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愛を食す  作者: 里舘 凪
4/7

私の願い

次の日、朝起きるとすでに彼は起床した後だった。

洗面所で顔を洗って、リビングに行くと、食卓にはもう朝ごはんが用意されていた。キャベツの千切りとスクランブルエッグとベーコンとカフェラテ。

「おはよう。」

「おはよう。」

 彼はいつものように、にこやかに挨拶を返した。彼の第三の目は消えていた。私は朝に弱いので、いつも低い声になってしまう。そして、今日は悪い考え事をしているせいで余計に低くなってしまった。

食卓について、朝食を食べる。

咀嚼音と、食器同士がぶつかる音だけが聞こえる。

今日は昨日とは打って変わって、朝から雲一つない青空が広がり、鳥のさえずりも聞こえてくるような爽やかな朝だった。とてもとても、爽やかな朝だった。

天気がちょっと嫌になるくらい爽やかなことを除いては、何もない、いつもと同じ朝だ。しかし私は、朝食を食べながら、どうやって、彼に昨日の決意を伝えようか思案していた。

今であろうか?いや、しかし、それだと重苦しい雰囲気になって、せっかくの爽やかな朝が台無しになってしまうかもしれない。

朝食後だろうか?いや、しかし、それだと、今日の残りの時間を絶望して過ごすことになってしまうかもしれない。

それでは、寝る前だろうか?いや、しかし、それだと、もし嫌な結果だった場合、私の安眠は損なわれ、睡眠不足により明日も嫌な気持を引きずってしまうかもしれない。

 全て全て、悪い想像をしてしまう。

どのタイミングであろうと、良くない結果だった場合のリカバリーができそうもない。いや、そもそも、彼に呆れられてしまったら、失望されてしまったら、私はきっと、どんなことを試してみても、きっと復活は出来やしない。倒されたら倒されたまま、私はずっと地面に横たわって、絶望のあまり、そのまま地面に溶けていってしまうだろう。

ご飯を食べているのに、味が全くしなかった。スクランブルエッグは砂糖を入れて甘いはずなのに、スポンジを噛んでいるようで、カフェラテも少しは苦いはずなのに、口に膜を張る謎の液体を飲んでいるようだった。

ちらり、と彼の様子を見る。腕に変な植物が生えている様子もないし、第三の目も消えている。その他の身体的異常もなさそうだった。

「ねぇ、あのさ。」

「何?」

 彼は一度、箸を止めて、こちらを向いた。私は、謎の液体を一口飲んで、喉を潤し、少し考えてから、こう言った。

「久しぶりに、二人で出かけない?」

 

私は、「デート」という言葉は使わない。代わりに、二人で出かける時は、単に、「二人で出かける」と言う。

私たち二人の行動を言い表すのに「デート」という言葉は不適切なような気がしてしまう。別段、彼と二人で出かけることで心がウキウキするわけでもないし、気持ちが盛り上がるわけでもない。しかし、冷めているわけではない。あえて私たちの間に流れる空気感を言い表すのであれば、「安心感」だろうか。

私は普段、自分の心に幾重にも糸を巻いて、それで自分の心を守って、鎧を作っている。私は他の人に私の芯の部分に触れてほしくないと思っている。初めて会った人や、苦手な人に、自分の心の真の有り様を見られたくない。だから、緊張感をもって糸で幾重にも巻いてガードする。でも、彼といると、私の心を守るためにきつく巻かれた糸が緩んで、その隙間から私の心が垣間見えるのだ。彼になら、私の心の一部を見せても良いと思えるから。全ては見せたくはないけれど、でも、確かに、彼といると、脱力して、糸が緩んでしまうのだ。

恐らく、一般的に「デート」という言葉を使うとき、そこには宝石のように華やかな、きらきらと輝く感情が含まれている。しかし、私たちの間にある風景は、心地よく風が吹き、ところどころに小さな花が咲いている謙虚な草原なのだ。

そんなニュアンスの違いから、私は二人で出かけることを、そのまま「二人で出かける」と言う。

 二人だけでどこかに出かけるのは、久々のことだった。いや、外出すること自体はあったのだが、食料を買いに行ったり、掃除用具などの生活用品を買いに行ったりと実用的な用事で出かけることがほとんどで、二人とも趣味はインドア派、ということもあって遊びに出掛けることは、最近はあまりなかった。

