1話 灰と誕生の日
本編スタート!
炎は、何もかもを奪い去る。
温もりも、笑顔も、未来さえも。すべてを等しく無に還す、ただただ無慈悲だ。
だから、この力を使うたびに思い出す。
何も守れず、ただ震えることしかできなかった、あの日の絶望を。
「――こちら紅莉。目標、C級虚獣の群れを確認。これより殲滅を開始する」
廃墟と化した商業ビルの屋上で、俺――紅莉奏斗は、眼下に蠢く異形を見下ろしていた。人間の死体から生まれた哀れな怪物、『虚獣』。その醜悪な姿は、俺の心の奥底に沈殿した憎悪を、静かに揺り起こす。
「うーし、奏斗サン、行っちゃいましょう! 後方支援はお任せを!」
「サーチした所、ざっと30体くらいね。さっさと焼き払って帰るわよ」
「ああ……。」
怜と順、二人の仲間の声に短く応え、俺は屋上の縁から身を乗り出す。右手に意識を集中させると、掌に揺らめくように深紅の炎が灯った。
生温い。
この炎は、まだ生温すぎる。
あの日の、すべてを焼き尽くした黒い絶望に比べれば――まるで児戯だ。
そうだ。すべては、あの日から始まった。
俺が、紅莉奏斗という人間が復讐者として生まれ変わったあの忌まわしき誕生日から。
***
9年前。
その日、世界はまだ優しさと祝福に満ちていた。
「かなと、お誕生日おめでとう!」
リビングの扉が勢いよく開かれ、満面の笑みを浮かべた母さんが、大きなケーキを抱えて現れた。10本の色とりどりのロウソクが、きらきらと光の粒を散らしている。
「わぁ……!」
10歳になったばかりの僕の目は、チョコレートのプレートに書かれた「かなとくん」という文字に釘付けになった。隣では、父さんが「こら、つまみ食いは後だぞ」と、僕の頭を優しく撫でる。
部屋は飾り付けで彩られ、テーブルには母さんの手料理と、僕の大好物である唐揚げが山のように積まれていた。ありふれているが、何物にも代えがたい、幸福な光景。
「奏斗、おめでとう」
少し照れくさそうに、小さなプレゼントの箱を差し出してくれたのは、隣の家に住む幼馴染の美咲だ。僕より一つ年下で、いつも僕の後ろをついてくる、少し気の弱い女の子。
「ありがとう、美咲」
プレゼントを受け取ると、彼女は嬉しそうに頬を赤らめた。父さんと母さんが、そんな僕たちを微笑ましそうに見守っている。
ロウソクの火を吹き消し、ケーキを切り分け、みんなで笑いながらプレゼントを開ける。美咲がくれたのは、手作りの、少し不格好な星のキーホルダーだった。
「来年も、その次も、ずっと一緒にお祝いさせてね。奏斗」
「当たり前だろ。僕が美咲を守ってやるんだから」
他愛もない、子供の約束。
けれど、その時の僕にとっては、世界の真理そのものだった。
この温かい時間が、優しい世界が、永遠に続いていくのだと、何の疑いもなく信じていた。
――だから、気づけなかったのだ。
幸福の薄皮一枚を隔てたすぐ外側で、絶望が口を開けていたことに。
その瞬間は、唐突に訪れた。
バツン、と何かが断ち切れるような音と共に、部屋中の明かりが消えた。世界から、色が失われる。
「停電かな?」
「あら、珍しいわね」
父さんと母さんの呑気な声。
だが、僕の胸には、形容しがたい悪寒が突き刺さっていた。窓の外を見ても、近所の家の明かりは一つもついていない。まるで、僕たちの家があるこの区画だけが、世界から切り取られてしまったかのようだった。
静かだ。
テレビの音も、車の走行音も、虫の声すら聞こえない。
死んだような静寂が、リビングを支配する。
――コン、コン。
不意に、玄関のドアをノックする音が響いた。
こんな時間に誰だろう、と父さんが立ち上がる。
やめろ。
行くな。
言葉にならない叫びが、喉の奥で凍りつく。得体の知れない恐怖が、僕の体を金縛りにあったように縫い止めていた。
父さんがドアノブに手をかけた、その時だった。
ゴウッ、という轟音と共に、炎を奔流が玄関ドアと父親を飲み込んだ。
塵となり崩れた玄関ドアの向こうには、人と同じ形をした『何か』が立っていた。
すらりとした長身に、黒い外套のようなものを纏っている。だが、その輪郭は陽炎のように揺らめいていた。顔があるべき場所には、ただ虚無的な闇が広がっている。
「……あ……ぁ……」
母さんが短い悲鳴を漏らし、美咲は僕の腕にしがみついて震えていた。
『どうもこんばんは、祝福の夜に』
その声は、男のようでもあり、女のようでもあった。ただひたすらに、聞く者の精神を削り取るような、不快な響きをしていた。
「な、なんだお前はッ!」
先程の炎で全身に火傷を負っているのにも関わらず、父さんが僕たちを庇うように前に出る。その手には、護身用に置いてあった金属バットが握られていた。無意味だと、誰もが分かっていた。目の前の存在は、そんなものが通用する相手ではない。
『ああ……やはりあの程度の炎では……生きていますよねぇ。申し遅れました。私は黒焔。遍く魂に救済を授ける者』
黒い人影――黒焔は、まるで舞台役者のように芝居がかった仕草で手を広げた。
『今日はあなたたちに祝福を授けに来た。さあ、その身を捧げなさい。苦痛なき魂の変革を、私が与えよう』
