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愛を食す  作者: 里舘 凪
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次の朝、目が覚めると、彼は起きてはいるけれど、朝ごはんはまだ作っていないようだった。

そうだ、今日は、二人で朝ごはんを作ろう。いつもどちらか片方が一人で作るから、たまには一緒に作ろう。そして、この前は意地悪をしてしまったから、今回はちゃんと目玉焼きではなく、スクランブルエッグを作ろう。

そう思って、洗面所に向かうと、洗面所の扉が閉まっていた。リビングに人影はなく、トイレにも人の気配がしなかったから、彼がここにいることは間違いなかった。

「ねぇ、開けてよ。」

声を掛けるが、返事がない。

「顔、洗いたいんだけど。」

やはり、返事がない。

「おーい。」

扉をコン、コン、コンとノックする。しばらく経って、か細い声が聞こえてきた。

「……見られたくないんだ。」

察するに、また何か体に変化があったらしい。

「また、何かあったの?」

返事はない。どうしようか。今回は今までの中でかなり深刻そうな様子だ。

人に見せられないほどのものなのだろうか。そんなにグロテスクで、醜いものなのだろうか。

「……笑わない?」

「?笑わない?」

笑う、とは一体どういうことだろうか。

カチャン、と内側から鍵が開く音がして、恐る恐る扉を開ける。

私は、そうっと中を覗いて、洗面器の前に座り込む彼の姿に、絶句した。


結局、朝ごはんは私一人で作った。キャベツの千切りとスクランブルエッグとベーコンとカフェラテ。

今日は、ちゃんとスクランブルエッグを作った。いつもより、砂糖を多めで、甘めに作った。

改めて、今の彼の様子に感嘆する。

「何回見ても、綺麗だわ。」

「僕は、君が何をそんなに喜んでいるのか理解ができないよ。」

彼は、不貞腐れている。

「朝起きたら、こんな、ふわっふわな羽が生えているんだなんて。羽は羽でも、もっとこう、メタリックな感じで、砲撃ができたり、シールドを貼れたりするやつが良かった。」

「あなた、一体どこで誰とバトルをする気なのよ。」

嫌がるところはそこなのか、相変わらずのバトル思考に半ば呆れつつ、食事を進める。

今の彼は、まるで、天使のようだった。

白く輝く、雪のような柔らかさと儚さを持つ羽。

折り畳まれている状態でも、高さは彼の身長くらいある。両翼を広げたら、悠に四メートルはありそうだった。

羽に反射した光は、虹色の粒となって、彼の周りを舞っている。

思わず、吐息が漏れてしまうような、こんなにも美しい光景を、私は、見たことがなかった。

「そんなに、綺麗?」

「え?」

また、私はじっと彼のことを見つめてしまっていたようだ。

「ええと……」

また突然、そんなことを聞くから、返答に困ってしまった。

すると、彼はまた、ふふっ、と笑った。

どうしてそう、彼は私を見て笑うのだろうか。

私の顔に「不服」と大きく書かれているのを見たのだろう。

「いや、君が喜ぶなら、この羽も悪くないと思ったんだよ。」

相変わらず、彼の切り替えのポイントやその速さにはついていけないが、気分がちょっとあがったのなら、良かった。

そして、機嫌を良くした彼は、続けてこう言った。

「ねぇ、覚えてる?今日は記念日創立記念日その三だよ。」

そういえば、そうだった。最近の奇妙な出来事の連続ですっかり頭から抜け落ちていた。

私は、恋愛が苦手であるがゆえに、例にもれず、「記念日」が嫌いだった。特別なウキウキするようなことをするのが、気持ち悪い。背中がぞわぞわしてくる。だから、彼が勝手に記念日を作り始めた時、私は猛反対した。

なんでそんなことするのよ。記念日なんて、私たちの誕生日とクリスマスとバレンタインデーとホワイトデーで十分じゃない。それ以上増やしてどうするの。何をするの。二人で一緒に変わらぬ日常に過ごすだけで十分じゃない。嫌よ。私は嫌。私は、絶対に、そんな背中がぞわぞわして、体中がかゆくなるような気色が悪いことしないわ。

しかし、彼は私の意見など右から左に流して、カレンダーに勝手に書き込んでしまったのだ。

私は、彼に反発し、そのカレンダーの文字を修正テープで消したのだが、彼はその上から何度も書き直し、意地でも記念日を制定しようとした。最終的に、私は彼のしつこさに折れ、もう勝手にしろと彼を放っておくことにした。

しかし、いざ実際に記念日を過ごしてみると、私が想像していたものとは大きく異なっていた。

まず、記念日創立記念日の創立日は彼が花を買ってくることで、制定される。しかし、特別なことが起きるのは初回だけで、翌年以降の記念日創立記念日は普段と変わらない日常を送っている。

記念日、というからには何かケーキを買ったり、お花を買ったり、豪華な食事をしたりするものかと思っていたが、彼はそういうつもりで制定したわけではなさそうだった。

だから一度、記念日創立記念日の意義について、彼に尋ねたことがあった。

特別なことをやるわけでもないのに、記念日を作る意味はあるのか、と。

「あのね、記念日と名乗ることに意味があるんだよ。だって、記念日ってだけで特別な感じがするだろう?気分がわくわくするだろう?そんな気持ちで一日を二人で過ごすだけで、僕は十分なんだよ。」

納得できるようでできない言い分だが、確かに、彼は記念日創立記念日が近づくと、わくわくし出す。鼻歌を歌ったり、家の中でスキップしたり、ターンをしたり。そんな彼を見ていると、私も釣られてわくわくしてきてしまう。だから、そういう記念日だったら、悪くないかな、と思ってしまい、結局、一つも減ることなく、増えていくのだ。

「そうか、もう、そんな時期だったのね。」

「そう。カレンダーにも書いてある。」

 新しいカレンダーを買うと、彼は最初に記念日を赤丸で囲い、そしてそれが何記念日なのかを赤ペンで書き足す。そして、彼が鼻歌を歌いだすと、私は彼が書いたカレンダーを確認して、そうか、記念日創立記念日が近いのかと思い出すのだった。

