二章 十四話
―夜。
一人司祭の家へと足を向けるフェラルドは、ふと何かを感じたのか、その場に唐突に立ち止まる。
彼が今いるのは、この街の水源を担っている湖から引かれた水が流れるそこそこ大きな川に掛けられた橋の上。そのちょうど真ん中、まるで五条大橋に立つ弁慶のように誰かを待ちうける一人の少年がいた。
面識が無いわけではない。それでも知り合いと呼ぶにはあまりに顔を合わせた回数が少なすぎる相手。
そして、フェラルドにとって、今最も脅威と化している相手でもあった。
「こんばんわ。カズト君……でしたか? 何か用ですかねぇ?」
「ふむ、用があるのはそっちじゃないのかな? 随分とこそこそと何かやっているようだけど……。見た目に反してなかなか小心者のようで」
声色はいつもと変わらないものの、静かに警戒心を剥きだしにし、いつでも腰に差した細剣を抜けるように構えるフェラルドとは反対に、一刀の言葉はやや軽い。まるですぐそこまで散歩に来ました、とでも言いそうな声音だ。
「何のことかさっぱりですねぇ。そんなことよりも、こんな時間に一人で出歩いていると危ないですよ? 通りがかった人が必ずしも善良な市民とは限らないのですから」
「なるほど、実に説得力のある。まさしくそれらしき人物が目の前にいるんだけど、この場合俺はどうすればいいのかな? 悲鳴を上げて逃げればいいのかなぁ? ね、どう思う?」
「逃げれば、良いんじゃないでしょうか? もっとも、逃がすつもりなどありませんがね」
そう、フェラルドが呟いた瞬間、彼の体から凄まじい圧力を伴った殺気が放たれる。おそらく、一般人だけではなく、それなりに実力がある者でもただ立っている事すら難しいだろう。少なくとも、普通の冒険者がこんな者を発せられる筈が無い。マルシアと同門だと思われていたが、こうなるとそれすらも疑わしい。
「ほら、やっぱり俺が被害者じゃないの……」
剣先のように尖った殺気を素知らぬ顔で流しながら、一刀は右足の腿に巻かれたバンドから短剣を引き抜く。
ゆらり、とまるで風に揺られているような短剣を持った右腕に視線をやりながら、フェラルドは一歩、また一歩と橋の上を、一刀に向かって進んでいく。
先に動いたのはフェラルドだった。
懐に忍ばせている投擲剣を体の捻りと腕を伸ばす挙動だけで一刀目がけて投げつける。小さくとも鋭い切っ先は、致命傷とはいかずともそれなりの手傷を負わせるには十分なものだ。その上、フェラルド自身がそれなりの使い手なのか、速度も遅くはない。
が、フェラルドによって放られた投擲剣は、同じように一刀に下手投げで投げられた短剣に撃ち落とされる。
飛来する物をこれまた投擲武装で叩き落とすなど、普通の技術じゃまず上手くいかない。それをやってみせた一刀に対してフェラルドの表情に驚愕の色は見られない。ただ、投擲剣を落とされた瞬間に抜刀し、一刀との距離を一気に詰めにかかる。そのスピードは明らかに凡百の人間が出せるものではない。僅か二歩で一刀の眼前へと詰め寄ると、腰に差している細剣を一瞬で抜き放ち、その場で一閃した。が、咄嗟に後ろへと飛び退いていた一刀には当たらない。
「チッ!」
躊躇いも無く一刀を斬り伏せようとしたフェラルドには驚かされるが、更に彼本人を驚愕させたのは、一刀の対応だった。通常なら、ここで武器を使って防御されると、懐に忍ばせている短杖を使い、至近距離で魔法を当てる、というのがフェラルドの近距離戦闘での定石だ。
それを見切ったのではなく、端から近距離戦を拒否するような動きを見せたことに驚きを隠せなかった。
一瞬、魔法タイプかと考えたフェラルドだったが、次の瞬間、その予想は裏切られることとなる。
一度距離を離した一刀であったが、フェラルドが前に意識を置き過ぎたせいで少し態勢を崩しているところを見ると、今度は一刀がフェラルドへと肉薄する。
「ッ!?」
まるで流れるように放たれた蹴りを間一髪でいなすと、忍び持った杖を取りだした。
『破裂しろ』
フェラルドが小さく呟くと、一刀とフェラルドの間にまるで空気が破裂したような衝撃が走り、両者の体を後ろへと吹き飛ばす。が、共にダメージを負った様子などは見られない。
「魔法……ねぇ」
魔法を相手にしたのは、ヴァルヴィルドの一件以来一切なかったため、未だに一刀にその原理は理解できていない。漠然と何かが来る、というのは分かるのだが、どこから、何が来るのかは分からない。あくまで直感に頼っている状態だ。
