愛の形のその続き
木々は赤や黄色など暖色系の色に移り変わり、冷たい風が吹く季節になった。
私のパズルの形は日々変化する。そのピースの形や色彩は私が一つ経験するたびに変化していく。私は日々を過ごしていく中で、自分の感情を整理し、熟成させていった。
彼の望みは、私の汚れてゆがんだ欲望を叶えること、そして、自分の全てを私に与えることだった。愛斗の望みを叶えることが私から彼への愛だった。彼は私を愛した。彼が愛するものを私が愛する、ということも、それもまた、私から彼への愛なのだ。
彼との思い出は、私の心の部屋の中で、キラキラと輝いている。他の場所は、どんよりと重い空気をまとっているのに、その部分だけ、軽やかで明るい空気が流れている。
思い出を美化してしまうことは、悲しいことだとわかっているけれども、私は、彼との思い出を、一つ一つ、優しく手にとって、丁寧に磨いて、一番綺麗に見えるところに飾っているのだ。
そうして私は、更に一層綺麗になった思い出を、うっとりと見つめるのだ。
そんな私は、他人から見たら、酷く悲しく映るだろうけれども、でも、こんな私も、人間らしい、ということなのだろう。私は、時々、そんな自分に酔いしれるのだ。
私は、彼を失ったことを引きずっているのではない。ちゃんと、その冷たさと重さを感じて、胸に抱えて生きている。落とさないように大事に抱えて、たまに抱えたものを覗き込んで、その思い出を優しく見つめ、愛おしく思うのだ。
リビングに額縁に入れられて飾られたパズルの中央には、薄く青く、虹色に反射する卵が、ぴったりと嵌まっている。
私は以前よりも、ほんの、ほんの少しだけ、自分を好きになれた。気がしている。彼が、私のありのままを受け入れ、肯定してくれたから。でも、それでも。それでも、たまに、どうしても、私が私を愛せなくなる時がある。悔しくて、許せなくて、ぐちゃぐちゃにしてやりたくなる。その時は、私の代わりに、私の中のピースの一部となった彼が、私自身を温かく、柔らかく包み込み、愛してくれている。と、そう信じている。
彼は、私に特別を与えてくれた。彼の体から出てきた植物で病気を治すことも、何も言わずとも私の心を分かってしまうことも、空を飛ぶことも。そして、彼がこの世からいなくなってからも、私と同化するという事で、私に永遠に与え続けてくれている。
彼が亡くなったあと、見つけたものがあった。唯一の遺品らしき遺品だった。
それは、ベット脇のチェスト引き出しの底の方に、彼が寝る前につけていた何種類かのリップクリームやハンドクリーム、香水の下敷きになって置かれていた。
チェストの引き出しは、私のものと彼のもので分かれていたから、私は彼が引き出しに何を入れたか知らなかった。
彼がいた頃は、その引き出しを開けようとも思わなかった。怪しいものが入っているとは思わなかったし、なにより、彼の所有物たちを覗き見するのはプライバシーの侵害のように思えた。
B5サイズの無地の茶色の表紙のノート。
開くと、彼の、右上がりでハネが強い文字たちが綴られていた。
この日誌はいつ書いたものなのだろうか。彼には毎日日記をつける習慣は特になかったように思う。思い立った時に書きつけていたのだろうか。今となっては分からないし、確認しようがない。
彼の日誌の最初の一文は、疑問から始まっていた。
「なんのために、生きているのだろうか。」
私は知らなかった彼の一面を思いがけず見つけてしまい、胸がドキドキした。彼はどちらかというと、明るく私を励ましてくれる方だったので、彼の暗い一面に触れてしまい、その後の文章を読んでいいものかと、緊張で耳のすぐ裏で心臓が鳴っていた。目線を少し下にずらして、続きの文章を読み進める。
もう、あと数年で、僕の命は潰えようとしているのに。生きる意味など、あるのだろうか。
母は、父が死んでから、怖いくらいにもう死んでいるはずの父に心酔するようになった。
それはまるで、神を崇めるかのようだった。
一つ一つの思い出は、河原に落ちている素朴な石のように、静かな温かさを持って僕の中に積み重なっていたのに、母の中では違っているようだった。
僕は、そんな母を見ているのが、怖かった。普段は普通どおりなのに、何かの拍子に狂った動きをするおもちゃのように、どこにあるかわからないスイッチを押してしまうと、母はうっとりと酔いしれながら熱を込めて、父の話をするのだった。
