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 コンサートがないため、久々に休暇が取れた。加瀬谷はいつもどおりの時間に起き、伸びをする。仕事には行かなくていいが、今日は出かける用事がある。そのため身支度を始めた。

 台所に立ちながら、隣の部屋の方に耳を傾ける。今のところ、物音はしない。まだ六時の時報も鳴っていないから眠っているのだろう。

 しかしながら、今まで気にしたことはなかったが、隣の部屋に住人がいるとは。越してきた日の挨拶回りの最中、叶李にぼやかされてしまって、すっかり忘れていた。

 叶李はここに二十年以上住まう古株なのだから当然知っていただろうに、どうして教えてくれなかったのだろうか。

 疑問を抱きつつも、出る前に挨拶していこうと決め、その件は自分の中で収めることにする。

 そうしている間にポーチドエッグが完成。レタスとトマトを乗せたパンの上にポーチドエッグを乗せ、更にその上からオーロラソースをかければエッグベネディクトの出来上がりだ。

 ポーチドエッグやオーロラソースなど、何やら横文字の多い料理だが、作り方は案外簡単なので、加瀬谷は好んでよく作る。

 殺風景な部屋に似合わぬこじゃれた料理がぽんと置かれた。

 加瀬谷が「いただきます」と丁寧に挨拶を口にしたそのとき。

 ひらり。

 日の出の光を入れるため開けたカーテンの向こう、ベランダに舞い降りるものがあった。紙ひこうきである。

 すぐに浮力を失い、ふわりと加瀬谷のベランダに落ちる。方角から見て、また隣から来たようだ。折り方も昨日と同じ。

 加瀬谷は事務的な面持ちでひこうきを開く。昨日同様、血文字があった。


「きをつけろ」


 またしてもひらがな。その上不明瞭。何に気をつけろというのか。首をひねっているとちょん、と何かが刺さる。見ると、また紙ひこうきだ。

 加瀬谷は隣の部屋を見た。ぴしゃり。即座に閉まる音。やはり、送り主は隣の住人のようだ。

 もう一枚は何を書かれているのやら。特段、何の感情も抱くことなく開く。


「あのほーるには、もういくな」


 やはり奇妙な文面だ。

 何故紙ひこうきでわざわざ飛ばしてくるのかもわからない。

 内容からすると脅迫というよりは警告とか忠告といった匂いが強い。そこまではわかるが、それ以外はてんで読み取れない。

 挨拶に行ったときに聞いてみるか。

 そう軽く流して加瀬谷は朝食に戻った。


 準備をして、出る。

 その前に、と隣の部屋の呼び鈴を鳴らす。反応はない。

 代わりに二〇一号室から叶李が出てきた。

「あらあらあらあら加瀬谷さん。加瀬谷さんは今日も早いのねぇ。ほんに早い」

「おはようございます」

 独特の言い回しが頭に響く。

「叶李さんも早いですね」

「年寄りの朝は早いんよ。早いんよね」

 年齢のことを言われたら、加瀬谷は苦笑いするしかなかった。

「ところで加瀬谷さん。加瀬谷さんは今日もお仕事? お出かけのようだけれど、お仕事なのかしら?」

「いえ、今日は仕事は休みです。久しぶりの休みなので、羽根を伸ばしてきます」

「あらそう。ゆっくり、ゆっくりね」

 他意はないのかもしれないが、いちいち二回繰り返す叶李の言葉に何か含みを感じてしまうのだった。


 十分もかからず、駅に着いて、加瀬谷は電車に乗った。

 行き先は籠沢市の隣町・卯月町だ。

 卯月町は人口が少なく、特にこれといった名産物もない田舎である。せいぜい春加コンサートホールの公演に遠くから来た者が宿泊する旅館がある程度。

 そんなところに何故加瀬谷が行くかといえば、墓参りである。

 調律師の師である紫埜浦夜嘉多。春先に亡くなった師は卯月町出身で、当然墓もその地にあった。

 来月には初盆なのだが、残念なことに加瀬谷は盆が仕事で埋まっている。春加コンサートホールは毎年お盆休みには四日間かけて慰霊コンサートを開催するらしい。コンサートホールの一大イベントだ。ピアノに何か不具合があってはいけないから、と館長の富貴屋に言われた。

