路地裏の影
ゴルド王国、王都マラッカ。
すっかりと日が落ちた街を、雨が容赦なく打ち付けている。
その中を、一人の青年が走っている。
「(くそー、さっきまであんなに晴れてやがった癖に!)」
傘を忘れた自分自身にも苛立ちながら、その青年はマラッカ北部のメインストリートを疾走する。
「(大体何だってこんな日に・・・)」
いつもなら夕刻ごろには家に帰っている。いつも通りならこんな雨にも巻き込まれずに済んだ。
が、今日は事情が違った。今日は現在のニュルタム王、否、ニュルタム女王が即位して丁度一年。貴族である彼は祝賀の儀に出席しなければならず、その為にいつもより帰宅が遅れているのであった。
「(まぁ、いいか。どの道・・・)」
晴れていようが走って帰っていただろう、そう彼が考えたその時
『・・・ぎゃぁぁぁ・・・!!』
雨の音に混じって微かに届いた悲鳴が、ぴたりと彼の足を止めた。
「・・・」
声のした方向に目を向ける。メインストリートを外れた路地裏から、その声は聞こえてきたようだ。
放っておいても、自分には関係ない。むしろこの時間帯にそんなところへ飛び込むのは身を危険にさらすだけだ。
しかし、
「・・・しょうがねぇ!」
それを放って置けるほど、青年は我慢強くはなかった。
路地裏に飛び込んでいった青年の名はマルク・フォルツァ。
ゴルド王国最強の貴族、フォルツァ家の当主である。
***
「こっちか!」
路地裏に飛び込んでから五分ほどで、マルクは声がしたと思しき場所に到着した。
もう周りに立ち並ぶ建物も廃墟や空き家ばかりになっている。
「(こういういらない建物は犯罪の温床になりやすいし取り壊してしまいたいんだがなぁ・・・)」
と、いつもの仕事に考えが移りかけた時、
「!」
雨に乗って何かが鼻腔を突く。この、いつ嗅いでも嫌な臭いは、
「・・・血だ」
そしてその答えは正しいと言わんばかりに、雨に混ざって赤い液体が足元に流れてくる。
「・・・!」
血が流れて来ている通路に足を運び、マルクは顔を覗かせる。
そこに広がっていた光景は、マルクの予想通りであった。
半分は。
「・・・」
そこには十数人の男達が血まみれになって事切れていた。恐らくはここらの廃墟を根城にした犯罪組織の構成員といった所だろう。
これはマルクも予想していた。だが、
「(何だ・・・アイツは・・・?)」
彼等を襲撃した者に関して、彼の予想は完全に外れていた。てっきり別の犯罪組織の構成員か何かだと思っていたのだが、
『・・・』
彼等を襲ったその者は、まず人間であるかどうかから怪しかった。
まるで黒い霧が人型に固められたような姿を、襲撃者はしていた。赤く光る目を持ち、裂けたような口から鋭利な牙を覗かせている。
そしてマルクにまだ気づいていない様子の襲撃者は、死体の懐に手を突っ込むと、
「(おいおいおい!?)」
そのままブチブチと心臓を引っこ抜き、
「(げっ・・・)」
それを貪るように喰らっていた。どう考えても状況は常軌を逸している。
「(明らかに、人間じゃない・・・何かの・・・バケモノか?)」
一年以上前の彼ならば、そんな想定はしなかっただろう。が、丁度一年前に吸血鬼などという御伽噺の産物と対面した彼にとって、その想定が出て来ることは別に不自然な事ではなかった。
そして
ギロリ
と、心臓を貪った後こちらを睨んできたその襲撃者に対して、彼が腰を抜かしたりしないのもまた当然の事であった。
腰に下げた剣を抜き放つと中段に構え、マルクは堂々と対峙する。
「何者だ、お前は・・・」
答えが返って来るかどうかも怪しいが、一応の問いを投げる。
『・・・』
襲撃者は暫く赤く光る双眸でマルクを見つめていたが、
『・・・ケッ・・・!』
暫くして裂けた口の両端を吊り上げると、
『ケケケケッケヶッ!!』
ケタケタと、狂ったカラクリの様に笑い出した。
話が通じるような相手ではない。期待などしてはいなかったが。
「!」
そして唐突に、襲撃者はマルクに襲い掛かって来た。黒い霧が腕の形に変形し、マルクに迫る。
「くそっ!」
後方に飛び、その一撃をマルクは避ける。見れば一撃を受けた地面が窪み、そこへ雨水が流れ込む。
その状況を、マルクは冷静に分析していた。
「(向こうから殴れるって事は・・・)」
こちらからも物理的な攻撃は通じるはずである。どうやら絶望的な相手ではなさそうだ。