「最近はちょっとバタバタしていたから、確認するのを忘れていたわ。」

「まあ、そんなときもあるよね。」

「でも、あなたは一度も忘れたことがないじゃない。」

「そりゃね。だって、僕が決めたことだし。」

 彼は、一度決めたことは忘れないし、きちんと守る。

でも、たぶん、今日も、記念日らしからぬ、普段と変わらない日常を送るのだろう。いや、彼に羽が生えているから、普段通りではないかもしれないが。

私は、スクランブルエッグを一口食べた。砂糖の甘さが口に広がる。私はあまり甘いスクランブルエッグは好きではないが、たまには甘いのもいいかもしれない。

「で、ちょっと君に予告をしておきたいのだけれど。」

「何?」

 私は、カフェラテで口に残ったスクランブルエッグの甘さを流し、キャベツの千切りを口に入れた。

今日はニンジンドレッシングをかけてみた。ニンジンがすりつぶしてあるが、ニンジン臭さはあまりなく、オリーブオイルの香りと、フルーティーな酸味が感じられる。

うん。おいしい。おいしいので、二口目も、と千切りキャベツに箸を伸ばした。

「今日はちょっと、記念日っぽい、特別なことをしようと思う。」

「え?」

 彼の思いがけない予告に、箸が止まった。彼が突拍子がないことを言うのは、今に始まったことではないが、しかし、毎回毎回、何かしらのリアクションをしてしまう。

 記念日っぽい、特別なこと。

最初の時のように激しい反発をするつもりはないが、しかし、嫌なものは嫌である。

だから、はっきりと断ろうと思ったのだが、彼の様子に違和感を覚えた。

気のせいだろうか。今までやったことのない、記念日っぽい、特別なことをしようとしているのに、彼の表情は、どこか寂しげな気がした。

「何をするの?」

漠然とした不安が、脳裏をかすめる。しかし彼は、先ほどの寂しさなどまるで感じさせない明るい表情で、いたずらっぽく笑って、こう言った。

「空を、飛ぶのさ。」

 私は箸で挟んだキャベツの千切りを落としてしまった。

「えっと……ちょっと待って。空を飛ぶって何?どうやって飛ぶのよ。」

「おや、君の目は節穴なのかい?」

「まさか……。」

 彼は、狭いアパートの中で、ゆっくりと翼を広げた。そして、部屋のものを飛ばさないよう、遠慮がちにはばたかせた。風が起こり、観葉植物の葉が揺れる。葉は柔らかく波打って揺れたが、一枚だけ、今にも枝から取れてしまいそうな葉は、くるくると激しく回った。

「……飛べるの?」

「飛べる。」

 彼は、私をまっすぐに見つめて言い切った。

「……なんで、言い切れるのよ。」

「言い切れるから、言い切れるんだ。」

 私は、今までの出来事を思い返してみた。

私が風邪を引いた時、彼は、自分の腕に生えた植物を加工して薬を作ってくれた。彼は腕の植物の作用について知っているようだった。その植物のどの部分をどのようにして処理すればいいのかも。

 その後のこともそうだ。彼は、立て続けに自分の体に大きな変化が起こっても、さほど動揺していなかった。

彼は、実は自分の奇病の詳細を知っているのではないか。だから、繰り返し「病院には行かない」と言っていたのではないか。動揺していなかったのも、私を心配させないため、というわけではなく、大したことが起こらないと最初から分かっていたからなのではないか。だから、これから起こりうることも、本当は分かっているのではないか……。

彼のその言い切った口調から、そんな疑いも生まれてしまう。

「出発は、夜だ。昼間だと、太陽の光が当たって熱いからね。イカロスみたいに溶けてしまいたくはないし。」

「ねえ、ちょっと待ってよ。もう少し説明してほしいんだけど。」

「ごちそうさま。スクランブルエッグ、おいしかったよ。」

「いや、だから……。」

 いつもは二人ともほぼ同じペースで食べるのに、今日は、彼のほうが食べるのが早かった。

私の声も聞かず、彼はさっさとキッチンの方へ食器を下げに行ってしまった。

 なぜ?どうして?

 なぜ、あなたは腕の植物が薬になると知っていたの?加工方法も知っていたの?本当は、その奇病の全てを知っているの?これから起こりうることも知っているの?どうしていつもよくわからない伝え方をするの?どうしてちゃんと教えてくれないの?

不安が疑いを生み、疑いがいらだちを生み、そのいらだちが怒りを生む。

今までため込んでいたものが、怒りとなって一気に噴き出す。

「だから!」

 私は、深く考えるよりも先に、大きな声を出していた。

 食器を手に持っている彼の肩が揺れる。私に背を向けているので、表情は見えない。

「……ちゃんと、説明して。」

 私は、こぶしを強く握った。爪が手のひらに食い込む。

彼は、ふう、と大きく肩で息をして、そのままキッチンへ向かった。そして、シンクに食器を置き、蛇口をひねって食器を水に浸しながら、私の顔を見ずに尋ねた。

「何を?」

 その声は、冷たく私の心臓に触れた。彼の、そんなに温度のない声を、私は初めて聞いた。

 私の体は怒りで熱くなっていたはずなのに、急に冷めて、カタカタと小さく震え出す。

「だから、それは……」

 急に湧き上がってきたものはまとまりもなく、理路整然とはしていない。だから、勢いを失うのも早く、ごにょごにょと口ごもってしまう。

 そんな私を、彼は感情のない瞳で見つめて、こう言った。

「君はまだ、僕が聞いたことを話していない。」

 氷のように冷たい手が、きゅっと私の心臓を握った。

 私は言い返すことができず、視線を食べかけの朝食に落とす。まだ、キャベツのほかにスクランブルエッグが一口と、カフェラテも残っている。彼が、どんな表情をしているのか分からない。彼は何も言わず、リビングの扉をバタンと閉めて、部屋を出た。

 扉を閉めた振動で、取れかかっていた観葉植物の葉が、びくんと震え、悲しげにゆらゆらと揺れながら床に落ちた。


まだ、大声で怒鳴りあって、感情をぶつけ合ったほうがよかった。

 彼は冷静、いや、冷酷だった。ここまで冷たく人を突き放す彼を、今まで見たことがなかった。

 彼とのけんか自体、ほぼ初めてのことだった。今まで、私が一方的に怒ったことはあったが、彼は、

「あー、ごめんね。」

「分かった分かった。僕も良くなかったよね。だからちょっと落ち着いてね。」

と、真っ先に負けてくれた。彼から怒られたことは一度もなかった。

 彼は怒ると、こんなにも冷たくなるのか。長い付き合いの中で、初めて知った。

 まだ、心臓が冷たい。

冷たい中で、頑張って熱を作り出そうと拍動している。

 図星を突かれて、何も言えなかった。

話したくないわけではない。話そうとは思っている。つい昨日、話そうと思っていたのに結局話さなくて、だから、そこを突かれたことが痛い。


 本当は、昨日言おうと思っていたの。でも、昨日はすごく天気も良くて、ショッピングモールを回るのが楽しくなっちゃったから、また今度でいいかって思っていたの。


 頭に浮かんできたのは、そんな幼稚な言い訳で、そんなことしか言えない幼い自分が、恥ずかしかった。

 彼に冷たく突き放されたとき、最初は驚いた。彼は、こんなにも冷たくなれる人だったのかと。心に衝撃が走り、一瞬、目の前が暗くなって、目に映る景色も、私が今何を感じているのかも、何もわからなくなった。

次に、悲しみを感じた。今まであんなにも温かかったのに。急に今までの熱が奪われて、彼は私のもとを去って行って、私は一人になってしまった。

恐怖も感じた。彼が今までの彼とは違う人間になってしまったみたいで。今、目の前にいる人は、彼と同じ見た目なのに、中身は全く別の人間みたいで。知っているものが、そうだと思っていたものが、全く異なるものであることが、怖かった。