 久々の外出だから、といって気合を入れるわけでもなく、服装も、私は白いシャツワンピースにジーンズ、彼はTシャツにグレーのパンツといういで立ちだった。私はメイクもほとんどせず、簡単に日焼け止めだけ塗った。メイクをすると、気合を入れているみたいになってしまうので、やめた。

なるべく、フラットに話したい。さらっと言ってしまいたい。そして、言ってしまった後に生まれるであろう嫌な気持ちを目新しい何かで何重にも上書きしたい。

私は心に決めたくせに、怖がっていた。

 部屋の中で話そうとするから、良くないのだ。家の中にいると、気晴らしになるものも少ないし、何より、狭い空間に二人でいるのは大変気まずい。しかし、狭い空間に二人でいるのが気まずいからと言って、片方が家を出ようものなら、二人の間に流れる雰囲気は最悪なものになってしまう。しかし、最初から外に出ていれば、気晴らしになるものもたくさんあるし、離れるために別行動しようとしても、何の違和感もない。はずだ。

そんな言い訳を苦し紛れに考えながら、本日の外出先であるショッピングモールに向けて車を走らせた。どこに行こうか、と聞かれ、とっさに思い付いたのが近くのショッピングモールだったので、そこを伝えたら、彼は特段、反対もせず、そこになった。

「うん、いいね、いいんじゃない。二人で出かけるのも久しぶりだし。」

彼はこういう時、意外にも大きなリアクションはしない。ロックンロール・クリーニングについては熱く語り、記念日についても私がどれだけ反対しても良く分からない理論を展開して押し通すような熱い心を持っているはずなのに。意外にも淡白なリアクションになるのは、彼なりの照れ、なのだろうか。

 アパートからショッピングモールまでは車で二十分程だった。車の運転は彼がしてくれた。目的地に着くまでの間、彼に何か話しかけられて、何かを返した気がする。でも、私は、今日は自分の隠していたことについてどうやって話そうか、ということで頭がいっぱいで、上の空だった。車の窓を高速に横にスクロールされていくいつもの景色も、ぼんやりと焦点が合わない感じがして、普段とは違うように見えた。

 ショッピングモールに着くと、思っていたよりも混んでおらず、親子連れが目立った。百店舗ほど軒を連ねているそのショッピングモールはこの地域で一番大きい。店舗は屋外に面しており、一部の飲食店は外にテーブルを出しているところもあった。

「さて、どこを回ろうか。」

 出かけよう、と提案したのは私だけれども、その先でどう動くかは彼が仕切ってくれる。心なしか、彼は出かける前よりも、ウキウキしているようだった。でも、彼のその明るさが、私たちの間に流れる気まずさを緩和してくれていた。彼は、私といることを嬉しいと思ってくれている、と分かって、私の心の糸が解れていく。

 彼だって、本当は内心、心穏やかではないんじゃないか。ほんの少し、ドキドキしているんじゃないか。私の本心を見たというなら、そして、それを話してほしいと言ったのなら。私がそれをどのタイミングで告白するのか、少し構えて待っているんじゃないか。そんなことを考え始めたら、余計に言い出しづらくなってしまう。

 昨日の土砂降りの雨のせいか、日が当たらないところにはまだ水たまりが残っている。綺麗な青空よりも、日陰の方にばかり目が行ってしまうのは、私の心情のせいだろうか。

「とりあえず、近いところから回っていって、気になるところに入ればいいんじゃないかな。」

 いろんな考えが頭の中をぐるぐると回っているせいで、つい、適当な返事になってしまう。でも、彼は、それを気に留める様子もなく、うん、そうだね、と言って、私の前を歩きだした。

彼の半歩後ろを歩きながら、洋服店や、飲食店、雑貨店などを窓越しに見て回るが、ピンとくるものがない。

当たり前だ。だって、今日は何かを買いに来たわけではないのだから。ぐるぐると私の頭の中で嫌な思考が渦を巻いている。

この店の前に来たら、話そう。いや、でも、少し先にある、あの店の前に来たら話そう。

そうやって、様々なお店の前を通り過ぎる。店に飾られたものを見ても、一瞬認識するのみで、頭には残らず、心にも響かない。

彼とは、最初は会話があったものの、だんだんと減っていき、私たちは黙ってただ歩いて回った。そうして、一通りの店舗は回ってしまった。

「うーん。」

 どうする?と彼が私のほうを向いて、言葉にせずに聞いてくる。どうしよう。私から

ショッピングモールに行こうと誘ったのに、彼に気を遣わせてしまっている。気まずくて、視線を逸らす。

しかし、一通りの洋服や雑貨店を見終えてしまうと、最終的に行き着くところとは決まってしまう。私たちは、会話もないままに歩き続け、ショッピングモールの二階の端の店へと向かった。