 本当なら、師の初盆を優先させたいところだが、富貴屋の有無を言わさぬ語調に逆らえば、辞めさせられるかもしれないと思い、引き受けてきた。

 それでも世話になった師匠やその家族には申し訳ないので、前もって尋ねに来たわけである。

 木造の一軒家に着く。そこで古びた呼び鈴を押した。きしきしという音に遅れてピンポン、と短い音。

「こんにちは」

 声を上げると、とたとたと静かな足音がやってきて、戸を開けた。

「あら、加瀬谷くん……こんにちは」

「ご無沙汰しております」

 現れたのは少し白髪混じりの髪を一つに束ねた女性。白い割烹着を来た姿は一昔前の"お母さん"といった印象だ。

「そんな他人行儀に言わないでくださいな」

「ふふふ、そういう母さんこそ、以前のように"縁"でかまいませんよ?」

 互いに微笑み、中に入った。

 加瀬谷は幼い頃に今の障害──並列回路性思考乖離症候群と発覚し、親に捨てられた。というか、親が狂ってしまったのだ。

 どうしてこんな子が生まれたの? わけのわからない、前例のない病気ですって!? 治るようなものでもない? 冗談じゃない。面倒見れるか──などなど。両親が残した言葉は重なって他人には伝わりづらかったが、加瀬谷には理解できた。重なって放たれた言葉だからこそ、加瀬谷には理解できてしまった。

 自分は望まれた子どもではない。

 そう悟った加瀬谷を拾ったのが、父とも母とも知り合いだった紫埜浦だ。いらないってんならもらってやる。ただし返せとか言うなよ? そう言って紫埜浦は加瀬谷を連れ帰った。

「今思い出しても懐かしいな。夜嘉多先生に拾ってもらったこと」

 線香をあげ、拝みながら回想に耽っていた加瀬谷が、鮮明に脳裏に残る声に笑う。相槌を打って紫埜浦の妻──加瀬谷にとっては母代わりの箕舟(みふな)が答える。

「あなたを連れて帰ってきたときは驚いたけれど、嬉しかった。新しい家族ができてね。びしばししごいて俺の跡を継がせてやるー!! だなんて、あの人いやに気合い入ってたのよ。知ってた?」

「えっ、初耳です」

 驚く加瀬谷に箕舟は楽しげだった。

「そうでしょうね。あの人、素直じゃないもの。厳しかったでしょう?」

 加瀬谷はうーん、と首をひねる。

 加瀬谷の記憶の紫埜浦といえば、父親というよりは先生……教師のような印象だった。

 単音だと音感がさっぱりないため、聞き分けてみろと言われて「できません」と即答したときは怒鳴られた。それで和音は聞き分けられたので誉められると思いきや、「馬鹿野郎、できるじゃねぇか。なんでさっきはすぐ諦めた?」とまたしても怒鳴られた。

 怒りっぽい人、というか熱血系の教師というか。

 自分も紫埜浦も当時はまだ並列回路性思考乖離症候群という病気を理解していなかったから、ぶつかったりもしたが、大抵加瀬谷がすぐに謝り解決した。

「縁くんはものわかりがよすぎるのよ。もっと反抗してくれたってよかったのよ?」

「それだと母さんが困るでしょう」

「困らないわよ。むしろ反抗期がないから心配だったわ。あの人も、しきりに寂しがってたの。あいつは俺を父親だと思ってないんだろうかって。"母さん"って私のことは呼ぶのに、縁くんてばあの人のことはずっと"紫埜浦先生"か"師匠"でしょう? 拗ねてたのよ」

「ええっ!」

 からっとしていた師匠の姿からは想像ができない。師匠が拗ねる……

 呆然とする加瀬谷に箕舟は悪戯っぽく笑んだ。

「だから私は"あなたがいつまで経っても名前で呼んであげないからでしょう。自分から縁と呼んであげなさい"って叱りつけたわ」

 なかなかの奥さんである。そんなことを言われたのか、と思いつつ、自分の名を呼ぶ紫埜浦を思い返す。──「加瀬谷」いつだってそう呼んでいた。

「結局最後まで、呼ばなかったようね」

 箕舟が寂しそうに俯いた。加瀬谷も視線を箕舟から外し、窓の外を見る。庭の木の青々とした葉が微かに風に揺られていた。

「縁くん、仕事の方はどうなの?」

「概ね順調です。あ、そうです、お盆に来られないので、その分挨拶に来たんですよ」

「あらあら。忙しいの?」

「春加コンサートホールですからね。お盆は慰霊コンサートだそうです」

「ああ、そういえばあの人もお盆は忙しいって言ってたわね。大変ね。今日はお休み?」

「はい。明日まで。良ければ、泊まっていってもいいですか?」

「駄目なわけないでしょう。あの人がいなくても、あなたは私たちの子です。気なんて遣わずにおうちにいらっしゃい」

 そんな風にぴしゃりとたしなめられ、加瀬谷はなんとなく、思ったままを口にした。

「ただいま」

「おかえりなさい」




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