有益な殺生
初投稿です。よろしくお願いします。
無益な殺生があるならば有益な殺生というものも存在するのだろうか。
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顔を洗っていた直子は洗面台の淵をよじ登ろうとする小さな蜘蛛を見つけた。一緒に流してしまおうと意識して蜘蛛のいる右側に水がいくように洗顔の泡を流したが、蜘蛛は排水溝からひょろんと出てきて再び洗面台をよじ登ろうとしている。
「蜘蛛の糸って話もあるわよね」
直子はテッシュペーパーで蜘蛛をふわりと絡めてそのままベランダに置いた。蜘蛛が去った後にテッシュペーパーは回収するつもりだ。5mmほどの小さく軽い薄茶色のそれはおそらく毒もないし刺さない部類のくもであろう。しかし素手で触るのには抵抗がある。刺されたりというよりは力加減の塩梅で潰れてしまうことへの懸念からである。
「無益な殺生はしたくないし」
という自身の言葉に直子はふと疑問を持った。
無益な殺生があるならば有益な殺生というものも存在するのだろうか。
ぞわり、と首の後ろから尾骨辺りに毛虫が這うような嫌な感覚が流れる。
有益な殺生があるとして、それにも種類があるかもしれない。
一つは直接利益がある場合。例えば遺産狙いの殺人は言わずもがなであろう。
そして一つは利益を得るのはなく、害を防ぐ目的がある場合。
無益というのは誰も得をしない無駄なことだ。だから無害な生き物を排水溝に流すのは無益な殺生である。では仮にこれが毒蜘蛛だったらどうだろうか。農作物に被害をもたらす生物も同様で、これらを駆除することは無益な殺生とは言わない。人に害を成すモノを殺すことは有益な殺生と言えるだろう。
「それならばあいつだって」
細く色白の手が硬く握られる。ハッとしてゆっくり手を開くと掌に爪痕がくっきりと残ってしまった。爪が深く入ったところは内出血している。
またやってしまった。
日常の些細な出来事で思考を巡らし、最終的に自身が避けようとしている事柄に辿り着いてしまう。止めよう、止めたいと強く思っているのだが抑えられない。リストカットやトリコチロマニアなどの自傷行為と同じようにも思えるが、それらに対して直子は確かな知識を持っているわけでもなく、同じかどうか確認出来たところでこの自傷思考が止められるとは思えなかった。
化粧水、乳液、下地を整えて今日のファンデーションとアイシャドウを選ぶ。今朝は曇りで夕方から雨が降る予報なので明るめの色を選んだ。直子の職場は百貨店の地下の化粧品売り場なので照明は年中同じではあるが、外からやって来るお客の感覚は天候に大きく左右される。悪天候の時には明るい色の商品がよく売れる。
化粧、すなわちメイクアップと言うのは見た目の美しさのみを向上させるのではなく気分もアップさせてくれる。会社の販売員向け研修では、化粧品や接客の知識だけではなく心理学の講習もあった。化粧をすることによって積極性が増す、気分を高揚させるという内面への効果が有る。対して安心感を得るというリラクゼーション効果もあるという。極め付けは脳の副腎皮質からホルモンが出て免疫力が高まることも証明されているらしい。
咎められず化粧が出来る女に生まれてラッキー。
直子にとっては自身の性別を肯定出来る数少ない機会であった。
勉強が苦手で中学高校の授業は寝てる時間が過半数であり、あまつさえ自動車免許の講習でさえ居眠りをして年配の教官に叱られる直子であったが、この心理学の講習は興味深く聞けたし内容もスルスルと頭に入った。学校の授業もこのようだったらもっと違う人生を歩めただろうに、と不毛な考えをしている自分に気づいて直子は心の中で嗜めた。
講習に習って落ち込んだ時は明るい化粧をするのだが、他者の感情を化粧で窺い知れてしまう職場仲間達に気付かれてしまうことは直子にとってさらなる憂いである。しかし、悪天候時は明るい化粧をするように、と会社からの達しがあるので他人の勘繰りを気にせず化粧できることが嬉しい。桜色のチークを頬に塗す。アイシャドウはブラウンだ。明るい色に拘ってしまうと水商売の女性になってしまう。色は抑えるがパールを顔全体にのせる。このまま友人の結婚式に行けそうな仕上がりになった。
夕方からの雨に備えて通勤服はあまり新しくないものにした。バッグに折りたたみ傘をいれ、ローヒールのパンプスを履いて一人暮らしのワンケーマンションを出た。