 ここのショッピングモールの本屋はとても大きい。店舗面積が広いだけではなく、取り扱っている本の種類も多い。編み物や縫物などの趣味の本、ファッション誌、漫画、新書、文庫本も幅広いジャンルのものを取り扱っている。

 しかし、私達は雑誌や漫画コーナーを素通りして、文庫コーナーへ向かった。

いつもなら、欲しい本があったときにメモしているスマホの「欲しい本メモ」を開いて、書籍検索機で検索して探しに行くのだが、最近は特に何もメモしていなかった。なので、店員おすすめの本が陳列された棚を見ていた。

 今話題の、ジャンルも様々な本が数冊、POPとともに陳列されている。「○○賞受賞作品」「あの人気作品がついに文庫化」。彼も、私の隣に立って本を眺めている。

 一度沈黙が流れると、その沈黙を破ることは難しい。私は、フラットに話すつもりだったのに、思ったよりも重い空気になってしまって、この現状を打破する方法を思索した。

 私たちは二人とも本が好きだった。だから、お互いの好きなものがあれば、会話のきっかけがあれば、その沈黙を破り、スムーズに本題へ移ることができるんじゃないか。

 ちらり、ともう一度彼を一瞥する。何か気になる本があったのか、真剣に本棚を見つめている。私も本棚に目を移した。

 しかし、いざ本を目の前にすると、何か会話のきっかけを、などといういやらしい目的など忘れて、純粋にこの本はどんな内容なのか気になってしまう。

装丁も様々な本が陳列されている。その中で、一冊の本が気になって手に取った。

POPの内容と、帯に書いてあるキャッチコピーから、これは恋愛小説だろうか。POPの内容はありきたりな、恋愛小説を紹介するときの決まり文句を並べてあるだけで、それが手に取ることを躊躇させる理由になっていたのだが、装丁の絵が好みだったのだ。ハードカバーのその本は、片手で持つには重かったので、両手で取り、丁寧に左手に乗せ、表紙のカバーを開いた。

どんな話なのだろうか。出だしだけでもこっそりチェックするつもりだったのに、彼に見つかってしまった。

「お、気になるの?」

「いや、別に。」

 つい、即答してしまう。

けれど、そう答えつつも、やはりどんな話か気になってしまうので、棚に戻すことはせず、一旦、本を閉じて、帯に書かれた短いあらすじに目を通した。

私達の好きなジャンルは似ている。

いや、似てきた、という表現の方が正確なのかもしれない。私はミステリーやファンタジーものが好きだった。一方で、彼は恋愛ものが好きだった。

 彼は読むジャンルに苦手分野はなかったが、私は恋愛ものが苦手だった。世間一般の恋愛観を持っていない私にとって、世のみんなが大好きな、ごりごりのキラキラな要素がたくさん詰まっているであろうものに触れるのは、本当に嫌だった。

「とりあえず、一度読んでみたら?」

 初めてこの本屋に二人で来た時、苦手なジャンルについて話していたら、彼にそう言われた。

「いや、そう言われても……。」

 苦手なものは、苦手なのだ。

 みんながみんな、同じようになることを強要されているような。

年頃になると、自分の周りで『恋愛をすること』が流行しているのは分かっていた。

若い女の子はたくさん恋愛をする「もの」で、クリスマスやバレンタインは彼氏と一緒に過ごす「もの」、それができないことは寂しい「もの」なのだ、と。

 私は、恋をすることに興味がなくて、別段それが寂しいとも思ったことはないけれど、でも、周りに勝手に「寂しい人」と思われる。

 恋愛小説は、そんな世界の典型で、そんな世界に浸るなんてことは、私にはできない。

 苦しくて。息ができなくなる。

 本当の自分を否定されているみたいで。その他大勢に同調するように求められているみたいで。

「もったいないよ。」

 私が恋愛小説を苦手な理由を説明したら、彼にそう言われた。 

「君はまだ、恋愛小説を一度も読んだことがないんだろう?恋愛小説も、すべてが一様に同じものが書かれているわけではないんだよ。実際には、色々な価値観であふれている。読んでごらん。きっと、君の世界が広がるよ。」

