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 晴れない思いを抱えて仕事に行く毎日。加瀬谷はピアノ線が一本足りないかもしれないということに気づいてからずっと重々しい雰囲気のままである。

 もっとも、普段から口数の少ない加瀬谷である。気分が重くなり、輪をかけて口数が減っても誰も気づかない。

 ただ一人、由依結生を除いては。

 由依は他と比べて加瀬谷と話している時間が長い。ピアノのこととなると加瀬谷は普段より数段多弁になるのだ。公での仕事中と一人のときとではまるで違う。

 そんな加瀬谷が、最近は誰もいなくても黙々と仕事をこなす。調律の腕が鈍ることは全くないのだが、遅くまで神経質なくらいに入念なチェックを行う。一ヘルツとてずれを許さないような鬼気迫る様相に由依には見えた。

「ねぇ、もう九時よ?」

「待ってください。まだ二十ほど整っていない」

 チューニングピンを回したり、線を弾いてみたり、ピアノに張りついて離れない加瀬谷は、ここのところ帰りは十時過ぎ。コンサートのない日は午後から来るが、毎日これでは疲れがとれないのではないだろうか。

 それに由依は別なことも懸念していた。加瀬谷に変な噂が立たないかということだ。

 春加記念コンサートホールには"夜にピアノを聴いたものは死ぬ"という都市伝説がある。夜遅くにそのコンサートホールを出、平然と帰っていく調律師……それがまた妙な噂となり、果ては生ける都市伝説、なんて扱いを受けるようになるのではないか。由依はそう思っているのだ。

 "ピアノの幽霊"が人を殺すなどと言われていることからもわかるとおり、人の噂ほど当てにならないものはなく、同時に人の噂ほど信憑性を帯びて聞こえるものもまたないのだ。

 まだそう長い付き合いではないが、ピアノに対する加瀬谷の接し方を見ていて、好意的な印象を受けていた。

 幽霊の自分が見えるのも不思議だが、普通と変わりなく接してくれる。だからそんな加瀬谷が苦しむのを見るのは嫌だった。

 今も何か余裕がない。加瀬谷は自分の内に抱えるものの話はあまりしてくれない。せいぜい病気の話くらいだ。

 何かできればいいのだが、由依にできることといえば話すこと以外ではピアノを弾くくらい。コンサートホールの外周くらいなら回れるが、それ以上外には出られない。

 由依はきゅ、と軽く唇を噛む。

 おもむろに鍵盤蓋を開けた。加瀬谷が驚いて顔を向ける。

「由依さん? まだ調律が」

 加瀬谷の制止も聞かず、由依はピアノ椅子に座って演奏を始める。

 曲はベートーベン"月光"。

 静謐な雰囲気を持っているはずの"月光"は今日はどろどろと黒くまとわりつくようなおぞましさを孕んでいた。弾きながら、暗い暗い音色に引きずり下ろされていく感覚に由依は囚われる。それでも弾き続ける。加瀬谷がどんな表情で聴いているのかは怖くて見られなかった。

 黒い雲に覆われた"月光"が過ぎゆき、場に漂ったのは前以上に重くのしかかる雰囲気だった。

 鍵盤から指を引き剥がし、由依は恐る恐る目を開ける。加瀬谷とはすぐに目が合った。出会ったその目に由依は凍りつく。

「貴女は最低です」

 何の感情も宿していない表情で由依を真っ直ぐ射抜きながら、加瀬谷は言い放った。

 由依は射すくめられ、動けなくなる。

「ピアノが最も良い状態のときに自分も最も良い状態で弾くのがプロのピアニストではないのですか? 少なくとも調律師(ぼく)はそのために存在していると思います。奏者(ピアニスト)が気持ちよく演奏できるように。だからどんなに細かくとも調律するんです。それを貴女は踏みにじって、最低の演奏をした。最低です!!」

 帰ります、と加瀬谷は道具を仕舞い、さっさと出ていってしまった。

 待って、と伸ばした手は昨日までは届いたはずなのに、すり抜けて。

 置いてきぼりを食らったような空虚感が由依の中に漂った。




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