「(かといって、相手の事については分からない事の方が多い・・・)」
その状況で、懐に飛び込んでいく訳にはいかない。
「(ならば!)」
追いかけるようにしてきた二撃目の攻撃。これをマルクは紙一重で躱すと、
「せいっ!」
腕に目掛けて勢いよく剣を振り下ろす。
「(よしっ)」
確かな手応えを感じ、マルクは心の中でガッツポーズを作る。
が、それも一瞬の事だった。マルクに切り落とされたその腕は地面に落ちると同時に見字通り霧散し、襲撃者の下へと帰っていく。
見ればそこには再び五体満足でケラケラと笑う人の形があった。
「マジか・・・」
恐らく今の状況では、自分に勝ち目はない。と、なると出来る事は一つである。
「・・・!」
襲撃者に背を向け走り出すと、マルクは空に向かって緊急用の信号弾を打ち上げた。
***
「・・・」
ゴルド王国マラッカ南部。宿の個室にて、バンブスは一枚の紙片を眺めていた。
『トロン・クラック』
紙片はその単語から始まっている。
『元大陸同盟調査室調査員。能力に優れ、現調査室長ジェイド・ウィールと共に次代の調査室を担う存在として注目を集めたが、本人の希望と適性試験の結果により最前線の任務に留まり続けた。エンパス堕天歴四七八七年(二年前)、魔法都市エンパスにて突如国家転覆を図り行動。計画は成功しかけたが、ジェイド・ウィール直属部隊が阻止。その後トロン・クラックはエンパスを逃亡。二年の間行方を眩ませるものの、一週間前にゴルド王国マラッカに潜伏している事が認められた。エンパス認定一級魔導士。能力は・・・』
と、ここまで読み進めてバンブスが顔をしかめる。そこから先の部分がインクで雑に塗りつぶされているからだ。
「(インクの擦れ具合から見て・・・)」
どうも昨日今日に塗りつぶしたらしい。
そして裏面を見ると、
『能力に関しては、会ってからのお楽しみ♪』
と女の文字で書いてあった。恐らくはアリスがやったのだろう。
「分からんな」
この塗りつぶしだけではない。あのアリスという女そのものがだ。ああいうタイプの女は初めてである。単に、彼の人間関係が希薄であるという部分もあるが。
と、
「すみませーん、バンブスさん?」
シャワールームからミランダの声。
「どうした?」
「あの~、申し訳ないんですけど、バスタオルを一枚お願いしていいですか?どうも持って入るのを忘れちゃったみたいで・・・」
「・・・」
あからさまに不機嫌な顔を作るバンブス。が、濡れたまま部屋に踊り出てきて貰っても困る。
読んでいた紙片にペーパーウェイトを乗せて机の上に置いておくと、備え付けのバスタオルを右手に持ち、
ガラッ!
「・・・」
シャワールームの扉を『開けて』バスタオルを放り込んだ。
「・・・」
シャワーを頭から被ったまま、ミランダが硬直する。
「どうした」
その目の前で、顔色一つ変えずにバンブスは直立していた。
「な・・・」
「?」
「何を考えているんですかぁぁ!?」
直後、微動だにしないバンブスの顔に、左ストレートが容赦なく叩き込まれた。
「・・・こっちも分からん」
ぴしゃりと閉められた扉の前で、バンブスは一人つぶやいた。
***
「のわっ!」
濡れた地面に足を滑らせて、マルクは盛大に転んでしまった。
水たまりに頭から突っ込み、既にびしょびしょの全身に泥が付着する。
「(奴は・・・)」
起き上がりながら、背後に注視する。出来れば撒いていて欲しい。
『・・・ケケッ・・・』
が、どうやらそう簡単にはいかない様だ。気味の悪い笑い声が、路地に反射して耳に届く。
『・・・クワセロ・・・』
「冗談きついぜ!」
再び伸びてきた腕を、剣で弾くと
「うらぁ!」
続いて伸びてきた腕を、縦に切り裂く。
しかし、
「ぐっ!?」
その後を追ってきた『三本目』の腕に、マルクの身体は絡め取られてしまう。
「(しまった!)」
腕が二本とは限らない。対峙しているのは人間ではない可能性が大きいのだ。
「このっ!」
剣で、その腕を切り落とそうとする。
が、振り下ろそうとした剣は弾いた一本目に叩き落とされてしまう。
同時に、マルクを握る手に力が入る。
「ゲッ!?」
身体から空気が絞り出されるような感覚と、胸部から腹部にかけて強力な締め付けを覚える。
「(やべぇ、やべぇぞ・・・!)」
そして意識の遠のきを感じ始めた時、
キュン!