 悔しいが、私は根が非常に真面目なので、人から勧められたものは、嫌だなと思ってもとりあえず読んでしまう。

嫌だなあ、と思いながら、彼が勧めてくれた本を読んでみたら、存外、するっと読めてしまった。

あまり男女が甘い言葉をささやき合いながら距離感が近く、べたべたしたものは好きではないが、彼が勧めてくれたものは比較的あっさりとしたものだった。世間一般が勧めてくるような恋愛とは違っていた。かといって、不倫や浮気といった人としての倫理観から外れたものではなかった。

とても静かで、とても曖昧な二人の関係性に、私は安堵した。

「面白かったわ。まさか、自分が恋愛小説を面白いと思う日が来るなんて思わなかった。」

「そう。それなら良かった。恋愛小説にも色々あるからね。また君の好みに合いそうなものを見つけたら、お勧めするよ。」

 彼は、「ほら、読んでみて良かったでしょ。」と私を挑発するようなことは言わなかった。ただ、さらっと「良かった」とだけ言った。彼のしつこくないリアクションが、私の苦手意識をまた少し軽くさせた。

でも、恋愛に対する苦手意識が完全に消えたわけでは決してない。完全に消えたわけではないが、気にはなるので、時々こうして、ちょっと自分でも恥ずかしいなと思いながら、手に取ってみてしまうのだ。そして、いたく感動したものについては逆に彼に勧めたりもしている。

しかし、彼は、私が号泣した本を読んでも、一滴の涙も流さない。恋愛ものだと泣ける話が多そうなのに。それが不思議だった。だから、彼が恋愛小説のどこが好きなのかはいまだによく分からない。


 そんなこともあったなあ、と在りし日を思い返していたら、カップルらしい男女が近くを通った。私よりも若く、手も繋いでいて、二人の距離もとても近かった。私は、思わず顔をしかめ、目を逸らしてしまった。

 隣で彼が、ふふっと笑った。

「君って、恋愛小説は読むようになったけど、相変わらず現実の恋愛は苦手だよね。」

「フィクションと現実は違うわ。」

「あら、そうですか。」

 言い返したら、クスクスと笑われてしまった。彼以外の人に言われたら、私は穴にこもって一生出てこないかもしれない。でも、彼にからかわれるのは、不思議と嫌な気がしなかった。

 もう少し、素直になれたら。こんな偏屈な人間、彼にとっては負担にしかならないんじゃないか。

 また、自分のことが嫌いになる。

昨日、さんざん悩んでいたところとは別の、自分の嫌いなところが浮き出てきてしまう。

 素直になりたい。心が綺麗になりたい。純白で、汚れ一つないものになんて、今更なれないかもしれない。でも、ほんの少しでも、そうなれるように。

ちょっとだけ。ほんのちょっとだけ。

「私には、周りの女の子たちのような恋愛なんて、できないわ。だって、世の中に流れている一般的な恋愛観が、理解ができないんだもの。」

 慣れないことをしようとしているからか、口の中が乾く。粘調性が高いつばを、ごくんと飲み込む。

「私、『彼氏』っていう言い方が、苦手なの。なんでって言われてもうまく説明できないけれど、苦手なの。それにね、『彼氏が欲しい』っていう考え方も、理解ができないの。だって、それって順番が逆なんじゃないのって。まずは、誰かのことを好きになって、そこから、その人のそばにいたいと思うようになって、思いが通じ合って、一緒になるものなんじゃないのかなって。『結婚したい』だって、そう。なんでみんな『結婚』というものをしたがるの?『結婚』というものは『する』ものじゃなくて、ただの『形』じゃないの?ずっとそばにいたいと思える人ができて、その人とずっと先も続いていく長い関係性の中での、一つの区切りを表すものじゃない。『彼氏』も『結婚』も相手が誰でもいいなんてことはないのに。世の中の人たちは、自分に『彼氏』というポジションの人間が欲しくて、『結婚』というものを体験したいと思っているようにしか思えない。それって、本質的ではない気がするの。」