そして、怒りも感じた。ちゃんと言おうとしていたのに、なんでそんなことを言われなくてはいけないんだ。今から勉強しようとしていたのに親から勉強しなさいと言われて不機嫌になるような。でも、怒りを覚えても、その怒りは一瞬で、私は小学生と一緒だ、と気づいて落ち込んだ。

 様々な感情が湧き上がっても、そこから、もう知らない、と彼を突き返す気分にもならなかったし、逆に、彼に気に入られようと変に機嫌を取る気分にもならなかった。もちろん、彼が聞きたいことをすぐにぺらぺらと話すつもりにもならなかった。

 もう、ごちゃごちゃと考えるのが面倒だった。感情に振り回されるのが、嫌だった。

 本当は、ずっとずっと、すごく不安だった。彼の身に起きた不可思議な出来事が、とても嫌な結果に繋がってしまうんじゃないか。

 でも、感じていたのは、不安だけじゃない。やっと欲しかったものが手に入るという喜び。それは人として、決して、思ってはいけない感情。

不思議な出来事が起こる彼を見るたびに、そのたびに、最低な自分が現れて、消さなければいけないのに消えてくれない自分にイライラした。

 不安も、疑念も、いら立ちも、怒りも、一旦すべてを忘れたかった。

 心の部屋の中は、大地震が起きているかのように、棚やらタンスやら、ばったんばったんと揺れている。部屋に置いておいた小物たちも宙を舞ってガツンガツンと部屋の色んなところにぶつかっている。

 落ち着こう、落ち着こうと念じても、そう念じれば念じるほど部屋は荒れていく。これ以上、自分で自分の部屋を荒らしたくはない。

 だから、今は彼と向き合うのではなく、距離を取りたいと思った。

 今、この状態で彼の顔を見たら、話そうとしていることも話せない気がする。

しかし、距離を取りたいと思っても、この狭いアパートの中ではそれも叶わない。どうしたって、顔を合わせてしまう。

 本を、読もう。

このごちゃごちゃした感情を、何か別なもので上書きしよう。

本棚を眺め、どれにしようかと迷う。彼が昨日買ってきた本が目についた。しかし、それだけは絶対に選びたくなかった。仕方なく、昨日買った恋愛小説の続きを読むことにした。

 リビングのテーブルに目を向けると、彼がパソコンに向かって仕事をしていた。

 彼と向かい合って読書はしたくない。彼の存在が気になって集中できなさそうだから。だから、私は寝室に向かった。寝室のベッドに腰掛ける。腕の高さを保つのが少しきついが、彼の目の前にいるよりはましだろう。

 昨日は、最初の章すら読み終えられなかった。しかし、文章が読みやすく、物語の雰囲気もさっぱりとしたもののようだったので、集中して読めそうだった。感情を上書きするにはちょうどいいかもしれない。

 読み始めてしばらくは、自分の中の感情が邪魔をしていたが、気づけば私は小説の世界に没入していた。

 空腹も、のどの渇きも忘れ、読みふけっていたが、あっという間に読み終わってしまった。時計を見ると、午後一時を指していた。

 リビングへ戻ると、彼はまだパソコンで作業をしていた。できれば、彼と顔を合わせたくなかったが、ほかに食事ができるスペースもないので、仕方がない。パスタをゆでて、ソースをかけただけ。さっと作って、さっと食べて、さっと片づけた。

 午後も、本を読もうと思った。また、昨日彼が買った本が目に留まる。でも、それだけは絶対に読むまい、とほかの本を選ぶ。でも、どれにしようか。昨日彼が買ってきてくれた本以外は、すべて読んでしまったのだから。

彼はまだ、パソコンで仕事をしていた。

 よく見ると、彼は、ペン回しをしていた。くるっと一回転させて、とんとん、とペンで机をたたく。くるっと一回転させて、とんとん、とペンで机をたたく。

 その動作に、見覚えがあった。記憶の糸をたどっていき、一つの記憶を思い起こす。

 そのころ、彼は仕事につき始めたばかりだった。研修期間も終わり、配属先が決まり、本格的に仕事が始まったタイミングで、彼はある仕事を任された。

何の仕事なの?と聞いても、職種が違うから分からないだろうと言われ、確かに、一度社会人を経験している彼の言う事だから、私が心配しても仕方ないだろうと思っていた。彼が今就いている職業は、彼の前職とは異なるものだったが、けれど、社会人を一度経験しているわけだし、私が過度に気にかけても逆に迷惑になるだろうと思っていた。

 自分も仕事を始めたばかりだったし、今は自分のことを考えようと思っていた。

 正直なところ、自分の所属部署に配属された最初の一週間は疲れて、寝ながらお昼を食べていたくらいだったが、一か月もたつと仕事にも段々と慣れてきて、仕事終わりに重い食料などを買いに行く体力の余裕もできていた。

 だから、彼のことを気にかける余裕もあったのだけれど、「何か困っていることはある?」と聞くのは気が引けた。

 パソコンで作業している彼の後姿をちょこちょこ見に行くたびに目にするのは、ペン回しをする彼の姿だった。

くるっ、とんとん、くるっ、とんとん、くるっ、とんとん。

停滞していることは見て分かったけれど、仕事のあれこれもなにも経験し始めた私が下手なアドバイスでもして彼を不愉快にさせてしまうのも嫌で、何かしたくてもできなかった。

 彼は、日に日に寝る時間が遅くなり、食事もおろそかになっていた。私にできるのは、睡眠によく効くとされるアロマを寝室に焚くことと、胃に優しい食事を作ることだった。

「話があるんだ。」

 彼が仕事を任されてから二か月ほどたったある日、彼に突然そう言われた。

 私はリビングのテーブルに座ってぼーっとしながらお茶を飲んでいた。彼は申し訳なさそうにしながらゆっくりと椅子を引き、私の目の前に座った。

「どうしたの?」

 たぶん、仕事の話だろう、と私は予想した。

 私は、一度席を立ち、キッチンから彼のコップを取ってきて、お茶を注いだ。

「ありがとう。」

 彼はそう言って、一口、熱いお茶を啜った。ふう、と熱い息を吐いて、ゆっくりとこういった。

「ちょっと、色々と、聞いて、ほしくて。」

 そして、彼はところどころで止まりながらも、今、自分がどんなことをしていて、何で困っているのかを話してくれた。

 私は、その間、あら、そうなの。ふーん。それは、ちょっと大変ね、相槌を打った。

 一通り話し終えた後、彼はぬるくなったお茶を啜った。

「ごめん、本当は、すごく不安だったんだ」

 彼は、今までになく落ち込んでそう打ち明けた。とても、私よりも八つ年上とは思えないくらいに小さくなっていた。

「最初から、そう話してくれればいいじゃない。」

「できないよ。君のことを考えたら。」

 私は、自分が役立たずだと思われているようで、むっとした。

「あなたの言い分はちょっと良く分からないわ。」

「まず、僕は二回目の社会人だから、今回の仕事は難なくこなせると思ったんだ。それに、今は君だって大変だろう?初めての社会人生活なわけだし。だから、僕が君を支えなきゃと思ったんだ。そのためには不安なそぶりなんて見せちゃいけないと思った。でも、ふたを開けてみたら、任せられた仕事は難しかったし、僕が一人で抱えようとすればするほど何にも集中できなくて、余計に仕事が進まなかった。君がすごく心配してくれたのも、気づいていたよ。でもそれは、良くないって思ってしまっていた。だから、頑張って自分の中で何とかこうにかしようとして。でも、それがうまくいかなくて。だけど、僕は気づいたんだ。この悪循環な状況を打開する方法を。」