雨と同時に空気を切り裂く鋭い音。
同時にマルクの身体が地に落ちて、彼を握りつぶそうとしていた腕は霧散する。
「ぐっ・・・!」
潰れかけた身体を内側から膨らませながら、マルクは呼吸を整える。
そして今、自分を助けてくれた者の姿へと視線を移した。
季節はまだ夏だというのに長袖のメイド服。何かを覆い隠すような大きめの帽子から覗くブロンドのツインテール。口からは尖った牙が覗き、腰からは足と同じ位の長さの尻尾。背中には二対四枚の蝙蝠のような羽。所々露出する部分から見える肌は青紫色である。
知らぬ者が見れば100%異形と判断するその者は、片手に持った傘をマルクにさすと、
「大丈夫?」
仰向けに転がったマルクに、右手を差し出した。
「何とか、な・・・助かったよ、ありがとうエリー」
エリーと呼ばれたその少女はニッコリと笑い、マルクの身体を引っ張り起こした。
エルフィール・ノキア。それが少女の名前である。彼女は元々普通の人間であったが、一年前ゴルドで起こった事変―対外的にはクーデターとなっている第二次吸血鬼計画―に巻き込まれ、今のような姿となった。現在はマルクの専属メイドとして、フォルツァ邸に半ば匿われる形で暮らしている。
「しかしなぁ・・・」
「何?」
「吸血鬼は流水を渡れないって聞いていたから、アルバが来ると思ってたよ。傘があれば大丈夫なのか」
「あら、私をヒトと言ったのはあなたじゃない」
「・・・それもそうか」
所詮は伝説であり、純粋な吸血鬼もそうであるのか、事実の確かめようもない事ではあるが。
「それよりも」
と、顔つきを厳しくしてエリーは黒い霧に対峙する。
「あれ、何?」
「さぁな。詳しい事は俺も知らねぇよ。ただ、とてつもなく危険な何かだって事は確かだ」
「ふぅん・・・」
しげしげと、興味深そうにエリーが眺める。一方霧の人型も、エリーの存在を認めたようだ。
「まぁ、何であろうと構わないわ」
そしてエリーを認めた瞬間、
「どの道ここで片づけて・・・」
霧に、変化が現れる。
『・・・グ・・・』
今までの、軽い調子の声音は失せ、
『・・・グォォ・・ォォ・・・』
苦しむような、呻き声が響く。そして、
『ウォォォォオ!!』
雨を吹き飛ばすような咆哮と共に、
「んなっ!?」
「巨大化?」
130cm程であった人型は、5mに達するであろうかという巨人に変化した。
「どういうこった!?」
驚きの顔を隠せないマルク。それに対して、
「・・・的が大きくなった、という事でいいんじゃないかしら?」
あくまで余裕の笑みを見せながら、エリーは巨人に踊りかかっていく。
「お、おいちょっと待て!」
『グォォァァ!』
それを待ちかねたと言わんばかりに巨人は腕を振り上げ、エリー目掛けて振り下ろす。
ドォン!!
周囲の廃墟が衝撃波で吹き飛ぶのではないかと思われるレベルで、それは容赦なく叩き付けられた。
「エリー!」
剣を突き立て、何とか吹き飛ばされないようにしているマルクが叫ぶ。が、
「・・・心配無用よ」
螺旋を描くように、紅の軌跡が巨大な右腕に絡みつく。
『!!?』
そして直後に丸ごと霧散した右腕が、マルクの不安を同時に吹き飛ばした。
見れば緋色の槍を片手で回しながら、エリーが人型の右肩辺りに浮かんでいた。
『グゥゥ・・・!』
散った霧を集め、人型が右腕を再構成しようとするが、
「遅い」
その間に、エリーは左腕を切り落としていた。飛び散った霧が、さながら煙幕の様に立ち込める。そして、
『・・・ゥ、グゥゥ・・・!』
悔しさを光る瞳に滲ませるようにして、人型はそのまま二人の前から消えていった。
「・・・取り逃がした」
人型が消えた方角を見やり、エリーは軽く舌打ちする。
「お、おい、大丈夫かエリー?」
「えぇ、見ての通り怪我はなし。それよりも、本当に何なのかしらねアレ」
「さぁな・・・まぁ、人間であるかどうかから怪しい奴だったな。死体から心臓引っこ抜いて食ってたし・・・」
思い出しながら、不快な表情をマルクが作る。
「・・・随分とエグイ奴ね」
「全くだ、あんなんがのさばっている様じゃ次にまたいつ被害が出るか分からねぇ。早いとこ何とかしねぇとな・・・」
剣を鞘にしまいながら、マルクがぼやく。その横でエリーは傘を拾うと、相合傘の形でマルクにさした。
「それにしても、少々心配し過ぎよあなた。私なら首が飛んでも生きているわ」
「いやいや、心配するって。死ぬ事は無いかもしれないけど痛い目にあって欲しくないって思うのは当然だろ?俺達は家族なんだし。それに、その・・・エリーは『特別』だからな・・・」
「・・・相変わらず、甘いわねあなたは」
「うるせぇな・・・しかし」
「何?」
「エリー、随分変わったよな。前はもっと高飛車な喋り方とかしてたのに」
「あら、いいじゃない。あなたは『特別』なんだから」
「・・・改めて言われると照れるもんだな」
「それはこっちも同じ・・・んっ」
傘の下で軽く口づけを交わすと、
「・・・帰ろうか」
「・・・えぇ」
遅い家路に、二人はついた。