魔力が少ないというのは、その分魔力に対しての親和性、感知能力にも影響する。この世界に住む者にとっては魔力を認識出来ない、使うことが出来ないのは致命的なまでの欠点になる。それは日常生活においてもそうであるし、こういった戦闘時にも魔力を感知して相手が次に打ってくるであろう手に対処する事にも使われるからだ。
故に、一刀はこの世界で生きている以上、常に重大なハンデを背負っている事になる。が、そんなものは知った事かと言うように、一刀はフェラルドへと攻撃を仕掛けていく。
当初、フェラルドは一刀を自力と直感でごり押ししていくタイプかと予想していたが、その評価をすぐに改める。
あまりにもピンポイント過ぎるのだ、狙いが。
先ほどからなんとか魔法を打ちこむ隙を伺っているものの、悉く選択肢を潰されている。足元を崩そうとすると拳が飛び、細剣で斬りつけるとかわされ、接近したところを先ほどと同じ魔法で吹き飛ばそうとすると更に接近を許し、組みつかれそうになる。無手であるにも関わらず、魔法剣士相手に一切の手を封じさせるその戦い方は、この世界に無いものだ。その為、フェラルドは今までに感じたことのない感覚と共に苦戦を強いられる。
かと言って、ここで手をこまねいている訳にはいかない。いくら夜半だとはいえ、ここは大通りほどではないが昼間はそれなりに人通りがある場所だ。いつ他の人間が来るとも限らない。
「仕方ありませんねぇ……」
フェラルドの目付きが変わる。と、同時に、先ほどまでの時点で既に人間離れしていたスピードが更に早くなり、既に常軌を逸したものとなって一刀に怒涛の攻めを与えていく。
「ちょっ……! マジか!?」
元々先読みでなんとかフェラルドの攻撃を捌いていた一刀だったが、現状で彼を圧倒する技能は持ち合わせていない。刀を抜けば話は別だが、そもそもフェラルドを始末する予定が無かったため、事前に取り出していなかったのだ。
未だに一刀の刀がどこから来ているのかは謎だが、過去のその瞬間を思い出すと取り出す際に若干のタイムラグがあることが分かる。それは引き出しの中に物を入れることと同じ。中の物を出す前に、引き出しを引かなければ物は取り出せない。が、いかんせんフェラルドはその引き出しを引く時間を与えてくれない。先ほどまでの応酬とはまるっきり逆の立場になったわけだ。
流石にその気になっていない一刀にはフェラルドの相手はキツイのか、徐々に押されているのが見て分かる。やがて、この均衡は破れると一気に一刀が不利なるだろう。だが、その表情に焦りの色は見えない。
何か考えがあるのか? と思わせる程度には余裕を見せている。当の本人はここからの展開をどう繋げようと考えているだけで、そこまで深い考えは無い。
ことさらに警戒心を強くしたフェラルドが一旦距離を離す。
『爆ぜろ』
短杖を構え、小さく囁くように唱えた瞬間、一刀の目の前で爆発が起きる。そこまで大きなものではなかったが、視界を一時的に封じるには十分過ぎるものだった。
―ドス
鈍い音が一刀の体に響き渡る。それと同時に下腹部を流れていく液体が地面を叩く。
「……随分と手こずらせてくれましたね」
フェラルドが突き出している細剣、それは一刀の左胸当たりを貫いていた。
「……がっ!」
口から赤い液体を吐きながら、後ずさる一刀。胸から流れる血は留まる事を知らない。足元に真紅の水たまりを作りながらも、なんとか足を踏ん張っている一刀。
「本当はこんなことはしたくはないんですがねぇ……。まぁ、これも因果だと思って諦めてください」
憎々しげに見上げてくる一刀の視線を意にも介さず、止めを刺そうと細剣を構える。が、次の瞬間、一刀の体は橋の手すりの向こう側へと消える。
ドボン、と一際大きな音と水しぶきを立てて夜の川底へと消えた一刀を見ながら、フェラルドは小さく舌打ちをした。
「逃がしましたか……。ですが、あの出血量だと持って数分。上がってくるのは死体でしょうねぇ」
確かな手応えがあったため、一刀の死を確信しているフェラルドだったが、そうなるとマルシアには彼の事をどう言うべきか悩み始める。
これまでに培った腕への自信か、はたまたここ最近実践から離れていた為少し感覚が鈍っていたのか。最後まで、フェラルドは自らの細剣の太さに比べて、一刀が流した血の量が比例しない事に気付いていなかった。