大学で出会って、鉛筆を拾ってもらって。結婚をして。一緒に住んで。
繰り返し、繰り返し、異様な熱を持って語られる物語は、母の口から語られれば語られるほど、現実のものとは思えないような面妖さを含んでいっていた。
母が父のことを語るその様は、思い出に浸っている、という表現がぴったりだった。はじめのうちは、母と父の思い出は、実際に起こった出来事に忠実に、不純物のないきれいな水として母の中に揺蕩っていたのに、何度も何度も母がすくい取るうちに、母の中で、キラキラと輝く、誰の手にも取れない聖水となってしまっていた。
母は父を、神格化しているようだった。
僕の中で父は愛情をたっぷりと優しく降り注いでくれた温かい血の通ったれっきとした人間だったのに、母は記憶の中の父を改ざんしていっていた。
いつでも、好きにすくい取れたのに、神聖化して、まるで、本来は手に取れない神秘的なもので、そんな神秘的なものを手に取っている母もこの世とは又別な世界にいる存在のようだった。
僕は、父の最期を知らない。まだ幼く、記憶になかった。我が家には仏壇もお墓もなかった。
人が死ぬ時には火葬して骨ができて、それを砕いて壺に入れてお腹に収める、ということを知ったのは僕が高校生になってからだった。
父の遺骨と言う存在はなく、お墓という存在もなかった。それを疑問に思うこともなかった。
不思議だったのは、父が亡くなって程なくしてから、母の瞳の色が吸い込まれるような翡翠色に変わったことだった。
その頃から、母は変わってしまった。母は、この世ではないものをうっとりと眺めているようだった。
もう母とは元の関係には戻れないなと思う。僕も、成長して大人になって見える世界が広がったことで、今まで見えてこなかった家族のあり方に疑問を覚えるようになってしまった。
父は、僕に言っていた。誰かを愛することはとても素晴らしいことだ、と。
でも、短命な僕に、そんな人に出会えるような時間など残されているのだろうか。
父は母を愛していたし、母も父を愛していたと思う。けれど、母がもつ父への愛は、狂気じみていた。
母も、愛することは素敵だと僕に諭した。けれど、母の愛は宗教的で、父に傾倒しているようで、父の言う愛とは異なるもののように見えた。母の愛はベッタリと油のようにひっついている。
母が愛しているのは父なのか、それとも、父を愛している自分自身なのか。
父をいつまでの愛し続ける自分に酔っているようにも見える。
今、僕は、母と距離を置いて暮らしている。心の底から家族と呼べる存在は、僕には居ない。恋人も居ない。仕事も辞めてしまった。
僕の今には何もない。
仕事を辞めて、何もないのも嫌だから、好きな勉強をまたしようと思って大学に入り直したが、まだ身になるものは身につけては居ないので何もないことに変わりはないだろう。僕は僕の存在意義がわからない。
絶望。
彼の暗く。冷たい部分に触れてしまったせいで、私の心臓が冷え込んでいく。でも、確かに、初めて彼を見た時、彼は、これからの未来を楽しむようなオーラは纏っていなかったように思う。今思うと、当時の彼は、「無」だったのだろう。
そしてまた、彼は、私への手紙の中で、「負の連鎖を断ち切りたい」と言っていた。なぜ、「負」なのかと思っていたが、彼の家庭環境が影響していたのか。あんなにも仲が良かったのに、肝心なことは何も言わずに彼は人としての命を終わらせてしまった。今となってはもう会話もできない。
ページが変わっていた。ボールペンの種類も変えたのだろうか。太さとインクのにじみ具合が変わっていた。
雷が落ちる、なんて言うけれど、そこまでの衝撃ではなかった。
あ、という声が、出てしまった。
この子だ、と、僕の知らなかった僕が、言っている。
一滴の水滴が落ち、水滴が落ちた地面から、花が咲いた。枯れきっていたのに。枯れた草木しかなかったのに。ぽん、と小さな小さな花が咲いた。細い光が、その花を照らしている。
ああ、そうか、この子なのか、と、まだ話したこともないはずなのに、そんな直感で胸がいっぱいになる。
出会えたのだ、という安堵感。
「心に花が咲いたら」
父が、幼い頃から僕に言って聞かせた言葉が蘇る。