一気に話して乾いた唇を、舌で湿らせる。

「それに……もっと根本的な理由は……。」

 どうしよう。恥ずかしい。自分がずっと、気にしていることを人に話すのは、いくら信頼している人でも恥ずかしくて、耳が熱くなる。

「恋愛って、キラキラしたイメージがあるから。でも、私は、そんなキラキラなことは苦手なの。じゃあ、人を好きにならないのかと言われると、そういう事でも、ないの。一生独り身でいたいのかと言われると、そういう事でもないの。こんな考え方、とても中途半端かもしれないよね。でも、そうなの。ただ、一緒にいて、落ち着いて、安心して、深く深呼吸をしたいの。キュンキュンするものとか、ウキウキするものとか、そういったものは、疲れてしまうの。息切れしてしまうの。私、変なのかも、しれないわ。」

 心臓が、いつもよりもドキドキした。

 言い終わった後で、しまった、言い過ぎた、と後悔した。

 だって、おかしいじゃないか。仮にも、私たちは将来を共にしようと考えている間柄なのに、きらきらしたものは嫌いだの、恋愛は苦手だの、文句ばかり並べて。これって、今までの私たちの関係性を全否定してしまっているんじゃないか。

いや、でも私はそういう風に言ったつもりはなくて、ただ、好きとか嫌いとか、そういう線上にはない感覚で彼と一緒にいたいと思っているわけで。でも、その感覚は、一般的に認知されている恋愛観とはかけ離れていて……とにかく、説明が難しい。

余計なことを、言ってしまったのかもしれない。彼を、傷つけて、悲しませてしまったかもしれない。

ああ、嫌だ。

彼を、大切にしたいのに、大事にしたいと思っているのに。なのに、傷つけて、悲しませてしまう自分が、嫌いだ。

 だめだ、だめだ、だめだ。こんな自分じゃ、だめだ。でも、変えたいのに、変わりたいのに、でも、変われなくて、どうしていいか分からない。

それが、悔しくて、悲しくて、目が潤んで、目頭が熱くなる。

 私は、手に取った本をぎゅっと握って、本棚に戻そうとした。

 すると、彼は、そうか、と言って棚から一冊の文庫本を手に取った。

「世の中には、こういう時はこうすべき、というよくわからない基準が溢れている。」

 彼は、帯のキャッチコピーを指でなぞり、本を裏返して、あらすじを見る。

 ふむ、と一回うなずいて、目線を本から外さずに、静かに話し出した。

「若い子は恋愛を楽しむ『べき』だ、とか、誰かと付き合ったらこういう事をする『べき』だ、とか。他にも、家族の形や、それぞれの生き方。恋愛に限らず、いろいろな物事において『普通』や『正しさ』と呼ばれるものが世の中に溢れている。本当は存在しないのに、でも確固とした形を持ったように見えるそれらによって、僕らの心は縛られてしまう。それらから少しでも外れてしまうと、異質な目で見られ、変人扱いされてしまう。でも、それらから外れないようにする、というのも時として、僕らを苦しめる。」

 そして、今度は表紙をめくって、目次のページを開いた。

「だからね、大事なのは、自分が何を大切にしているかだと思うよ。自分の中で大事にしたいものがあるならば、誰が何と言おうともそれは貫くべきだと、僕は思う。大事にしたいものがない人だって、この世にはいるのだから、せっかく大事なものを持っているのならば、それは守り抜かなきゃダメだ。」

例え、世の中の倫理観に反することだったとしても、ね。

彼はぎりぎり私に聞こえるくらいの小さな声でそうつぶやいた後、ぱたんと本を閉じ、私のほうへ向き直った。そして、私の目をしっかり見つめてこう言った。

「つまり、僕が何を言いたいかというと、君が持っているその恋愛観はとびきり素敵なものなんだ、ということさ。」

彼の声が、鼓膜を通って、脳へと届き、そして、心にこだまする。

「実をいうとね、僕もキラキラやドキドキで息切れをするタイプなんだよ。そうじゃなきゃ、こんなに長く君といないだろう?僕はね、君といるのが、心地がいいんだ。確かに、世の中で一般的に言われているエネルギッシュな恋愛観と比べたら、僕らの恋愛観は枯れ木のようなものなのかもしれないけれど。でも、そういった恋愛観もすんなりと受け入れてくれる世の中になればいいな、と僕は思うよ。」