 なんだろうか。彼の打開策は。何か、大掛かりなことなのだろうか。こんなにも改まって私に説明するということは、私にもきっと何かを頼みたいという事だろうか。家事の負担だろうか?それとも、彼が別なアパートを借りるとか?

「今から僕が言うことを、ちゃんと聞いてほしい。」

 彼は居住まいを改めて、私の目をしっかりと見つめた。

「僕のことをとっても心配してください。僕は、今、すごく困っています。」

 そして、彼は、困ったように笑った。

 私は、呆れてあんぐりと口を開けたまま固まってしまった。

「私、あなたみたいな人見るの、初めてだわ。」

 数秒経って、やっと口にした言葉が、彼への軽蔑だった。

「あなたって、本当に失礼な人ね。私が今まで何にも心配していないみたいないい方しちゃって。」

「え?いや、そういうつもりじゃなくて。」

「分かっているわ。あなたにそういうつもりがないことくらい。でも、いざ口に出して言われると、私がまるで今まで何もしていなかったみたいに聞こえるから、嫌になっちゃう。」

「違うよ。僕は今、自分の気持ちを整理するために宣言したかったんだ。僕が、心置きなくダメな自分を隠さずにいられるように。」

そう、あの頃の彼は、ちゃんと私に心配をさせてくれた。でも、今はさせてくれない。

 くるっ、とんとん、くるっ、とんとん、くるっ、とんとん。

彼も、本当は不安なんじゃないか。私が不安になってイライラするように、彼も、イライラしているんじゃないか。

 だから私は、ある行動を思いついた。

 収納場所に行き、必要なものを取りそろえ、目的の場所へ向かう。

 手袋をはめ、スプレーを床にまき、ウェットティッシュで汚れをふき取っていく。

「……何、してるの?」

 私は、しゃがんだまま、うつむいて、今自分がふき取ったばかりの床を見つめた。

「……トイレ、入りたいんだけど。」

 トイレの床は定期的に掃除をしているから、もともとそこまで目立った汚れはない。だから、今スプレーをかけて、ウェットティッシュでふき取ったところで見た目に大きな変化はない。けれども、綺麗になった、気がしている。

 私も、きっと、そうだ。きっと、彼にこんなことをしても、分かりやすく綺麗にはなれない。きっと、自己満足だ。

でも、もしかしたら、本当に少しだけ、薄皮一枚分くらいだけ、綺麗になれるかもしれない。いや、なりたい。そんな希望に、縋っている。

 私は、すくっと立ち上がって、彼の目をまっすぐに見つめた。

「話すよ、ちゃんと。今日、ちゃんと話す。」

 彼も、珍しく意志が強い私に面食らったようで、一瞬驚いた顔をした後、数秒ほど黙っていた。

「意地悪をして、ごめん。君がなかなか話さないものだから。でも、このやり方は良くなかったね。ごめん。」

 正直なところ、彼の態度にまだ少し釈然としない部分もあった。でも、こうも素直に謝られたら、許しかない。

 私は、黙って小さくうなずいて、彼に尋ねた。

「でも。どうして私に話してほしいの。」

「今はまだ、教えてあげない。君が話してくれてら、その時にちゃんと話してあげる。」

 その後、私は掃除用具を片付けて、また本を読んで、そうしたら、いつの間にか夜になった。夕飯を食べ、夜も深くなった頃、じゃあ、行こうか、と彼に声を掛けられた。

「どこに行くの?」

 もう夜で、外は暗い。彼の目立つ風貌は、昼間ほど注目は浴びないだろうが、誰かに見られるといろいろと詮索されそうで怖い。

「アパートの屋上だよ。」

「屋上?」

 アパートの屋上に行くには、一度部屋を出て、外階段で行かなくてはいけない。他の住人やアパート周辺の通行人に見られてしまう可能性は十分にあり得る。

「誰かに見られたらどうするのよ。」

「趣味のコスプレ用写真撮影ってことにすればいいさ。きっとみんな、よくできた羽だねって褒めてくれるよ。」

 そう言って、彼は躊躇せず部屋の扉を開けた。おいで、と手招きされ、自分も部屋の外に出る。

それは、本物の羽なのだから、褒められるかもしれないが、どうしても、問題はそこではない気がする。でも、今、彼のそのずれた思考に真っ向から向き合うのは、違う気がした。

 心拍数が上がっているのが、自分でも分かる。

 彼が何をしようとしているのか分からないという不安と、もう一つの不安。

私は彼に、うまく話せるだろうか。ちゃんと自分のことを伝えられるだろうか。

二つの不安が入り混じって、胸の鼓動が、耳の近くでばくんばくんと破裂している。

そして、考えすぎて、段々、自分が何で不安に思っているのか、分からなくなりそうになる。心臓の爆音で、意識がごちゃ混ぜになりそうなのを、耐える。

私の気を抜くとどこかに飛んで行ってしまいそうな思いを、飛ばされないように、離すまいと必死につかむ。

外階段は、むき出しの金属の板が並べられただけの簡素な作りで、下を覗くと、板と板の隙間から地面が見えた。落下防止のための柵もついてはいるが、完璧な安全性には乏しい。

そんな身体的危険からくる不安が、心理的不安を一時的に紛らわせる。

そうこうしているうちに、屋上への扉に着いてしまった。扉には、鍵がかかっている。

「鍵なんて持ってないじゃない。」

「持ってないけど。」

 彼はあっさりとそう返す。

「じゃあ、どうするのよ。」

「いい子はまねをしちゃいけないことをするのさ。」

 彼は、ポケットから針金を取り出した。

「それ、いいの?」

「ああ、いいんだ。僕は世の中の人が言ういい子になんてなろうと思ってないからね。」

 そう言いながら、針金の先端で鍵穴をカチャカチャいじり、錠を開けてしまった。

「これって、犯罪行為にならないかしら。」

「大丈夫だよ、帰るときにもちゃんと鍵は閉めるから。」

 アパートの屋上には初めて来た。アパートの外観から、屋上に柵があったから、立ち入れそうな気がしてはいたが、特段、ここに来たいとも思っていなかった。

 上を見上げると、半月が煌々と輝き、星々が点々と、漆黒の夜空に散らばっていた。昼間よりは、空気が冷たいが、凍えるほどではない。

 私よりも、一歩先に進む彼が、くるっと振り返って、両腕を広げ、落ち着いたトーンで言った。

「さあ、空を飛ぼうか。」

 彼が何を言っているのか、分からなかった。いつも、彼が言っていることは良く分からないことばかりだが、彼の静かな言い回しに、今から何か妙なことが起きるんじゃないかという不安を感じて、怖くなる。ただでさえ、不安なのに、何重にも不安が重なって、心が押しつぶされそうになる。

