あくびの予言
朝の光が水槽のガラスに当たると、フグはゆっくりと向きを変えた。
凪沙はいつものように水槽の前に立ち、独り言のように囁いた。
「今日は、どんな顔を見せてくれる?」
凪沙が勝手に決めたフグの行動占い。
誰も知らない。
私とふぐの毎朝の日課だった。
水槽の前に立つと、フグはすぐに大きく口を開けた。
あくびだった。
「今日は、ちょっといいことがあるんだ」
凪沙はこういうとき、声がやわらかくなる。
会社では一度も出したことのない声で。
尾びれを体に折り曲げてボールみたいになったら「大吉」
目をつぶったら「注意運」だ。
「いってくるね」
水槽に顔を寄せ、フグを指さし微笑んだ。
微笑むしかなかった。
三十一歳、独身、広告代理店の契約社員。
恋人も友人関係も、すでに形骸化していた。
この三十センチ四方の水槽と、沈黙だけだった。
——ただしこのフグとの時間を除いて。
※※※
夜、凪沙がソファに腰を下ろしたときだった。
スマホをテーブルに置き、画面を伏せる。
会社のチャットの通知は、今夜も途切れる気配がない。
そのとき、水槽の右上でフグがゆっくりと目をつぶった。
凪沙は眉を寄せたが、すぐに首を振った。
そう思った瞬間、玄関の方から小さな異音がした。
振り返るより早く、無骨な腕が首に回り、口を塞いだ。冷たい刃が頰に触れる。
抵抗する間もなく、彼女はリビングの椅子にガムテープで固定された。
侵入者は二十代後半の男だった。
バングラデシュ出身だと後で知った。
浅黒い肌、乾いた鋭さだけの眼光。
言葉は通じなかった。
絶望という名の、底の見えない穴。
男は部屋を荒らし始めた。
引き出しをひっくり返し、クローゼットを漁り、苛立ちを露わにする。
金がない。
価値のあるものがない。
凪沙は震えながら、ただ水槽だけを見つめていた。
フグはいつもと同じように悠然と泳いでいた。
そして、凪沙と目が合った瞬間——
フグは口を開けた。
一度。
ゆっくりと閉じた。
間があった。不自然なほどの静止。
そして、もう一度。大きく。
凪沙は息を呑んだ。喉の奥で、笑いとも嗚咽ともつかないものが込み上げた。
涙が零れた。
(このまま、何もない人生で終わるのは嫌だ)
目を瞑れば、そこまでだと思った。
そのとき、男が机の引き出しを乱暴に開けた拍子に、肘が水槽のスタンドに当たった。
ライトが点灯、最大光量で閃いた。
その光の中で、フグの丸い体が美しい橙と青に発色した。
男の動きが止まった。
ナイフを握ったまま、彼はゆっくりと水槽に歩み寄った。唇が震えた。
「……ポトカ・マチャ……?」
それは、出稼ぎに来る直前、雨季の川で娘のために採ってあげた、陽に透けるとトパーズのように輝くフグだった。
「Abba、ポトカ、きれい」
その声と笑顔が、男の脳裏にふっと浮かんだ。
男はゆっくりと振り返った。
椅子に縛られた凪沙の姿が目に入る。
凪沙の怯えた顔に、男の視線が止まった。
握っていたナイフが、わずかに下がった。
呼吸が乱れ、視線が揺れた。
まるで、自分の手が何をしているのかを、今ようやく理解したかのように。
六年。送金は減り、妻の声は途絶え、娘の笑顔は夢にさえ戻らない。
ナイフを持った手が、ゆっくりと床に落ちた。
男は水槽の前に膝をついた。
フグは、まるで男だけに向かって、口を大きく開けた。
そして、もう一度。
ゆっくりと、何かを告げるように。
男の喉の奥から、異国の短い言葉がこぼれた。
凪沙には意味は分からなかった。ただ、その声に恐怖はなかった。
男の肩が小刻みに震え、喉の奥で何かが潰れるような音が漏れた。
凪沙は、その音を聞きながら、自分がまだ生きていることを、初めて実感した。
男は、床に両手をついたまま、長い間動かなかった。
やがて立ち上がると、彼女の背後に回った。
刃の冷たさが、テープを一本ずつ、慎重に切り裂いていった。
最後のテープが落ちたとき、男は一度だけ、深々と頭を下げた。
何も言わず、何も奪わず、夜の廊下へ消えていった。
部屋に残されたのは、静けさと、水槽の微かな水音だけだった。
凪沙はしばらく椅子に座ったまま、呼吸の仕方を思い出すように胸を上下させた。
やがて、机の上のスマホに手を伸ばす。
画面を点け、指が「110」の数字の上で止まった。
ほんのわずか、触れただけで反応しそうな距離。
けれど、押さなかった。
指先がゆっくりと離れていく。
凪沙は立ち上がり、水槽の前に歩み寄った。
フグは右上に浮かび、いつものようにヒレをふわりと揺らしていた。
「……本当、だったね」
その声は、誰に向けたものでもなかった。