 最後に彼は、ちょっと困った顔をした。

 また、だ。

心が、軽くなる。一人でもがいていてもどうしようもできないのに、彼が呪文を唱えるだけで、私はふわっと軽くなれるのだ。

「さて、僕はこれを買おうかな。」

彼が先ほどから手に取って見ていたのは、私が好きな作家のミステリー小説だった。

「君は何を買うの?」

一瞬、ためらった。

いまだに残る苦手意識が、私を躊躇させた。けれども、彼の魔法の呪文が、私の背中を押した。

「これにするわ。」

私は、彼と一緒に、最初に手に取った恋愛小説をレジに持っていった。


本屋を出ると、お昼少し前だったので、何かを食べることにした。

ショッピングモールに着いた時よりも、私の足取りは少し軽くなっていた。

フードコートに行くか、それともカフェに行くか相談して、カフェに行くことにした。

二人で初めて出かけた場所も、ここだった。店内の壁は明るい色の木目調で、テーブルや椅子も木材でできていた。椅子のクッションはアースカラーの黄緑やオレンジ、青などで、店内のところどころに観葉植物の植木鉢が置いてある。照明もほのかに暖色系を帯びている。おしゃれだが、落ち着きのある空間だ。

そして、初めて頼んだものと同じものを頼んだ。このお店の定番のランチセット。セットドリンクは、私はアイスのカフェラテ、彼はアイスコーヒーのブラック。ドリンクは食後に持ってきてもらうことにした。そして、食事が来るのを待つ間、私たちは先ほど買った小説を読むことにした。

読みながら、私は彼に話しかけるタイミングを伺っていた。

最初は、本題とは関係のないところから話そう。そして、そこから少しずつ本題に近い話にしていこう。

私は、ざっくりとプランを決めて、私の計画をスタートさせた。

「ねぇ、その小説、読み終わったら私も読んでいい?」

「うん、いいよ。僕も、君が買った本、読んでいいかな。」

「もちろん。」

短い会話を交わすと、彼は、すぐに本の世界へ戻ってしまった。

どうしよう。このまま沈黙が流れたら、また沈黙を破ることが難しくなってしまう。これでは、出だしから頓挫してしまう。

「でも、なんで、ミステリー小説を買ったの?その作家、好きだったっけ?」

 なんとか質問を絞り出す。

「あぁ、これ?君の好きなジャンルの君の好きな作家の本だから買ったんだよ。」

「どういうこと?」

彼の意外な返事に、思わず首を傾げた。

彼も、本のページから目を上げて、私のほうを向いた。口元には笑みを浮かべている。

「相手が、自分の好きなものを取り入れようとしてくれるのって嬉しいだろう?」

 テーブルの上には、ガラスコップに入った氷水が置かれている。今日は天気が良くて気温も高いから、氷が解けるスピードも速い。積み重なった四角い氷が、少しずつ溶けていき、バランスが崩れた拍子に、からん、という心地の良い音を響かせる。

「で、君の性格のことだから、相手が自分にしてくれたことは相手に返そうと思うはずだ。それから、自分だけではちょっと決断がつかないことでも、他人が絡むと決断できることってあると思うんだ。君が手に取った恋愛小説、君は気になっているようだったけれど、買うかどうか悩んでいるようだった。これらの二つの要素を合わせて考えると、僕が君の好きなジャンルの本を買うことで、君の購買意欲を後押しすることができると考えたんだ。そして、買ったものはお互い貸し合って読むことができる。まさにウィンウィンの関係ってやつだね。」

「ああ……なるほどね……。」

私は非常に論理的な説明に脱力してしまった。朝からの、いや、昨日の夜からの緊張で、体は自分でも気づかないほどに強張っていたようだ。首も肩も背中も、張っていたものが緩んで、椅子から落ちそうになる。

私はまんまと彼の思惑にハマってしまったということか。やっぱり、私は彼にうまい具合に操られている気がしてしまう。

けれど、それは、悔しいようで、嬉しいのだ。

だってそれはつまり、彼が私のことを考えてくれている、ということなのだから。彼は、本当にアホだ。馬鹿馬鹿しいくらい、とことん私のことしか考えていない。

嬉しかった。安心した。

だって、彼は昨日、第三の目で私の汚れた部分を見ているのだから。その汚れを見たうえで、彼はいつもと変わらず、私の沈みそうな心を救い上げてくれている。それが嬉しくて、安心した。