何を言っているのか分からない。
父さんが叫びながら、黒焔に殴りかかった。
しかし、金属バットがその体に触れる寸前、父さんの身体中から、黒い炎が燃え上がった。
「ぐ、ああああああああああッ!?」
悲鳴は、一瞬で途切れた。
黒い炎は音もなく燃え広がり、一秒とかからず父さんの全身を包み込んだ。そして、骨すら残さず、一人の人間が、黒い灰の山へと変わった。
「あ……なた……」
呆然と呟く母さんの前に、黒焔はいつの間にか移動していた。
『次はあなたですね。案ずることはない。すぐに、愛する人の元へ送ってあげますよ』
黒焔の指先から伸びた黒い火の粉が、母さんの額に触れる。それだけだった。母さんは悲鳴を上げる間もなく、内側から発火するように燃え上がり、崩れ落ちた。
目の前で、世界が壊れていく。
理解が、追いつかない。涙も出ない。ただ、カタカタと歯の根が鳴る音だけが、やけに大きく聞こえた。
黒焔が、ゆっくりとこちらを向く。
その視線が、僕と、僕にしがみつく美咲を捉えた。
『さあ、次の子羊。少年、あなたにも、祝福を』
美咲が、僕を庇うように小さな体で前に出た。
「かなとは……私が、守る……!」
震えながらも、その瞳には強い意志の光が宿っていた。
やめろ、と叫びたかった。逃げろ、と突き飛ばしたかった。
だが、体は動かない。
黒焔は、そんな美咲の健気な抵抗を嘲笑うかのように、ゆっくりと手を掲げた。
『美しい友愛だ。だが祝福は止めることは許されない。新たな世界へ旅立つがいい』
掌から放たれた黒い炎が、僕を飲み込もうと迫る。
死ぬ。
そう思った瞬間、僕の中で何かが弾け飛んだ。
父さんが死んだ。
母さんが死んだ。
僕も殺される。
僕の次は美咲も殺される。
なぜ。
どうして。
僕の誕生日だったのに。
みんな笑っていたのに。
理不尽だ。
許せない。
こんなこと、あっていいはずがない。
憎い。
目の前の、こいつが。
僕の世界を壊した、こいつが。
憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い!
――ゴウッ!!!
その時、僕の全身から、紅蓮の炎が爆発した。
迫り来る黒い炎を、僕から迸った赤い炎が真正面から打ち消し、弾き飛ばす。それは、憎悪そのものが形になったかのような、荒々しい破壊の奔流だった。
『――ほう?』
黒焔が、初めて驚嘆の声を漏らす。
僕の体は、まるで溶鉱炉のように熱かった。全身の血が沸騰し、骨がきしむ。けれど、不思議と痛みはなかった。ただ、目の前の敵を焼き尽くしたいという、純粋な破壊衝動だけが僕を突き動かしていた。
僕は、灰と化した両親の亡骸を見下ろし、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。
子供の無邪気さは、黒い炎と共に焼き尽くされた。
今、ここにいるのは、復讐の化身だ。
「――お前は」
10歳になったばかりの少年とは思えない、地獄の底から響くような声が、僕の口から漏れた。
「僕が殺す」
紅蓮の炎が、僕の憎悪に応えるように激しく燃え盛る。黒焔はそれを興味深そうに眺めていたが、やがてつまらなそうに肩をすくめた。
『なるほど。憎悪を燃料とする炎か……実に人間らしい、愚かで美しい輝きだ。だがその程度では火力が足りない』
黒焔は、僕の炎を意にも介さず、一歩、また一歩と近づいてくる。僕の全力の炎が、まるで存在しないかのようにその体は揺らぎもしない。
『そして、君は今日の目的ではない』
その言葉の意味を理解するより早く、黒焔の影のような手が伸び、僕の隣で呆然としていた美咲の体を掴んだ。
「――ッ! やめろ! 美咲に触るな!」
僕はさらに炎の勢いを増そうとするが、黒焔は片手で僕を静止し、怯える美咲の顔を覗き込む。
『やはり、君だ。君こそが、我らが悲願のための礎となるべき存在。素晴らしい肉体、そして魂の輝きだ』
「いや……いやぁっ!」
美咲の悲鳴が、リビングに響き渡る。
黒焔は美咲を軽々と抱え上げると、僕に最後の言葉を投げかけた。
『人の子よ。その憎しみの炎、絶やすことなく燃やし続けるがいい。君がその炎で天を焦がすほどに成長した時、再び相見えよう』
黒焔は、僕を見下し、心底楽しそうに嗤った。
『その時まで、憎しみを絶やすな。』
その言葉を最後に、黒焔は美咲を抱いたまま、音もなく闇の中へと溶けるように消えていった。
「待て……待てよぉっ!」
伸ばした手は、空を切る。
返して。
僕の家族を。
僕の美咲を、返せ――!
叫びは声にならず、燃え盛っていた紅蓮の炎が、まるで命の火が消えるように急速に勢いを失っていく。視界がぐにゃりと歪み、全身から力が抜けていく。熱かったはずの体は、急速に冷たくなっていく。
床に散らばった両親だったもの。
美咲がくれた、星のキーホルダー。
そして、誰もいなくなった、暗闇。
それが、僕が最後に見た光景だった。
憎悪と無力感に苛まれながら、僕の意識は、深い深い闇の中へと沈んでいった。
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