「待って。飛ぶって何?一体、どうやって飛ぶのよ。」

 彼は、私に何か言葉を返したりはせず、ただ、柔らかく、微笑んだ。

 風が強く吹いた。大きな風で、私の髪がぶわっと広がり、視界を覆った。

 ぶおー、という風が落ち着いて、眼を開けると、彼が、紅く、燃えていた。

 彼が、死んでしまうと思って、でも、彼が目の前で死んでしまうかもしれないという恐怖で、足がすくんで、一歩も踏み出せない。心臓が氷の手で、きゅっと強く握られて、私の体温がどんどん奪われていく。

 ああ、どうしよう。彼が、死んでしまう。

 暗くて冷たい水が、心の部屋に置いてあるものたちをぐちゃぐちゃにしながら、天井まで満たしていく。冷たい。寒い。苦しい。

でも、よく見ると、彼は優しいまなざしで、私を見つめ、変わらず柔らかい笑みを口元にたたえていた。

どうして。

その小さな驚きが、暗くて冷たい水の勢いを、止めた。

炎に包まれる彼が、ふうっと大きく息を吐いて、紅い炎が一気に燃え上がったかと思うと次の瞬間、炎の勢いは一瞬にして収まり、さっきまで彼がいた場所には、先ほどの彼とは違うものがいた。

彼は、大きな、大きな赤い鳥になった。

 真っ赤な羽と、金色に光る尾。目は、美しい翡翠色をしていた。羽は、火の粉を散らしながら、チリチリと燃えていた。そして、ただ赤いだけではなく、月の光を反射して、虹色に輝いている。

 彼とは見た目が全く違うのに。もう、人の形はしていないのに。

その赤い鳥は、間違いなく、彼だった。

どうして、私にそんなことが分かるのか、私には分からない。

じっと彼をみつめて、気づいた。目、だ。

瞳の色は変わっても、春の日差しのように、暖かくて優しいまなざしは、彼だった。

「あなたなんだね。」

 不思議と、怖くはなかった。むしろ、とても和らいだ。私の体温が戻ってくるのを感じる。心臓が規則的に収縮と拡張を繰り返し、私の手足に温かい血液を送る。

「そうだよ。」

 暖かく、優しく、けれど、今にも泣き出してしまいそうなまなざしの彼。

近づいて、彼の頭に手を伸ばす。私が思い切り手を伸ばしても、届かないから、彼が頭を垂れてくれる。

 やけどするほど熱くはなかった。羽は、タンポポの綿毛のように、ふわふわで柔らかい。手を羽の薄い首元に沿わせると、脈がどくどくと熱く打っていた。

「あなたなんだね。」

 私は、噛み締めるように、彼にもう一度そう言った。

 彼は目を閉じて、私に頭をこすりつけた。彼の羽はチリチリと燃えていたが、私の服に火の粉が飛ぶことはなかった。二、三回彼が私に頭をこすりつけると、ゆっくりと顔を上げた。

「背中に乗って。」

 彼はその美しいくちばしで私を背中へと誘導した。

「落ちないの?」

 彼の美しい羽が生えた背中は、美しすぎるがゆえに、私が乗ってしまったら、ぐしゃっとつぶれてしまうのではないかと不安になった。

「落とさない。だから、乗って。」

 彼は、足を曲げ、地面に座り込んだ。私は、彼の背中に回り、彼の尾の付け根から彼の背中に上った。背中の羽は柔らかかったが、弱弱しくはなく、羽の下に骨の感触があった。骨は思っていたよりも太く、しっかりとしていた。

「立つよ。しっかりと僕にまたがって。つかまって。」

 彼は、私を落とさないように、慎重に立ち上がった。上半身がふらついたので、彼の背骨をしっかりと足で挟み、彼のずんぐりとした首の付け根を両手で掴む。

 ふう、とくちばしの隙間から炎を吐きながら、羽を広げ、大きく上下に動かすと、彼の体が浮き、アパートの屋上外へと飛び出した。

 一瞬、高度が下がったのち、上を目指して上昇を始める。おしりから落ちていかないように、両足に力を込める。上空に行くにつれて、頬に当たる空気が冷たく、吐く息が白くなっていく。

 気が付いたら、アパートの屋上よりもずっとずっと高いところを飛んでいた。

「この辺でいいかな。」

 彼は、上に行くことをやめ、水平飛行を始めた。

 下を覗くと、街の明かりが小さく見える。前方遠くには、月に照らされて光る海が、振り返ると、山の頂が自分の目線と同じ高さに見えた。

 彼の首元に顔をうずめる。飛び散る火花が当たって、顔が痛いが、やけどすることはない。私は、顔を上げ、遠くの海を見つめた。

「ねえ、記念日のことなんだけど。」

 彼の飛行が落ち着いたので、彼に問うた。話題は、何でもよかった。本題に入る前に、何か別なことを、話しておきたかった。

「これ以上は、増やさないの?」

「いいんじゃないのかな、これ以上、増やさなくても。五つもあれば十分だよ。」

「へえ、そうなんだ。」

ちょっと前までは私が減らそうとすると絶対にだめだ!と言って、つらつらとよくわからない理論を並べて反対していたのに、どういった心境の変化なのだろうか。

 気にはなったが、深く考えるつもりはなかった。そんな心の余裕が、今の私にはなかった。

もう一度、彼の首元に顔をうずめる。さっきよりも、もっと、もっと深いところまで顔をうずめ、鼻から深く息を吸う。彼のにおいがする。いつも、そっとそばにいて、私のことを少しくすぐったくなるような優しさと温かさで見守ってくれる、彼が、いる。

「あのね。」

 吐く息に音をのせて、最初はささやくように。

「あのね、聞いてほしいの。」

 今度は喉を震わせて、はっきりと。

「聞いて、ほしいの。私のこと。きっと、こんなこと話したって、何も変わらないわ。私はいつまでも薄汚れたままよ。でも気分だけでも、私は綺麗な自分になりたいの。」

 私は、顔を上げた。

大丈夫。声は震えていない。

私は、心の部屋の、ほこりが積り、錆びついたいちばん古い、ずっと隠してきた箱の重いふたを、ゆっくりと、丁寧に、開けた。

「双子なの、私。一卵性双生児の。それは、他人から見ればとても美しい繋がりかもしれない。でも、私にとっては醜い呪縛でしかなかった。他人と自分は全く別なもの、という至極当然の事実が、私には当てはまらなかったから。私達は、すべて同じピースでできていたの。そして、それを強要されてきた。私は、私の『個』を主張したこともあったわ。けれど、周りの人間たちは笑顔でそれを否定してきたの。『双子なんだから、同じようにしないと』って。」