でも、だからこそ、私も彼に対して、誠実に対応しなければいけない。きちんと、私の口から話さなくてはいけない。

そう、改めて決意を固めたところで、食事が運ばれてきた。

「本日のランチセットでございます。」

トマトクリームパスタとサラダがテーブルに置かれた。パスタにはピンク色のソースがかかり、エビの香りも感じられる。お昼にしては少し早い時間だったから、おなかはあまり空いていないかと思っていたが、ぐう、とおなかが鳴り、唾が出てきてしまった。

「いただきます。」

 手を合わせ、フォークにくるくるとパスタを巻き付けて、口に入れる。トマトの酸味と、クリームのまろやかさが口に広がる。

「うん、うまい。」

 私もおいしい、と言おうとしたら、彼に先を越されてしまった。

 朝は味など感じなかったのに。今は、酸味やまろやかさ、サラダの青臭さも感じられる。一口ずつ、大事に味わって食べよう。

 私たちは食べることに集中して、黙々と食べ進めた。

さっきまでは会話があったが、今は二人の間に沈黙が流れる。店内のBGMと食器がぶつかり合う音と咀嚼音。

 食事中にあまりしゃべらないのは、家でも外でも変わらない。

 私たちは、特別、食べることが好きなわけではない。あまりしゃべらない性格、というわけでもない。むしろ、彼に至っては、おしゃべりが得意で、そのおかげか友人もたくさんいる。

でも、私たちは静かにご飯を食べる。それでは、一人で食べるのと変わらないのではないか、とたまに思うのだが、いざ一人でご飯を食べてみると、寂しさや、孤独感を感じてしまい、時には、底なしの暗い穴に落ちてしまいそうな、そんな恐怖さえも覚えてしまう。

誰かと一緒にいるのに無理に会話はしたくなくて、でも、一人でいるのも嫌、というのはわがままなのだろうか。

 もしかしたら、それは、わがままなのかもしれない。だから、そんなわがままを聞き入れてくれる、心地よく沈黙を共有できる仲の人、というのは貴重だと思う。

 何も会話がなくても、心が落ち着ける関係。

人間、いつだって楽しくわいわい生きているわけじゃない。たまには、体は元気だけれども心は静かに過ごしたい時だってある。

人間、他人といるときには、どうしたって明るい笑顔を張り付けた仮面をかぶってしまう。頑張って会話を見つけ、頑張ってテンションを上げ、そして、疲れてしまう。

だからこそ、すべての仮面をはぎ取って、凪いだ心のままで過ごせる相手は、貴重だと思うのだ。

そういう「静かな自分」は元気がないとか、愛想がないとか、余計な心配を与えたり、印象が悪かったりしてしまう。だから、他人といるときはなるべく明るく取り繕って、「静かな自分」を隠そうとするのだけれども、ずっと隠しきれるものでもない。そんな「静かな自分」はごくごく一部の人にしか見せないし、人によっては、一生、誰にも見せないだろう。

その沈黙は、信頼の証、なのだ。

自分の中に広がるどこまでも広がる湖。その湖の上に私たちはただじっと立っている。空はただ青い。木々もなく、雲もなく、風もない。水面は汚れ一つない鏡のように、寸分の狂いもなく私の影と、空の青を映している。そんな何の変化もないつまらないところは、ほんの一部の人しか招待されない。そして、招待されても、特に何もせず、二人でただぼうっと静かに過ごす。何も考えずに済むその空間は、とても、とても心地よい。

 だから、普段はおしゃべりな彼が静かな部分を見せてくれるのは、嬉しく思うのだ。だってそれは、彼が私を「選んでくれた」ということだから。

 私は、三口パスタを食べたところで、サラダを挟んで口の中をさっぱりさせた。

 おいしい。ゆっくり、ゆっくり咀嚼する。

 もっと食べたくなって、四口目のパスタをくるくるとフォークに巻き付けていたら、彼が話し始めた。

「君は知っていると思うけど」

 私は、一度フォークの回転を止めた。彼も、少し話しにくそうにしている。

「僕は、会社に入って、しばらく働いていたけど、三年も経たずに辞めてしまったんだ。恥ずかしい話、人間関係がうまく行かなくてね。でも、働きながら貯金はしていたから、また大学に入り直した。自分が卒業した大学とは、別な大学に。」

