二章 十五話
「うへぇ、溺れるかと思った……」
街から少し離れた場所にある小川。その岸辺に一刀はコートを広げて乾かしながら座り込んでいた。
「ちょっと! そんなに暢気な事を言ってていいのかい!? あれだけ血を流してたのにそんな……!!」
「ほれ」
悠長にひらひらとコートを振っている一刀に、端末が焦った声音で叫ぶ。確かに、一刀の胸の部分には真っ赤な染みが広がっているが、そんなものよりも今一刀が投げた物へと意識が向く。
「これは……、袋?」
「どっかで見たことない? それ」
「そういえば……」
この袋は確か、グレイウルフ討伐の際、夜中に一刀が討伐したオーガの住処にあった液体の入った袋だ。当時一刀はこれの中身は血液だろうと言っていたが……。
「もしかして、それってこの中に入ってた血?」
「そういうこと。口から出したのも調理用として売ってるのをあらかじめ調達しておいた分だよ。流石に消毒はしてるけどね、それでも人間の血と大差ないでしょ?」
「驚かせないでよ……。あの青年が君の胸を突き刺した時、流石の僕もヒヤッとしたんだから……」
「あの程度で負けるわけないでしょうに。そもそも魔法を使うことが前提に置かれてるからか、そこまで突きの精度は高くなかったし、あれだけ視界が悪いと狙ったところに上手く突き刺さらないだろうしね」
「でも、当たったよね?」
「当てさせたんだよ。ていうか、そもそもあの程度の腕じゃあまずこのコートを貫くことが出来ないんだよ。だから上手いことコートに当たらないようにするのは難しかったよ……」
遠い目をするフリをして、何気なさそうに言っているが一歩間違えれば本当に死にかねない事実がある。
とはいえ、それをやり遂げた以上、一刀を責めることは出来ないし、そもそも自身の命を掛けているのだから他人がどうこう言えるものでもない。
だからこそ、今回の方法は一刀にしか出来ない神業のようなものである。自らの力を過信したり、慢心していては最後の一撃であっさりとやられていた事だろう。
これは以前の世界における一刀の言葉の一つである。出来るからやるのではなく、やるからには成す。その言葉の意味が垣間見えた瞬間だった。
「で、だ。これで名実共に死人になったわけだけど……、どうしようか?」
「考えてなかったの!?」
「必要が無かったからねぇ。やるべき事は全部やった。後は当事者達の問題だよ」
「一刀君も十分その枠の中に入ってると思うんだけどなぁ……。じゃあ、あのオーク討伐も見過ごすってことかい?」
「滞るようなもんでもないし、それでいいんじゃない? オーガみたいなのが何匹も出てくるのなら話は別だけど」
確認されているのは、例の衛兵によって見つかった数匹のオークのみ。それ以外は現状確認されておらず、これだけの規模にまで発展させた意味すら疑問に思えてくるほどの敵の数である。
結果等、既に見えており、街側が見つけたオークを片っ端から殲滅していくのがオチだろう。
一刀としては、あのオーク達が取っていた謎の待機状態が気になっていたが、そこまで面倒を見る義理は無い。案件を認知した以上それなりの介入はさせてもらったが、流石に最初から最後まで、というのはあまりにも都合が良すぎるものだろう。
必然的に、一刀の意識は次の街へと向いている。未だにどこへ行け、等の指示が無いため、行き先が不特定になるものの、見る物全てが新鮮味に溢れるこの世界に飽きはない。
どうせなら、次は魚が食べたいなぁ等と考えていた一刀の視界にそれは映った。
「……ねぇ、俺の目が確かなら、あれってオーガって生き物だよねぇ?」
「……赤い巨体、角、牙、確かにそうだね。あれ? ちょっと待って、確かオークがいるのって反対側の森だった気がするんだけど?」
「ってことは、こっちにもいるってこと? いやいやいや……、まさかそんな……」
「GUUUUUUU……」
目をこすったり、瞬きをしてみてもオーガの姿は消えない。それどころか、おかしな行動をする一刀に視線すら向けている。
「あれ? あのオーガ気付いてない?」
「そりゃあ、こんなところで漫才やってりゃ気付くでしょうに」
「ねぇちょっと、走ってきてるんだけど。こっちに向かって」
「目の前に獲物がいれば、そりゃあ走ってくるだろうねぇ」
「ちょ! そんな冷静に言ってないでどうにかしてよ!! このままだと二人ともぺしゃんこにされちゃうよ!!」