長い月日を重ねてきたが、私の生い立ちについて彼に話すのは初めてのことだった。彼も、周りの人間たちと同じで、私が双子の片割れと同じようであるよう求められたら、と想像したら怖くて言い出せなかったのだ。彼に否定されたら、私は世界で独りぼっちになってしまう。

「私はそれが、嫌だったの。彼女が好きなものはたとえ私が気になるものであっても、拒んだ。これ以上、同一なものになりたくはなかったから。同じ形、同じ柄のピースを同じ枚数だけ持ち合わせていた。そして、私達は二人で一つのセットだった。セットであることで初めて意味を成す存在だったの。だから、私は私が何者か、分からなかった。換えが効くのだから。個人であると認められなかったから。二人で、一つなのだから。周囲の人間が、その美しい形を、強く望んだの。私達がセットであることを。」

 彼の顔は見えない。ただ、風の流れに翼を預け、夜空を飛んでいる。何も反応がないことが、逆に私を安心させた。私は、箱の中身を両手ですくいだし、一つ一つのパーツをあらわにしていく。

「だから、彼らは、私が別なことをしようものなら、無理矢理にでも共通点を探し出そうとし、比較した。成績、見た目、進路、人間関係。全てにおいて、彼らは比較したがったわ。中途半端なことをやれば比較される。周りは何でも比較したがる。彼らの無自覚で無神経な言葉の数々は、私の部屋をどんどん、どんどん荒らしていったわ。私がどんな思いをしているのかも知らないで。彼らは平然と私の『個』を潰してきた。私は、彼女と同じであることが、嫌だった。彼女と同じである自分が、嫌いだった。だから、私は最初、彼女よりも優秀であろうと思った。そういう考えに至ったのは小学校低学年くらいのころかしら。勉強も運動も、人望も。全て。全てにおいて。その小さな頭で考えうるもの全てにおいて、秀でていられるように。ほんの少しでも、一歩でも、いや、半歩でもよかった。彼女とは違うんだと、私は彼女とは異なる自我とプライドを持った人間であると。心を擦り切らせながら、何度も何度も、心の中で私はここにいると、私はここだと、私はこれなんだと、叫びながら。けれど、届かなかった。彼らは何度でも笑顔で言ってきた。『似ているのね。そっくりね。二人で一つなのね』と。」

 悔しさと、絶望。私の存在証明は、ずたずたに切り裂かれたのだ。私は、私が生きる理由が見いだせなかった。私は、私の存在意義が、分からなかった。

「私が、必死になって、喉がかれるまで何度も何度も叫んだその思いは、上手くいかない自分を嫌いながら、呪いながら、自分で自分を切り裂きながら、血を流しながら、そんなぼろぼろの体で金切り声をあげながら叫んだその言葉は、一切も、届かなかったの。彼らは、気持ち悪い笑顔を顔に張り付けながら、優しくすぱっと私の血の通った心を切り裂いてきたわ。何度、自分に爪を立てて傷つけたことか。何度、頭皮に爪を立ててかきむしったことか。何度、自分の首を絞めたことか。けれど、どれだけ擦り傷を作っても、どれだけ叫んでも、私は私が分からなかったの。私はそれでも満たされなかった。私の胸は、いつだって空っぽで、冷たく刺すような風が、吹き荒れていたわ。だから、私は、私に新しい要素を求めたの。完璧になること以外の、何か。明らかに彼女とは違う、絶対に被らない何かが欲しかったから。私は、私を定義するものが欲しかった。私は独立したたった一人の私になりたかった。私だけの出会い。私だけの役割。私だけの体験。私だけの能力。類似品などではない、代わりなどいないことを証明したかった。私は昔から、私だけの唯一の特別な何かが欲しかった。私は、世界でたった一人の唯一の存在になりたかった。」

 何かすごいことをして、賞賛されたかったわけではない。ただ、人として当たり前に持つものを私も欲しかっただけなのだ。私を定義する私だけが持ちうる私だけの「何か」を。

「そんな時、私はあなたと出会った。別に、あなたと出会ってすぐに、私の穴が埋まったわけじゃない。でも、あなたは、私をたった一つのものとして扱ってくれたから。あなたは、少しずつ、少しずつ、私の欲望を満たしてくれたから。カラカラに乾いて、ほこりにまみれて傷だらけだった私の心の部屋は、毎日ほんの少しずつ、変わっていった。厚かった埃の層は数ミリずつ薄くなり、壁や家具の傷は薄くなっていったの。」

 彼の首筋に強くしがみつく。彼の羽は、見かけによらずタンポポの羽のように柔らかく、温かい。彼はまだ、何も言わない。

「でも、あるとき、気づいてしまった。気づいて、絶望してしまったの。私の欲望には、終わりがない、ということに。人はそれぞれ違う人生を歩む、というけど、本当かしら?

どこかしら、同じような部分は出てきてしまうわ。大学に行けば、たとえ違う大学に通ったとしても、『大学に行った』ということが共通事項になってしまう。友人と旅行に行けば、たとえ、違う友人と異なる場所に行ったとしても、『友人と旅行に行った』ことが共通事項になってしまう。結局、年を重ねれば重ねるほど、似たようなピースが増えるだけ。たとえ、彼女と離れて暮らしていても、私は永遠に彼女の類似品に過ぎないの。私は、とても恐ろしくなった。永遠に私は独立した存在にはなれないことに、気づいてしまったから。こんなの、考えすぎだと思ったわ。深く考えれば、きりがないことよ。行き過ぎた考えよね。考えても、意味がないことは分かっているのよ。でも、一度考えたら、その深みから抜け出せなくなって、止まらなくなってしまったの。そんな時、あなたが奇病になった。あなたが奇病にかかった瞬間、思ってしまったの。こんな珍しい病気の人の看病をする人間なんて、他にいるかしら? いえ、きっといないわ。 ああ、これで。これで、私は唯一の存在になれるんだって。 彼女が到底、何をどう頑張っても手に入れられないものを、私は手にしたんだって。 私は、私があなたに大切にされていることは分かっていたの。分かっていて、分かったうえで、それを利用しようとしたの。 私の穴を埋めるために……。これ以上、私が不安にならないようにするために……。私はあなたを、道具として見ていたのよ……。」

 心の部屋の奥隅に隠していた箱の中身は全て彼に見せた。私の心の汚れは、これで全てだった。

「ごめんなさい。」

自分自身への悲しみが溢れた。私には、彼の前で泣く資格などないのに。自分を許してもらうための謝罪など、ただただ最低なだけなのに。私の醜い欲望に、綺麗な彼を付き合わせたくなどないのに。私がそばにいるせいで、汚したくないのに。でも、それでも。

