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あくびの予言

作者: たんすい
掲載日:2026/04/13

朝の光が水槽のガラスに当たると、フグはゆっくりと向きを変えた。

凪沙はいつものように水槽の前に立ち、独り言のように囁いた。


「今日は、どんな顔を見せてくれる?」


凪沙が勝手に決めたフグの行動占い。

誰も知らない。

私とふぐの毎朝の日課だった。


水槽の前に立つと、フグはすぐに大きく口を開けた。

あくびだった。


「今日は、ちょっといいことがあるんだ」


凪沙はこういうとき、声がやわらかくなる。

会社では一度も出したことのない声で。


尾びれを体に折り曲げてボールみたいになったら「大吉」

目をつぶったら「注意運」だ。


「いってくるね」


水槽に顔を寄せ、フグを指さし微笑んだ。

微笑むしかなかった。


三十一歳、独身、広告代理店の契約社員。

恋人も友人関係も、すでに形骸化していた。


この三十センチ四方の水槽と、沈黙だけだった。

——ただしこのフグとの時間を除いて。


※※※


夜、凪沙がソファに腰を下ろしたときだった。

スマホをテーブルに置き、画面を伏せる。

会社のチャットの通知は、今夜も途切れる気配がない。


そのとき、水槽の右上でフグがゆっくりと目をつぶった。


凪沙は眉を寄せたが、すぐに首を振った。


そう思った瞬間、玄関の方から小さな異音がした。

振り返るより早く、無骨な腕が首に回り、口を塞いだ。冷たい刃が頰に触れる。


抵抗する間もなく、彼女はリビングの椅子にガムテープで固定された。

侵入者は二十代後半の男だった。

バングラデシュ出身だと後で知った。


浅黒い肌、乾いた鋭さだけの眼光。

言葉は通じなかった。

絶望という名の、底の見えない穴。


男は部屋を荒らし始めた。

引き出しをひっくり返し、クローゼットを漁り、苛立ちを露わにする。


金がない。

価値のあるものがない。

凪沙は震えながら、ただ水槽だけを見つめていた。


フグはいつもと同じように悠然と泳いでいた。

そして、凪沙と目が合った瞬間——

フグは口を開けた。


一度。

ゆっくりと閉じた。


間があった。不自然なほどの静止。

そして、もう一度。大きく。


凪沙は息を呑んだ。喉の奥で、笑いとも嗚咽ともつかないものが込み上げた。

涙が零れた。


(このまま、何もない人生で終わるのは嫌だ)


目を瞑れば、そこまでだと思った。


そのとき、男が机の引き出しを乱暴に開けた拍子に、肘が水槽のスタンドに当たった。

ライトが点灯、最大光量で閃いた。


その光の中で、フグの丸い体が美しい橙と青に発色した。


男の動きが止まった。

ナイフを握ったまま、彼はゆっくりと水槽に歩み寄った。唇が震えた。


「……ポトカ・マチャ……?」


それは、出稼ぎに来る直前、雨季の川で娘のために採ってあげた、陽に透けるとトパーズのように輝くフグだった。


Abbaパパ、ポトカ、きれい」


その声と笑顔が、男の脳裏にふっと浮かんだ。


男はゆっくりと振り返った。

椅子に縛られた凪沙の姿が目に入る。


凪沙の怯えた顔に、男の視線が止まった。


握っていたナイフが、わずかに下がった。

呼吸が乱れ、視線が揺れた。

まるで、自分の手が何をしているのかを、今ようやく理解したかのように。


六年。送金は減り、妻の声は途絶え、娘の笑顔は夢にさえ戻らない。


ナイフを持った手が、ゆっくりと床に落ちた。

男は水槽の前に膝をついた。


フグは、まるで男だけに向かって、口を大きく開けた。

そして、もう一度。

ゆっくりと、何かを告げるように。


男の喉の奥から、異国の短い言葉がこぼれた。

凪沙には意味は分からなかった。ただ、その声に恐怖はなかった。


男の肩が小刻みに震え、喉の奥で何かが潰れるような音が漏れた。


凪沙は、その音を聞きながら、自分がまだ生きていることを、初めて実感した。

男は、床に両手をついたまま、長い間動かなかった。


やがて立ち上がると、彼女の背後に回った。

刃の冷たさが、テープを一本ずつ、慎重に切り裂いていった。


最後のテープが落ちたとき、男は一度だけ、深々と頭を下げた。

何も言わず、何も奪わず、夜の廊下へ消えていった。


部屋に残されたのは、静けさと、水槽の微かな水音だけだった。


凪沙はしばらく椅子に座ったまま、呼吸の仕方を思い出すように胸を上下させた。


やがて、机の上のスマホに手を伸ばす。

画面を点け、指が「110」の数字の上で止まった。

ほんのわずか、触れただけで反応しそうな距離。


けれど、押さなかった。

指先がゆっくりと離れていく。


凪沙は立ち上がり、水槽の前に歩み寄った。

フグは右上に浮かび、いつものようにヒレをふわりと揺らしていた。


「……本当、だったね」


その声は、誰に向けたものでもなかった。

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