「はぁ……やれやれ」
凄まじい形相をしながら突進してくるオーガに溜息を一つ吐くと、キン、という音と共に宙に放り出されるのは一本の刀。
鞘を持たずに、柄だけを右手で掴んだ一刀は、オーガとすれ違う瞬間に力の限り刀を振り抜いた。
「GUIAAAAAA!!」
オーガの右腕が宙に舞い、本体は一刀の後方数メートル先に倒れ込む。浮遊した鞘を左手で掴み取ると、抜身の宗近を持ってオーガへと近づいて行く。
「流石に二回目はしくじらないさ」
ドス、と鈍い音を立てて刀身がオーガのうなじへと吸い込まれる。流石オーガと言うべきか、脊椎を貫かれても数秒は抵抗を続けていたが、やがて死に至る。よくよく見てみると、腕とうなじ以外にも足の裏、ちょうど人間で言うアキレス腱があるあたりがぱっくりと斬り裂かれている。どうやら、倒れ込んだ理由とその後に起き上がれなかった原因がこれのようだ。
「ふふん、三段突きならぬ三段払いってね」
「いやいやいやいや、得意げなところ悪いけど、これヤバいからね。こっちにオーガがいるってことは、向こうは囮だってことじゃないの?」
「そんなわけないでしょ」
「なんで?」
「陽動にしろ囮にしろ、気を引かなきゃならないんだ。そもそもこっちに魔獣を回す気があるのなら、向こうはこっちよりも更に酷い事になってるだろうさ」
「一刀君が見つけたのは、確か五匹だけだったはずだよね?」
「あそこにいたのは、ね。斥候か、囮の囮か……なんで五匹なのかは知らないけど、これは非常にヤバい状況とも言える」
「具体的には?」
「グルグラ壊滅」
「ヤバいどころの話じゃない!! どうするの!?」
「落ち着いてよ。一応管理者だか何だかなんでしょ? これくらいじゃあ非常事態とも言えないよ」
「君の中でのエマージェンシーがまともじゃないのが心底心配だよ……」
そんな事を言っている間に、目の前の森からは何体ものオークが姿を見せる。その中には、赤い巨体のオーガも混じっている。
「向こうだけじゃなくて、こっちも随分と楽しそうじゃないか」
一刀に気付いたオーク達を眺めながら、暢気にそんな事を呟く。その左手には、いつの間に出したのか、鈍い朱色の刀身が輝く刀を持っていた。
「まさか、全部相手にするつもり……?」
「六十億人を相手にするよりもマシでしょうに。対処方法さえ分かっていれば苦戦する事無いよ。統率がとれていたとしても、所詮は烏合の衆だ」
「さいでっか……」
もはや諦めたかのような端末の声に一刀は余裕とも取れる笑みを浮かべる。下げた二本の刀は光を反射し、怪しく輝く。
やがて森から出てきた全てのオークとオーガが一刀の存在に気付き、武器を構えて戦意を露わにする。
「さて、どうしようかねぇ……」
敵を目の前にした一刀の口は薄く笑みを作っていた。
正直なところ、今回の依頼に関してマルシアはあまりいい感情は持っていなかった。
あの三人を育てる為とはいえ、数が少ないとはいえ、ただでさえ危険の伴うオークの討伐であるうえ、情報が非常に曖昧なのだ。マルシアでなくともそれなりに危機感がある者は敬遠する依頼だろう。更に言うと、この依頼でのオークの数字は不確定だ。もしも情報にある五体だけではなく、十体、二十体いればその危険性と難易度は跳ね上がる。
ここは安易に動くのではなく、もっと情報を集めてから慎重に事を進めるべきだったのだ。
「本当に……、ツイてないねっ!!」
左から迫ってきた棍棒を盾で受け流し、ガラ空きになった下半身を右手のロングソードで斬りつける。これだけで、人よりも大きな体を支えているオークの態勢は崩れ、その間に急所である喉元へと剣を一突きに絶命させる。
「これで、三体目!!」
足元に崩れたオークに目も暮れず、マルシアは次の標的へと視線を向ける。が、その先にあったのは、二、三人の冒険者が複数のオークに嬲り殺しにされている光景だった。
今、マルシア達は大量のオークやゴブリンといった魔物達と入り乱れて戦っている途中である。当初探していた五体のオークはすぐに見つかった。が、問題だったのは、そのオーク達と一緒にいた夥しい数の魔物達。桁が一つ増えた、なんて言えればどれだけ楽だったか。マルシア達が今相対しているのは、まさしく軍隊と言えるような数と統率された魔物達だった。しかも、中にはオークだけでも辛いところに赤い個体まで確認されたとのこと。それが事実ならば、この戦いはまず確実に勝つことは出来ない。生き残ることすら可能かどうか……。