「ごめんなさい。ごめんなさい。こんな私で、ごめんなさい。ずるくて汚い私で、ごめんなさい。私はきっと、あなたに相応しくない。あなたはもっと、綺麗で純粋な心で思ってくれる人と一緒にいた方がいいわ。」

 本当は、涙を止めなくてはいけないのに、眼底から泉のように涙が湧き出てくる。

「でも、今更一人になるのが怖くて、静かに、優しいあなたのそばにいることを願ってしまうの。一人になるのが怖いから、一人にならないためにあなたを利用しているの。最低よね。こんな風にしか考えられない自分が悲しくて、寂しい。」

 大粒の涙が、頬を伝い、顎から滴り落ちる前に風に飛ばされていく。丸い水滴が、月明りを反射して、きらきらと光って夜空を流れていく。

「本当は、分かっているの。あなたとの縁は切らなくちゃいけないって。でも、私の中にある、あなたを大切にしたいという気持ちを、捨てなくちゃいけないから。見えなくなるまでちぎって、切り刻んで、無かったことにしなくちゃいけないから。それが、悲しいの。本当はあるのに、無かったことにしなきゃいけないことが悲しいの。そんなことをしなくちゃいけない自分が、ただ純粋にあれない自分が、寂しいの。」

 ああ、悲しい。ああ、寂しい。

 私の独白中からずっと、薄暗い私の心の部屋で、繰り返し、冷たく、重く、こだまする。何重にもなって聞こえてくる悲泣な響きに私はだんだんと疲れてきてしまって、ばったりと、彼の首元へと倒れこんでしまった。

 鼻から息を吸って、彼のにおいを体いっぱいに吸い込む。もう、最後なのだから。私は、もう、彼のそばを離れなくてはいけないのだから。そして、もう一度、往生際の悪い自分を殺しながら、彼の温かいにおいを吸い込み、満たす。

すると、もう一度、彼の体が、燃えた。羽をはばたかせるのをやめ、風に乗ったまま、金の粉を吹きながら、紅く、燃えた。

 最初は、両翼だけだった。それが、尾、首、足、頭と激しく広がっていき、最後は私を包み込んで、彼は、燃える球体となった。私は、その燃える球体の中で、無重力状態で浮いていた。そして変わらず、彼の炎は温かく、心地の良い温度で私を温めていた。

 もう、彼の存在は感じるけれども、彼は見えない。彼はもう、もはや生き物でもなくなってしまった。

 もう、会えないのだ。今までの彼には。彼は、彼だけど、彼ではない。でも、以前の彼を欲してしまっては、それは、いま姿の彼を否定することになってしまう。そんなことは思ってはいけないはずなのに。傷つけたくなどないのに、彼が傷ついてしまう。今の彼でも、十分、彼なのだから、だから、喪失感に見舞われる必要なんてないはずなのに。ぷすぷすと心に小さな穴が開いていく。

こんなことなら、願わなければよかった。彼が奇病になってくれて嬉しいと、思わなければよかった。でも、もう遅い。遅いのだ。これはきっと、したくないお別れを、しなくてはいけないということなのだろうか。いや、きっと、そうだ。

吹き荒れる悲しみを、寂しさを、私はすべて、飲み込まなくてはいけない。体がどれほど冷え込んでも、はち切れそうなほど膨張しても、私は全て、耐えなくてはいけない。

自業自得、なのだから。

私は、ゆっくり目を閉じた。冷たい悲しみを、消えない寂しさを、全て、全て飲み込むために。飲み込む辛さを感じないために、私は手足から、感覚を閉じていった。

「ありがとう。」

 突然、炎の球体内の空間に、やんわりと彼の声が響いた。そして、炎が髪を撫でる。

「本当に、ありがとう。」

 彼の炎が、髪を、頬を、そして手を、足を、撫でて、包み込む。手足の血流が温められ、指先の感覚が戻ってくる。

「どうして?どうして、ありがとう、なの?私は、あなたに、こんなにひどいことを想っているのに。どうして、ありがとうなの?」

 どうして、あなたは、私を責めないの?

どうして、あなたは、私をひどい女だと罵らないの?

どうして、あなたは、こんなにも、こんなにも、私に優しいの?

 責められたいわけではない、罵られたいわけではない。そんなこと、決してされたくはなかった。でも、当然、私は罰を受けると覚悟していた。

 だから、余計に、涙があふれた。

「だって、君は。」

 彼の呼吸のたびに、内腔の炎が一様に揺らめく。

「だって、君は、僕のわがままに付き合ってくれたんだから。ありがとう、だろう?君が隠していることを話してほしい、と頼んだのは僕だ。それを君は、時間をかけて、自分の気持ちを整理して、重く閉じられたふたを開けて、僕に中身を見せてくれたんだ。それは、頑張って話してくれて、ありがとう、と僕は言うべきだろう?」

「違うわ。」

 違う。それは、違う。私は彼に感謝されるために話したのでは、決してない。

「あなたに頼まれてなくても、私は話していたわ。だって、話さないと、いけないことだったのだから。話さないままで、私はあなたのそばにはいられなかった。不誠実で汚れたままで、あなたのそばにはいられなかったのよ。でも、綺麗なふりをすることも、あなたに嘘を重ねることになるから、それも、私にはできなかった。私は、美しい心持の人間ではないの。美しくあろうとしても、そうあれない人間の。だから、自分がこれだけ汚いんだということをちゃんと見せて、あなたに対して少しでも誠実になればほんのちょっとでも綺麗になれるかと思ったの。そうよ、私の告白は、自分のためよ。自分が楽になりたかっただけなのよ。」

 最低でしょ?

嫌いな自分に疲れて、最後まで言葉を発せられなかった。その自虐の言葉は、私の吐く息とともに優しい炎に吸い込まれてしまった。

自分が、悲しい。こんな告白を彼にしてしまう自分が、悲しい。こんなにも自分のことしか考えられない自分が、悲しい。

「どうして、僕が、君に君が隠していることを話してほしかったのか、教えてあげよう。」

 また、炎が一様に揺らめき、ほんの少しだけ、内腔の温度が下がった。

「寂しいからだよ。」

 炎の揺らめきが、一気に小さくなる。

「せっかく、僕は君のそばにいるのに、君の力になれないだなんて、こんなに悲しいことはないだろう?君が何に苦しんでいるのか教えてくれないなんて、寂しいだろう?それじゃ、まるで僕がそばにいる意味はないじゃないか。汚いなんて、思っていない。それは、汚い、というのではないよ。『人間らしい』、というんだ。誰だって、自分が一番、可愛いんだ。自分が可愛くて、可愛くて仕方なくて、でも、自分よりも他人を優先することが美徳とされてしまうから、そのはざまで揺れてしまう。その揺らぎは、決して、醜いものなんかじゃない。とても、とても美しいんだ。何も、真っ新なことが、真っ白なことが、きらきらと輝いていることが、綺麗なんじゃない。綺麗なことが美しい訳じゃない。装飾品がたくさんあることだけが美しさでは、ない。何もないということも美しさの一つで、不完全で汚れているというのもそれもまた一つの美しさなんだよ。」

