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 加瀬谷はここ数日、ずっと苛々していた。

 原因はピアノ線の本数である。毎日数えてみているのだが、毎日違う数になり、数え間違う自分に苛々していたのだ。

 といっても、その加瀬谷の挑戦自体があまりに無謀なものである。二百三十そこそこある糸の本数を正確に数えるなどそうそうできることではない。間違えても他に責めるものはないのに、加瀬谷は自分を許さないのだった。

 そもそもの加瀬谷の行動と怒りの発端はピアノ線を切った輩がいるかもしれないという予測からきている。切ったかもしれない輩へ向けられていた怒りが、度重なるミスで自分への怒りに転化してしまったのが今の加瀬谷である。

 普段からそういった感情の濁りを表に出さない分、今回一気に溢れてしまったのが、由依のあの行動だ。

 加瀬谷はそこまで注ぎ込まなくても、と思われるほどの仕事人間だ。自分へ回ってくる依頼が少ないという自覚があるからこその真面目さなのだが、大抵の人は異様に思うだろう。

 けれど、依頼主の意思に沿った調律(ピアノ)を完成させることが加瀬谷の理念だ。故に実は個人コンサート前には弾き手ごとの好みを踏まえ、僅かに音程(ピッチ)をずらしたり、鍵盤の弾き心地(タッチ)を変えたりする。

 そこまでこだわる加瀬谷にとって、調律途中に演奏されることほど不本意なことはない。理念に背く行為だ。だからあの由依の演奏は許せなかった。

 言い過ぎた自覚はあるが、いかんせんむしゃくしゃして謝る気になれない。

 まずはこの苛々をどうにかせねば。

 午後十時二十分。そう考えながら、加瀬谷は自分の部屋の扉を開けた。


 言い争いの翌日から、由依は姿を見せなくなった。気まずいのだろう。舞台袖にちらりと姿はあるが、加瀬谷も声をかけずにいた。気持ちも碌に整理できていないのに話したら、また怒ってしまうかもしれない。

 理不尽に感情を向けることはしたくなかった。

 そう思い、黙々と作業する加瀬谷を由依は不安げに見つめていた。彼女もやはり、気まずくて声をかけられずにいた。

 けれど、それまでと変わらず作業に没頭する加瀬谷の姿に不安を覚えずにはいられなかった。

 故に彼女はいつも舞台袖から彼を見守り、彼が帰るときは自分の動けるぎりぎりのところまでついていき、密かに見送っていた。


 そうして季節は巡っていく。


「やあやあ加瀬谷さん、加瀬谷さん。今日は早いお帰りだねぇ。ねぇ?」

 夏になり、夜も汗ばむ日のこと。日入り前に帰ってきた加瀬谷に声をかけたのは二〇一の叶李だった。相変わらず独特な言い回しをする。

 加瀬谷は軽く会釈した。

「そういえばさぁ、そういえばね」

 そのまま部屋に入ろうとした加瀬谷を叶李が引き留める。

「加瀬谷さんあのコンサートホールさ勤めてんだでね。あの……そう、春加記念コンサートホール」

「はい、そうですが」

 加瀬谷としては今更? というような話だ。

「あのコンサートホールね、変な噂流れてんだよ。知ってる」

「はい。幽霊が出るとか夜にピアノを聴くとどうのっていう」

 耳にたこができるほど聞いた話である。本当に今更だ。加瀬谷がここに来てからじきに三ヶ月が経つというのに。

 ところが、加瀬谷の言葉に叶李は首を横に振った。

「違う違う。そうじゃなくて、そう、あんだのことさぁね」

「へ? 僕ですか?」

「そうそ。"死なない調律師"」

 初めて聞くが加瀬谷自身は噂が立つようなことをした覚えはない。

 加瀬谷の疑問を読み取ってか、叶李が説明する。

「コンサートホールさば"夜にピアノを聴くと……"って噂がある。"夜に"ってなぁ。んで、あんだずぅっと帰り遅いからさぁ、"夜にピアノを聴いても死なない"って噂がねぇ」

「……なるほど」

 筋は通っている、などと加瀬谷は感心した。しかし話にはまだ続きがあるらしく。

「そいで、同じとこに住んでっからたまに訊かれるんさ。二〇三に人住んでんのってね。若い男の人住んでるって答えると変な顔されてねぇ。変だなぁと思って訊いたら、その"死なない調律師"は実は元々死んでて〜なんて噂が流れてるってね、流れてるんよ」

 さすがに絶句した。勝手に殺されては困る。

 噂の尾ひれとは想像以上に巨大化するのだな、と加瀬谷は唖然とした。

「僕、ちゃんと生きてますよ。あそこのピアノがなかなか曲者で、上手く調律ができないだけで」

「んださね。んださね。色々理由はあるだろうに、噂言うんは困ったもんね。困る困る」

 でも噂は噂だ、気にせんでね、と残して叶李は戻っていった。どうやらそれが言いたかったらしい。確かに、何も知らずに噂の独り歩きを知ったら気分が悪くなったかもしれない。加瀬谷は叶李の気遣いに感謝した。

 さて、家に入る。一日いなかったせいかむわっとした空気が漂う。加瀬谷は短く息を吐く。

 ここ最近はほとんど寝るためにしか帰っていない。相変わらず家には物がなく、生活感はまるでない。

 そんな部屋の電気を点け、何日かぶりの換気をする。ベランダへの窓をからりと開けた。

「……ん?」

 そこに、白い何かが落ちていた。

「紙ひこうき? 懐かしいな」

 加瀬谷はぽつりと呟いたが、彼自身は紙ひこうきで遊んだことはない。子どもの頃周りの子たちが楽しそうにしているのを見かけただけである。

 そんな過去の回想をしつつ、加瀬谷の手は紙ひこうきを開いていた。どういう風に折るんだっけ? と頭の隅で思ったからだろう。

 順を把握しようと紙を凝視していた加瀬谷の目に何故か赤い色が飛び込んでくる。

 赤?

 しかも、何か文字を描くように線が伸びている。完全に開くとメッセージが現れた。


「おまえ、しぬぞ」


 ひらがなでそう書かれていた。内容も物々しいが、それより気になるのは。

「これ、血?」

 紙に顔を近づけ、すんすんと嗅いでみる。微かに鉄錆臭い。

 かたん。

「え」

 不意に近くから物音がし、加瀬谷は音のした方を見る。外の……隣の部屋からだ。

 覗き込むと、薄暗くてわかりづらいが隣の部屋のカーテンが揺れていた。隣の部屋の住人だろう。

 ……その人の仕業なのだろうか。加瀬谷はぴたりと閉まった隣の窓と血文字の紙を交互に見る。タイミングからして、そう考えられるが。

 何なのだろうか。脅迫……というには不明瞭な文面だ。脅しなら「死ぬぞ」じゃなくて「殺すぞ」とかもっと輪をかけて物々しい内容のはず、と少しずれたことを考えながら加瀬谷は窓を閉めた。




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