第6話 元王妃の新事業
第6話 元王妃の新事業
エレノアが王宮を去ってから一か月が過ぎていた。
王都から馬車で三日。
北部に広がるレイヴン公爵領は、春から初夏へと移り変わろうとしていた。
朝露をまとった麦畑が風に揺れ、遠くでは羊飼いの笛の音が聞こえる。王宮のような豪華さはない。しかし、ここには人が生きている匂いがあった。
焼きたてのパンの香り。
干し草の匂い。
土の匂い。
エレノアは大きく息を吸い込んだ。
「やっぱり故郷はいいですね」
薄緑色のシンプルなドレスの裾を揺らしながら微笑む。
隣に立つヴィクトルも穏やかな顔をしていた。
「王宮では見たことのない表情ですな」
エレノアは少し驚いた。
「そうですか?」
「ええ」
ヴィクトルは笑う。
「今の方が十歳は若く見えます」
思わず二人で笑った。
王宮にいた頃のエレノアは常に仕事に追われていた。
朝は日の出前から帳簿。
昼は会議。
夜は契約書。
深夜は赤字補填。
眠る時間さえ削って働いていた。
だが今は違う。
朝はゆっくり朝食を食べられる。
窓を開けて風を感じる余裕もある。
その日の朝食は、焼きたての白パンと蜂蜜、スクランブルエッグ、ハーブソーセージ、苺のジャムだった。
銀器ではなく木製の食器。
しかし温かかった。
何より食事が美味しい。
「王宮の朝食より美味しいですね」
エレノアが言うと、執事たちは誇らしげに胸を張った。
「ありがとうございます、お嬢様」
朝食を終えたエレノアは領都の中心部へ向かう。
最近改装した三階建ての石造りの建物。
その看板にはこう書かれていた。
――レイヴン財務顧問会。
今日が正式な開業日だった。
建物の前には人だかりができている。
商人。
工房主。
農場経営者。
皆、不安そうな顔をしていた。
その中の一人が駆け寄ってくる。
「本当に相談に乗っていただけるのですか?」
「もちろんです」
エレノアは優しく答えた。
「困っていることを教えてください」
男は頭を下げた。
「借金です」
「どのくらいですか?」
「三万クローネほどで……」
「帳簿はありますか?」
「あります!」
男は慌てて書類を差し出した。
エレノアは目を通す。
数分後。
「問題ありません」
「え?」
「借金が問題ではありません」
「え?」
「利益が出ているのに在庫管理が下手なだけです」
男は目を丸くした。
その場で改善案が示される。
利益率。
回転率。
支払期日。
数字が次々と整理されていく。
三十分後。
男は泣きそうな顔になっていた。
「助かりました……!」
その様子を見ていた人々がざわつく。
「本当に解決したぞ」
「さすが元王妃様だ」
「私も相談したい」
あっという間に行列ができた。
昼過ぎ。
事務所の二階会議室では見慣れた顔が集まっていた。
カミーユ。
元監査官。
老会計士のベルトラン。
契約管理官のロイド。
秘書官たち。
王妃府の元職員である。
全員が新しい制服を着ていた。
紺色を基調とした上品な服だ。
「皆さん」
エレノアが微笑む。
「改めて、ようこそ」
拍手が起こった。
カミーユが涙ぐむ。
「本当にまた一緒に働けるなんて……」
「私も嬉しいです」
エレノアはそう答えた。
王宮を出た日。
これほど多くの仲間がついてきてくれるとは思わなかった。
ヴィクトルが書類を差し出す。
「初日の契約件数です」
エレノアは目を通す。
そして目を見開いた。
「百三十件?」
「はい」
「多すぎませんか?」
「まだ増えております」
部屋に笑いが広がる。
その時だった。
受付係が慌てて飛び込んでくる。
「お客様です!」
「順番待ちでしょう?」
「いえ、その……」
受付係は緊張した顔をしていた。
「隣国ルクセリア大公閣下がお見えです」
室内が静まり返る。
ヴィクトルが思わず咳き込んだ。
「誰ですと?」
「ルクセリア大公アレクシス閣下です」
全員が顔を見合わせる。
大陸でも有名な経済改革の名君。
その本人が来たというのだ。
数分後。
応接室。
アレクシスは深い青の上着をまとい、優雅に紅茶を飲んでいた。
金色の髪が陽光を受けて輝いている。
彼はエレノアを見るなり微笑んだ。
「お久しぶりです」
「閣下」
「王宮を辞められたと聞いて驚きました」
「私も少し驚いています」
エレノアが答えると、アレクシスは楽しそうに笑った。
「ですが」
彼は窓の外を見る。
財務顧問会へ続く長い行列。
活気に満ちた街。
働く人々の笑顔。
「どうやら失業の心配はなさそうですね」
エレノアも窓の外を見た。
確かにそうだった。
王宮を失った。
地位も失った。
肩書も失った。
けれど。
不思議なことに人生は終わらなかった。
むしろ始まった気がする。
外では鐘の音が鳴っている。
人々の笑い声が聞こえる。
活気が溢れている。
エレノアは胸の奥に温かいものを感じた。
王宮では決して味わえなかった感覚だった。
それは自由だった。
そして同時に、新しい未来の始まりでもあった。




