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ちょっと由依の回想入ります。
喘息持ちには辛い描写があります。ご注意を。
肝試しで、夜に小学生の男の子二人が来たことがあった。
由依は昼間のコンサートに紛れて忍び込んでいたらしい二人がホールに入ってくるのを見ていた。彼女はピアノの傍らに立っていたが、二人にはやはり、由依の姿は見えないらしい。
一人はとててっと楽しげにピアノに近づき、静かに鍵盤の蓋を開けた。引きずられるようにしてついてきたもう一人はあまり気乗りしなさそうに椅子に乗ろうとする男の子を見る。
「ねぇ、やめようよ」
片方の気弱そうな子が好奇心旺盛な子の裾を引く。それを振り払い、好奇心旺盛な子は馬鹿にするように言った。
「なんだよ、準。怖いのか?」
「怖いよ。だって、幽霊が出たら、灯くん、どうするの?」
「ピアノだーんって弾いておどかす。てか幽霊なんていないって。何びびってんだよ? 準」
準と呼ばれた男の子は全身を小刻みに震えさせていた。自分の肩を頼りない細腕で抱く。
「だって、なんか寒い……」
「まあ、まだ雪残ってるしな。我慢しろよ」
「そんな……」
「それより」
がーっ!!
灯という男の子が掌を鍵盤に押し付けて不協和音を奏でる。準はびくっと震え上がり、由依はあまりの酷さに耳を塞いだ。
「うわー、ひっでー音。昼のコンサートんときと大違いだぞ。準も弾いてみろよ」
「や、やだよ。それよりやめて……頭痛い」
とさり。
準が床に倒れた。
「わ、おい、何倒れてんだよ! 準! ああくそ」
灯は準を抱えて外に出ていく。色々毒づいてはいるが、灯はあれでも準を心配しているらしい。
二人が外に出ていくのを見守りながら、由依は静かに鍵盤蓋を閉める。また音がずれただろう。黒眼鏡のおじさんが来たら、また顔をしかめるにちがいない。
そんなことを考えながらピアノを見つめる由依の元にどこからともなく冷たい風が吹いてくる。その風が脇をすり抜けたところで、由依はなんとも言えない焦燥を感じた。
一抹の不安。
それがじわりじわりと広がり、由依の足を動かしていた。
由依は先程の子どもたちを追う。半開きの戸から出て、開いているかどうか紛らわしい窓から外へ。
外に出て周りを探し回ると、植え込みの陰に先程の子たちがいた。
準の方が倒れている。ぜぇぜぇと喘いでいるようだ。喘息だろうか。由依はどうにかできないか手を伸ばすが……白い自分の腕は子どもの体をすり抜けた。
由依は幽霊になって以来、ピアノ以外のものには触れられなくなっていた。そのことが今はむず痒い。
けれどそんなこと、一度や二度ではなかった。慣れたわけでもないが無力を噛みしめても結果は変わらないと悟る程度には似たような経験を積み重ねていた。
だから由依はせめて灯という子どもが助けを呼んでくれれば、と願った。
しかし。
「あ、れ?」
気づけば、灯はいなかった。薄く残る雪の中に小さな足跡が点々と残っている。劇場の遥か彼方まで。
彼の影はもう見えない。戻ってくる様子もない。
由依はその事実に呆然とした。何故、何故、何故。意味のない問いばかりが頭の中をぐるぐると回る。
「こほっ……あれ、灯くんは……げほっげほっくふっ……」
苦しげに準は呟き、首を廻らせて、自分が置き去りにされたことを知る。
「あは、は。置いてきぼりにされちゃっ……た。けほっ灯くふっこほっくん、は、やっぱり……ごほっごほっごほっごほっげほっごほっくふっくぁっ……! はぁはぁはぁ……友達じゃ、なかったんだね」
誰にともない呟きが静かな空気を震わせる。準の目はもう姿のない灯ではなく、遠いけれど確かに見える月に据えられていた。
ひゅうひゅう、ぜぇぜぇ。耳にざらりとこびりつく呼吸音も次第に遠退いていく。由依は何もできずに眺めていた。
すると。
「あれ? お姉ちゃん、誰……? こほっ」
準の焦点が由依にぴたりと合っていた。
由依は悟った。この子はもう、こちら側の住人なのだ、と。
「おね、ちゃん。こほっ。何か着たほ、いい……けほっ、よ。ごほっごほっ、そだ。ぼくのジャン、パー、貸すけほっ、から、くふっ……」
よく動かない手で袖無しワンピースの由依にジャンパーを渡そうとする準。由依は首を横に振りながら、その手に触れる。すり抜けてしまったが。
「私にはいらないの。貴方が寒いでしょう?」
「げほっげほっごほっげほっごほっくふっくぁっこほっ……っく……うあああ……」
喘ぎながら、準は力なく泣いた。
それを聞き、見ることしかできない由依は、やがて咳と声が止むまで、彼を見つめていた。
由依はピアノと共に悲しい思い出をずっと抱えている。この子どもの話は一番最近のものだ。他にもたくさん知っている。
世の中でこのピアノが都市伝説となり始めているのは由依もなんとなく知っていた。子どもたちが肝試しに来たことからも、そこそこに有名な話であるはずだ。
しかし、真実は歪められているにちがいない。咳き込み、苦しみながら死んでいった準の影には見捨てた子どもの影がある。他の事件も、世間では謎のまま迷宮入りや時効となったものも、ピアノは全て真実を見ているのだ。
それを知ったとき、加瀬谷はどんな顔をするのだろうか。
由依は調律を進める加瀬谷の横顔をただただ眺める。
ピアノ調律師・加瀬谷縁は、整った面差しをしている。が際立ってきらびやかな雰囲気を纏うでもなく、彼の通常仕様はいたって普通の一般人だ。しかし、調律師の仕事中にはそれががらりと変わる。
普段より対象に対して優しいのだ。人といるときよりも安らいだ表情で客に接する。
ああ、本当にこの人は黒眼鏡の人──紫埜浦夜嘉多調律師の弟子なんだな、と由依はしみじみ思う。ピアノに対する気の遣い方は紫埜浦以上かもしれない。
それは裏を返せば、人同士の方が加瀬谷は辛そうだということも示している。
なんだか不安なのだ。かつての自分を見ているようで。
文字や音、人までもを色で判別する──色でしか判別できない共感覚を否定されていた自分のような。それ以上に危うく感じられる。
何故なら由依には加瀬谷が淡いオレンジに見えるのだ。
淡い色ほど簡単に塗り潰される。夕暮れの空も、気がつけば夜色に染まるように。