が乗せられていた。
ノートを覗くと、そこにはなんてことない日常が綴られていた。ただの日記らしい。
「今日は最後にうちの別嬪さんを眺めて酒を飲む。加瀬谷のピアノを聴きたかったなぁ。あいつのピアノは酒の肴にちょうどいい」
そんな紫埜浦の言葉に加瀬谷は仄かに笑う。
「酒の肴って、それ褒め言葉ですか?」
全く、と息を吐き、ぴらりと前のページを見る。
遡っていきながら、懐かしさが込み上げてくる。紫埜浦の語り口そのままに綴られた気ままな日記。主に語られていたのは加瀬谷や妻の箕舟のこと。それと別嬪さん──ピアノについてだ。
ピアノも主に家に置いてあるピアノのことで、身内自慢のような端から見ると恥ずかしくなるような文章ばかりが連なっていた。
「うちの別嬪さんを弾く加瀬谷の音は一味違うな。最近調律師としての腕前も上がってきたが、弾く方も上手い。芸達者で羨ましい」
「別嬪さんに加瀬谷のピアノ演奏、箕舟の手料理。幸せだなぁ。箕舟の前でピアノを別嬪さんと呼ぶとどつかれるのが難点だが」
「加瀬谷が調律師になると言った。俺に異存はない」
「箕舟、愛してるぜ。
なんて面と向かって言えるか馬鹿!!」
「わー……師匠のろけてる」
若干引きつつ、最初のページまで行く。一昔前の大学ノートだ。似たようなものがその辺にざったに置かれていた。
表紙に番号が振ってあり、"一"というのをどうにか見つけて開いてみると。
「今日から加瀬谷縁というのが俺の子になった」
まだ日記を書き慣れていない固い文面で始まっていた。
主目的はこれではないのだが、つい興味をひかれて見てしまう。
「並列回路性思考乖離症候群。長ったらしい名前の病気だが、日常生活に支障をきたすようなもんじゃない。なら、それで充分だと俺は思うんだが」
「加瀬谷のやつ、ガキの癖に俺のこと"おじさん"などと呼びやがる。誰がおじさんだ。俺はまだ三十だ。せめて"お父さん"と呼べ」
「ぶつくさ文句を言っていたら、箕舟に笑われた。"お父さんと思ってもらえるようなことをしましょうね"だと。父親らしいことってなんだ?」
「よくわからないので仕事のことを教えることにした。幸い加瀬谷は音楽に興味があるらしいし、"調律師って何?"とすぐに訊いてきた」
「今日から加瀬谷は俺の弟子!!」
「加瀬谷は独特な音感の持ち主らしい。単音は判別できないのに和音は一発。わからないやつ」
「加瀬谷にわかりやすいように一台ピアノを買った。しばらく贅沢できんが、まあいい。これは父親らしいことだろうか」
「加瀬谷が箕舟を"母さん"って……! 俺、まだ"父さん"って呼ばれてない……」
「半村ってやつが俺に調律を教えてほしいそうだ」
「うちの別嬪さんはご機嫌だ。春加コンサートホールのやつもこれくらいなら可愛いのにな。まあ、俺にとっちゃどっちも別嬪さんだが」
ばらばら、ばらばら。
紫埜浦の語り口にくすくす笑いながら読み進めていく。
一冊目はかなり時間がかかったようで、五年分くらいのことがまとめられていた。
机に開かれていたのは三冊目だ。二冊目を探す。
……ない。
「師匠、どこに」
整理整頓はなかなかできない人だったが、連番に関してはきちんとまとめる人だったはず、と思い、首を傾げながら辺りを探す。
がさがさとやっているうちに何の拍子か三冊目が落ち、がばっと開いた。
「中途が知りたきゃ、別嬪さんに訊いてみな」
走り書きで、そうあった。
加瀬谷はしばしそれをまじまじと見つめたあと、はっとして部屋を出た。