「もし、自分が大切にしたいと思える相手に出会えたのなら、心の底から愛してあげなさい。大事にしてあげなさい。私達は短い命で、してあげられることは他の人達よりもずっとずっと少ないのだから。私達は奇妙な運命を背負っているけれど、自分にとっての運命の人を見つける能力は長けている。すぐに分かるから、その人だと。心に花が咲いたら、その人だから、自分の直感を信じてその人を、全てをかけて愛しなさい。」
彼のノートは、元の位置に戻しておいた。寝る前に、彼を感じられるように。自分のすぐそばに彼のものがあるだけで、私は私の外に彼を感じることができて安心するのだ。
もし、会えるのなら、愛斗の父親に会ってみたいと思った。彼を、ここまで愛情深い人間に育ててくれた彼の父親に。会って、彼を育ててくれてありがとうと、伝えたかった。
でも今は、彼の父に会うことも、人間としての彼に会うこともできない。今はできないけれど、遠いようで近い未来で、私が空に昇ったら、対等な存在として愛斗と、彼の父親に会うことができるかもしれない。
体の中心よりも少し左側の胸に、手を当てる。どくん、どくんという鼓動が感じられる。その鼓動は、私一人分のものではない。愛斗と私、二人分の鼓動。
私は私の内側から愛されている。
私の鼓動が続く限り、私は愛斗を感じられるから、私は決して、寂しくはないのだ。
いつもの買い物の帰り道。私は電車に乗り込み、ロングシートの端っこに座った。食品や日用品は、最近は車ではなく、電車で行くことが多くなった。一人分だけだと、そこまでの量にならず、充分一人で持って帰れる量だから。車窓から季節の移り変わりを眺めることで、私は生を感じていた。
夕方の時間帯。電車の中は空いていて、赤い日差しが斜めから電車の中に入ってくる。学校帰りなのだろうか、高校生もちらほら見かける。混み具合はそこそこ。社会人はまだいない。私の一つ席を開けて隣に座っている二人組の女子高生たちは、恋バナで盛り上がっていた。
「クラスの斎藤君、めっちゃよくない?絶対、あの人性格いいって。」
「わかる!この前もさ、文化祭の時だっけ?みいちゃんが重い荷物もって大変そうにしてたら荷物俺変わるよ、って言っててさ。すごいスマートじゃない?やばくない?」
「ね!みいちゃん、いいなー。私、斎藤君に選ばれたいな。」
「特別扱いっていうかさ、私だけに親切にしてくれてるんだって思うと、キュンとしちゃわない?」
「わかる!いいなー、私も斎藤君みたいな彼氏欲しいなー。」
「さっき、斎藤君に選ばれたいって言ってたじゃん、斎藤君じゃなくていいの?」
「いやー、だって、冷静に考えたら、倍率めっちゃ高いじゃん。でもな、彼氏は欲しいんだよなー。」
電車の中で、ガタンゴトンと車両が微妙な段差を超えるたびに揺れている。
彼女たちは、とても純粋に、きらきらと輝いて見えた。
これは、嫉妬なのか、それとも、劣等感から生まれ変わった優越感なのか。
私は、恋愛に対して、輝いた憧れを持てない自分に、悲しみ、そうあれない自分に、劣等感があった。けれどそれも、愛斗との、傍から見たらとても歪に見えるかもしれないが、私たちにとっては他の誰よりも深く、濃密な愛によって生まれ変わった。
この世でたった一人の人間に、強く、深く愛されたという事実は、私を安定させている。揺蕩い、高波が立つこともあった私の心は、今は、凪いでいる。
私は、恋バナで盛り上がる高校生にこう言った。
「生涯のパートナーを選ぶなら、病気のない人にしなさいね。」
その言葉は、この愛の形を私だけのものにしたいという独占欲か。それとも、親切心か。
私の優しく重い口調の言葉は、電車内の穏やかな空気にピンとした緊張感を張り、一瞬彼女たちを凍らせてしまったが、彼女たちは、素直な性格の子たちなのだろう。少し、顔を見合わせた後、はい、と真面目な顔で返事をした。
あの時の銀の粉と、灰になった羽は今でも持っている。忘れないように。私だけの、世界でたった一つの私しか持ちえない思い出として。誰にもとられないように。
私は、彼と私の間に起き出来事を深く悲しんだりはしていない。愛斗は私に、とても穏やかで静かな時間を与えてくれた。そして今も、私の内から与え続けてくれている。
目を閉じ、いつもより深く息を吸い、時間をかけて息を吐く。そして、ゆっくりと瞼を上げる。私の向かいの席には、誰も座っていない。
電車の向かいの窓に映った私の瞳は、美しい翡翠色に輝いていた。