 ふふっと柔らかく、彼が笑ったのを感じた。

「ねぇ、どうして、あなたは私を見て笑うの。」

「……教えてあげない。今は、教えてあげないよ。」

今、彼は、人の形をしていない。

だから、眼も口も見えるはずもないのに、私が想像した彼は、とても温かな視線を私に向けていた。しかし、その奥には、一つ指でつついただけで壊れそうなほどの悲しみを、その瞳にたたえていた。

本当は、その温かさの正体を、私は分かっていた。分かっていたけれど、気づかないふりをしていた。受け入れることがこそばゆく、後ろめたかったから。私は、彼に対して何もできていないのに、大切にしたくても上手くできないのに。私には、彼のその思いを受け入れる資格がないと、そう思っていたから。

そう、彼の瞳の奥は、愛おしさで、溢れていた。

 ねえ、どうして、あなたはそんなに私を愛おしく思えるの?

ねえ、どうして、あなたはそんなに悲しそうな顔をするの?

「やっぱり、教えてあげよう。ここで僕が教えなかったら、君はいつまでも自分で気づきそうにないからね。」

 内腔の温度が、上がる。

「僕たちは、優しくありたいのだけれど、あれなくて。そんな自分自身への小さな失望を抱えながら、生きていく。それは悲しいのだけれど、僕にとっては、とても人間らしくて、愛おしい生き方なんだ。純粋であろうとしても、そうはあれない。そうやって自分を嘆く君は、とても人間らしくて、そんな君が、とても愛おしい。純粋であれない自分が悲しいと泣く君が、誰かを求めてしまう自分が寂しいと泣く君が、どうしようもなく、愛おしくて、愛おしくて、仕方がないんだ。自分が壊れてしまうんじゃないかと思えるくらいに、君を大事にしたくて、もっともっと、大切にしたくて。愛はね、君が思っている以上に、偉大なんだよ。」

「……でも、そんなの、私は貰ってばかりだわ。」

「……うむ。困ったな。君は、本当に鈍感なんだね。知らないのなら、教えてあげよう。」

 内腔の温度が、さらに上昇していく。そして、炎が一段と、大きく、大きく揺れる。

「僕は、君に愛されているんだよ。」

温度の上昇は、止まらない。私の体が、外側から、内側から、熱くなる。

「君が自分の愛に気づかなくて、当然だ。だって、君の愛は、もうすでに、僕の中に、あるのだから。君の愛はね、いつも僕のことを、じんわりと、ゆっくりと、深いところまで温めてくれるんだ。そして、植物の葉が優しくこすれるような、そんな心地のよい音を、僕の中で奏でている。そっと、優しく、ちょっと遠慮がちに、綿毛のような柔らかさと、薄氷のような脆さをもって、僕に触れてくれる。それが、僕には丁度いいんだ。僕には、君じゃなきゃ、だめなんだよ。」

 炎は、大きく、大きく揺れ、その様はまるで、荒れ狂う竜巻のようだった。そして、私の腕をつかみ、顔を包み、胴に絡まり、ついには私を、燃やした。

「君は、汚くなんか、ない。でも、純粋である必要もない。僕たちは、僕ら以外の人間も、誰かに気づかれないように、寂しさや悲しみをひっそりと抱えて生きている。そしてそれらは、自分自身だけでは、消化しきれない。君だけじゃないよ。みんな、そうだ。そうやって、僕ら人間は、他人を頼って、生きている。人の温もりを求めて、誰かの中に自分の影を見つけて、そうすることで、やっと自分自身を安定させているんだ。君がやっていることは、誰かからみたら、悪いことなのかもしれない。でも、僕にとっては、最高に嬉しいことでしか、ないんだよ。だって、こんなに、嬉しいことってあるかい?世界でいちばん大切な君が、世界で欲しかったものを、僕があげられるんだ。僕にしか、あげられないんだ。それは、僕の本望だ。いいんだ。君は、僕のすべてを奪ってくれて、いいんだ。僕は、そうしてほしいのだから。僕は、僕のすべてを君に捧げたいのだから。狂った考えかもしれないけれどもね、僕は、君の一部になりたい。君と一緒に溶けて、ひとつになりたい。」

 私が、燃える。けれど、肌が焼けるような苦痛はない。内側も、外側も、同じ温度で燃えている。皮膚が溶け、筋肉が骨からはがれ、残った骨も、全て、私の全てが灰となり、彼の炎とともに旋風している。

「ねぇ、君は知らなかったのかい?僕は、君のことが大好きなんだ。どんな君でも、僕にどんなことを思っていても。君は不器用で鈍感だから、自覚していないのかもしれないけれど、君は、ちゃんと、僕を愛しているんだよ。」

 彼が、私を、溶かす。

 そうか、私は、愛せていたのか。私は、彼を、ちゃんと、愛せていたのか。

彼は、私の粒子をさらに分解し、目に見えない分子レベルの粒にまで、分解していく。私は、彼の中で、彼の起こす流れに身を任せながら、舞っていた。覚醒と眠りの狭間で、時には半分眠るように彼に身を委ねながら、時には、彼の作る流れを割いて、私自身も力強く新しい流れを作り、彼がそれに合わせた。

私たちは、愛し合った。深く、深く、愛し合った。

時には静かにゆったりと、時には、大きくうねりながらさらに分解されてしまうのではないかというくらいに激しく。

精神も肉体も、私たちは完全に一体となり、新しい何かに、生まれ変わった。

 ああ、なんて、心地の良い感覚なのだろう。 吐息も漏らせないほどの心地よさに、私たちは酔いしれた。

 永遠に、このままでいれたらいいのに。 けれど、やはり、この世の摂理なのだろう。永遠を願っても、永遠は続かなかった。

 徐々に徐々に、私たちは元の私たちに構築され直されていった。分子が集まり、配列を作り、三次元、四次元の構造を取り、骨、筋肉、神経、皮膚が再生されていく。

気が付くと、彼と私は、元いたアパートの屋上で、元の人の形をして、向かい合って立っていた。けれど、彼は、相変わらず、白く柔らかな羽をその背中に生やしていた。私たちの周りには、月光を反射してきらめく、虹色の粒子が舞っていた。

私たちは、二人とも、とても心地よい疲労感を抱えていた。体がだるく、頭も上手く働かなかった。どうやって、部屋に戻ったのかも、はっきりと覚えていない。部屋に戻って、ベッドにそのまま寝転んで、しっかりと手をつないだ。

 そして、私たちはすぐ、眠りについた。


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