「マルシアさん!!」
不意に名前を呼ばれ、その方向へと顔を向けると、お馴染の三人がマルシアの方へと向かってくるのが見えた。皆一様に疲弊しており、傷も少なくはないが無事であることは確かなようだ。
「こっちでも、一体なんとか倒しました……。でも、このままだと……」
「分かってる。知り合いにとても強い人がいるから、その人が今なんとかしようと頑張ってくれてるから、それまでなんとか耐えれば……」
「それってどれくらいかかるか分かりますか?」
「……分からないね。流石にこれほどの規模だとは思っていなかったから、上の人たちは今頃てんやわんやだと思う」
実際、先ほどから指揮官と思われる壮年の兵士が右往左往しているものの、事態は好転していない。むしろ、その内あの兵士もオークかゴブリンの手にかかってしまいそうな予感がする。
既に現場も混乱の極みに至っている。現状をどうにかする為には、何としてもこのオーク達を殲滅ないしは撃退するほかにない。今のままでは、いずれ街に到達し、破壊の限りを尽くすだろう。
「ッ!? このぉ!!」
三人と話しこんでいたマルシアは、いつの間にか至近距離まで近づいていたオークに一太刀を浴びせ、左手の盾でバッシュを決め、倒れ込んだオークの喉元へと刃を立てる。
「今は考えても仕方ないよ。とにかく、敵を全部……倒さなきゃ!!」
またもや近づいてきたオークの腕に一閃する。今度は身体強化を使っていたのか、斬り飛ばされたオークの腕はかなり離れた場所へと飛んでいく。
「流石に……、隠していられる状況じゃないかな……!」
刹那、マルシアの体を淡い光が取り巻く。すると、先ほどまでとは比べ物にならないほどの速度でオーク達に斬りかかっていった。
速い、なんてレベルではない。相手の懐に踏み込んだかと思うと、次の瞬間にはオークやゴブリンは即死ではないが、戦闘不能の状態に陥っていた。
それが普通の身体強化ではない事は明らかだ。むしろ、見る物が見れば、よく体が壊れずに済むな、と思われるだろう。それほどまでに、彼女の動きは異常なものに見える。
リヴィエラ教国聖光騎士団所属、マルシリア・テンハイム。同じく即効系の魔法と細剣でのコンビネーションで戦うフェラルドとは異なる近距離戦闘を主とする彼女は、身体強化の最終形態である限界淘汰によって、限界以上の力を発揮した状態で近距離戦を挑むのがマルシアの主な戦法になる。ジリジリと追い詰めていくフェラルドとは正反対に、一瞬の爆発力による凄まじい制圧力は、騎士団の中でもトップクラスに入るほどだ。魔物討伐の依頼で後れを取ることなどはほとんどない。……出しどころを逃した一刀との邂逅は、むしろ彼女にとっては僥倖だったと言える。
だが、考えてみてほしい。これだけの大幅なブーストがかかる技が、体に負担をかけない筈がない。
限界淘汰の制限時間は五分ほど。もともと連発出来るものでもない上、身体機能を活性化させる身体強化とは異なり、身体能力の上限を取っ払う性質上体にとてつもない負担がかかるため基本的にマルシアがこの技を使うことはほとんど無い。大体は身体強化で事足りる上に、普段は仲間がいるため使う機会自体が少ないと言ってもおかしくはない。
「ぐっ……!」
故に、普段はそうそう使わないものだからこそその限界を正確に理解していないというのは多々あるもの。苦々しげに顔を歪めたマルシアの動きが若干鈍る。とはいえ、その速度は未だ一般兵程度には捉えられぬもの。多少の違いなど分かるはずもない。が、魔物は違う。
オークに混じっていた赤い個体がマルシアの姿を見た途端、一瞬の迷いも見せずにその巨体からは想像出来ない程の速度で彼女に迫る。
「ッ!?」
いくら限界淘汰状態にあり、スピードとパワーが通常の数倍になっていたとしても、もともとのバイタリティに差がある相手とぶつかれば当然体格の差でマルシアが押し負ける。
咄嗟にオーガの突進に盾のバッシュを合わせるも、強引に押し切られて後ろに吹き飛ばされてしまう。
地面を何度か転がったものの、流石は限界淘汰といったところか、地力の差を埋めていたのが幸いしたのか、そこまでのダメージは見られない。が、問題は体ではなく精神の方か。マルシアの目の前に立つのは、オークよりも数倍以上の力を持ったオーガである。しかも一体ではなく、その巨躯の後ろへと視線をやればまだ複数対のオーガが控えているのが見える。
