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加瀬谷が越してきて一週間が経った。
今日の加瀬谷はホールではなく楽屋もとい練習室のピアノを調律していた。こちらは年に一、二回の定期調律だ。ホールのピアノのようにしょっちゅう音を崩すということもなく、いたって普通のピアノである。
それはそうと、何故あのピアノはああもずれてしまうのだろうか。考えながら、加瀬谷は楽屋のピアノを弾く。曲は"幻想即興曲"。それが一つの生き物であるかのように加瀬谷の手が鍵盤の上を跳ね回り、次々に音を生み出していく。激しいテンポの曲であるはずだが、加瀬谷が弾くと何故だか静けさが漂う凪いだ海を思わせる。
おそらく目的はただの調律の最終確認で、表現などを気にしていないからだろう。当の本人はどんな音色だろうと無感情でピアノと向き合う。彼は演奏者ではないのだ。
しかし最後まで行かずに演奏は止まる。加瀬谷は顔をしかめていた。もちろん、自分の演奏が気に入らなかったからではない。──違和感を感じたのだ。
ホールのピアノとは明らかに何かが違う。
それは、ホールのものとは年季が違うし、ピアノは一つ一つ、ごくわずかでも差は存在するものだ。しかし、加瀬谷が感じたのはその程度の違和感ではなかった。
「屋根が変? なんですね」
加瀬谷はぽつりと考えを呟いた。
そう思うのも、今弾いていたピアノの蓋を開けていなかったからである。通常は突き上げ棒で支え、弦を叩いて出した音を響かせる役割を持つ屋根。一般的には蓋と呼ばれたりもするが、それはさておき。
屋根の角度を調整すれば当然音の響き方、広がり方も変わってくる。閉じていれば、音は広がりを見せない。
しかし、最初の日、ホールで自分が弾いた"幻想即興曲"を思い出す。酷い音程は置くとして、あのとき加瀬谷は屋根を開いていなかった。それなのにあそこまで響いたのは何故だろうか。いくらホールが音の反響をよくする構造に作られていても、楽器から音量が出なければ意味がない。
屋根を閉じているからといって音が全く出ないわけでもないのだが、あれはそういう音量じゃなかった。
そうなるとやはり屋根が変という結論に至るわけである。
加瀬谷は立ち、ピアノの屋根を持ち上げ、こんこんと叩く。突き上げ棒を凹凸部分に引っかけ、屋根を固定すると、今度は中の弦に手を伸ばした。びいぃん、と弾く。結構な至近距離だったため、鼓膜を直接叩くような音量に加瀬谷は顔をしかめた。
「さて、次は第二楽屋ですね」
ピアノを片付けると仕事鞄を携えて、加瀬谷は部屋を出た。
「あれ? 貴方まだ帰ってなかったの?」
ホールに現れた加瀬谷に由依が驚いた声を上げる。外はもう薄暗くなってきている。電子時計も十八時半を指していた。
「ええ。明日も午前中に演奏会があるそうなので、準備をしておかないと」
加瀬谷は答えながら鍵盤蓋を開ける。
ぼ〜ん……
ピアノの軽やかなそれでいてしっかりとした音程とは程遠い曖昧な音がした。絶対音感の由依が顔を歪める。相当聞き心地が悪いのだろう。
加瀬谷はそのまま二音弾く。なんとも言えない響き。不協和音がうわんうわんと唸る。
「いつもどおり、酷いわね」
「そうですね。いつもどおりですね」
由依の評価に加瀬谷は淡々と答える。しかし調律はせずにそのまま弾き続ける。何故かそれは小学校で習う「ぶんぶんぶん〜はちがとぶ〜♪」というメロディだった。
原曲は子どもの覚えやすいポップで楽しげなメロディラインのはずだが、楽しく蜂が飛び交っていない。原曲が蜜蜂だとすれば、こちらは今にも襲いかかってきそうなスズメバチである。
「あ、あの」
由依が思わず耳を塞いで声を上げると、加瀬谷がはっとして演奏をやめる。
「ごめんなさい。ちょっと確かめたいことがあって。音感持ちには辛いですよね」
加瀬谷は布をかけ、鍵盤蓋を閉めた。それから屋根を開く。
突き上げ棒を立てずに、じっと何やら見上げている。それから、とんとんと屋根を叩き、端を擦った。
「何してるの?」
意味がわからない。由依が問うと、加瀬谷は神妙な面持ちで屋根を閉じる。
「やはり、おかしいですね」
「何が?」
「屋根です」
意図が飲めず、首を傾げるばかりの由依に加瀬谷は続ける。
「屋根とか響板、側板などは基本的に木でできています。だから、柔らかく音が響きます。木という素材も他の物より深みのある音を奏でるので、楽器には重宝されます」
「はあ。木管楽器もあるし、ギターや木琴も木ね」
「だから、叩くと音が違うんです」
「……はい?」
さっぱり……とまではいかないが何が言いたいのかわからない。加瀬谷の行動から見るに、ピアノの屋根を叩いた行為についてだと思うが。
「屋根の音が通常と違うんです。普通のピアノの屋根と」
「……そんなことまで確認するの? 貴方って」
調律師とは弾き心地を整える整調、音程を整える調律、全体のバランスを整える整音の三つをすると聞いたが、果たして"ピアノの屋根の音を確認する"はそのうちどれに当てはまるのだろうか。
「敢えて言うならこれは"整音"でしょうね。グランドピアノにとって屋根は音量を調整する要ですから。けれど、こんなことするのは多分僕だけです」
「では何故?」
加瀬谷はピアノに優しげな眼差しを向ける。
「ここでは、色々あったと聞きました。三十年以上前から、このピアノは様々なものを見つめてきたでしょう。かつての奏者も死に、この方はきっと疲れているのです。だから、治せる調律師ができる限りのことをしたいんです」
加瀬谷の言葉に由依が俯く。
彼は気づいているのだろうか。このピアノが三十年のうちに見つめてきた事件は全て──人の死だということに。