見た目が大きく変わっただけの赤いオーク、そう断言出来たらどれほど楽だったか。限界淘汰の残り時間は一分も残っていない。残り一分でオーガを倒せ、などと言われれば、さしものマルシアでさえ発言者を力いっぱいに殴り飛ばすであろう自信があった。
マルシアに相手との間隔を調整しつつ撃てる魔法は無い。彼女は良くも悪くも近接に特化した戦士だ。同じく近接特化型である敵を相手にした際、素の実力が大きく影響する為、それを避ける必要がある。その為に、彼女はこの街にフェラルドと共に来たのだが、肝心の魔法使いは現在街の中で現状をどう打破すべきか話しあい中である。充てになど、出来る筈もない。
「捨て身かぁ……、やだなぁ……」
ボソッと口から出た言葉は、本来国の守護者である騎士団員としては失格と判断されるものだ。が、この状況で似たような事を呟かない者は、それこそ自殺願望者くらいのものだろう。負けると分かっている戦いに赴くような者が冒険者等やっている筈もない。
覚悟を決め、目の前のオーガを見据える目には微かな迷いの色も見える。が、ここでやらねばどの道後ろに控えている者達がやられるだけだ。
残り数十秒の限界淘汰に全神経を集中させ、オーガに狙いを定める。そして一瞬、マルシアが持つ剣が微かに揺れたと思ったら、次の瞬間にはオーガの懐へと潜り込んでいた。
「……っ!!」
狙うは足。斬り落とせなくても、機動力さえ削げばどうにでもなる。そう確信し、真横からロングソードを一閃する。が……
「嘘っ!?」
感触はまるで鋼鉄。多少の切れ目は入ったものの、そこから先が進まない。すぐさま引き抜いて切り返そうとするも、剣が抜けない。まるで岩に刺さった剣を抜こうとしているかのような錯覚に陥る。そのせいか、数秒間、いや一秒や二秒の間に過ぎない時だったが、マルシアの動きが完全に止まってしまった。
当然、オーガがその隙を見逃すはずもない。真横から迫った段平に間一髪のタイミングで盾を割り込ませたマルシアだったが、棒立ち状態だったその足で踏ん張れる筈も無く、そのまま盾越しに横に向かって殴り飛ばされる。
盾とは言っても緩衝材ではない。その衝撃は、マルシアを戦闘不能に陥らせるには十分な威力を伴っていた。
「が、はっ……!!」
肺に溜まっていた全ての空気が強制的に排出され、その刺激から呼吸困難を起こし、その場にうつぶせに蹲ってしまうマルシア。かろうじて上げる視線の先には、先ほどと何ら変わらない姿勢で見下ろすオーガの姿がある。
なんとか体を起こそうとするも、腕に力が入らない。限界淘汰の効果はとうに切れていた。が、そうだとしても、ここで倒れるわけにはいかない。後ろにいる少年少女達の事を頭に思い浮かべ、なんとか闘志を奮い立たせてまさしく気合いで立ち上がる。目前の敵を睨みつける目には未だ強い光が宿り、その戦意が衰えていない事を教えてくれる。
だが、例えその場に立つことが出来たとしても、腕や足に力が入っていない事は火を見るよりも明らかだ。
だとしても、一矢報いるためには手段など選んではいられない。剣を握る手に力を込め、盾を体の前へと持っていき、戦闘態勢を取る。形だけの構えに、まるで嘲笑うかのようにオーガがその大きな口を開けて、これまた獰猛な牙を見せる。その目はどういたぶってやろうかと考えているようにも見え、マルシアの体には鳥肌が立つが、やがてそれは杞憂に終わる。
『爆ぜろ』
刹那、マルシアとオーガの間、いや、明らかにオーガの目と鼻の先で爆発が起きる。その衝撃に咄嗟にマルシアは目を覆ったものの、特に飛来物があるわけでもない。代わりに、肩に誰かが手を置き、耳元で囁く。
「ここは退きますよ」
聞き覚えのあるその声に、安堵感が押し寄せてくるが、ここでそれを許せば満身創痍であるその体が崩れ落ちるのは誰よりも本人が分かっており、なんとか足を踏ん張ってその場から踵を返す。
「GUOOOOOOOOOO!!」
背後から凄まじい圧力を伴った咆哮が聞こえたが、一切無視してただ街の方へと足を動かす。途中で少女達を合流し、やがて街門に到着したころには満身創痍を超え、既に死に体に等しかった。それでもなお動くことが出来たのは、ひとえに少女たちが傍にいたからか。
街門をくぐり、少女達の今にも泣きだしそうな表情を見ながら、マルシアは意識を失った。