もちろん、その話は知っている。知り合って半年ほど経ってから、実は……とおずおずと打ち明けられたのだ。

自分が実は既卒で、自分が卒業した大学とは別な大学に入り直していること。仕事を辞めて、もう一度勉強したくなって大学に入学したこと。

しかし、一度聞いた話をもう一度話し出すなんて、どうしたのだろうか。

少し、動揺し、少し、戸惑った。戸惑ってしまったが、私の心は少し波紋が広がっただけで、すぐに収まった。

彼が意味不明なことを突然言い出すのはいつものことだ。だから、うん、そうだったね、と返して、彼に続きを促した。

「あの時は、もう一度、勉強したかったんだって言ったけど、あれは、ちょっと、嘘なんだ。格好つけて言ってしまったけれど、本当は、そうじゃない。やり直したかったんだ。失敗する前の自分から。」

 彼は、一息ついて、フォークでパスタを巻き取り、口に運んで咀嚼した。それに合わせて、私もパスタが絡みついているフォークを口に運んだ。

 パスタをごくんと飲み込んだ後、彼はさらに話をつづけた。

「学生だった頃に戻れば、生まれ変われる気がしたんだ。失敗した自分が、なかったことになるんじゃないかって、思った。分かっているよ、もう一度大学に入ったところで、過去と全く同じ、まっさらな自分になれるわけなんかないって。仕事で経験した嫌なことが、無くなるわけじゃないって。うまくいかない自分を、嫌いになってしまった自分を、消し去ることができるわけじゃないって。分かっていたよ。でも、そんな、可能性を信じてみたかったんだ。人生の途中の時点に戻ってみたら、そこから全部やり直せるんじゃないかって。そんな、幼稚じみた考えで、新しい大学に入ったんだ。」

そうか、そうだったんだね、と相槌を打ちながら、コップの水を一口飲んだ。冷たい水が、口の中に残っていたトマトクリームを胃へと流し込んでいき、クリームで少ししつこくなっていた口の中を、リセットさせることができた。

彼の話の続きを聞いても、私の心臓はとても穏やかに拍動していた。

彼が、今、話したことを、私は一つも知らなかった。

なぜ今まで話してくれなかったのか、という裏切られた気持ちや、今まで嘘をつかれていたのか、というショックは特になかった。でも、そうなんじゃないか、という予感も特になかった。

初めて聞いた話だけれども、私は別段、驚きも、動揺もしなかった。

ただ、彼が、ここまで深く自分の話をするのは、珍しいような気がした。

彼の突然の告白に、動揺もしない私は、言葉少なく返してしまう私は、冷たいのだろうか。

だって、誰にだって、見せたくないものはあるじゃないか。私だって、そうだ。

恥ずかしい自分、嫌いな自分が、常に自分の内側から私をじっと見つめている。時に、監視されているような気持になる。「本当のお前はこんな人間なんだ」と脅されているような気分になる。

だから、隠したい。自分でもこんな自分が恥ずかしいのに、嫌いなのに、他人がこんな自分を好きになってくれるなんて、到底そんなこと思えないから。

だから、彼は、今、とても勇気を出して、話してくれているんだな、と思うのだ。

自分でも恥ずかしいと思っている自分を、緊張で震える心を抑えて、私に見せてくれている。

彼のその勇気は、とても尊い。

とても尊いものだから、私はそっと、その小刻みに震える小さな灯に、寄り添いたいと思うのだ。

私に話してくれて、ありがとう。私は、今の彼に対して、そう思う。

偉そうに上から目線でアドバイスをする、なんて、そんなおこがましいこと、私には、できない。私だって、自分のことがひどく嫌いな、未熟な人間なのだから。私にできるのは、彼が折角灯したその明りが、消えてしまわないように、そっと、優しく、包み込んであげるだけ。

けれど、そっと見守るだけとなると、必然的に言葉数が少なくなってしまって、相槌程度のものしか返せなくなってしまう。

こんな態度でいいのだろうか。やっぱり、何かアドバイスのようなものをしたほうがいいのだろうか。どうして私は、気の利いた言葉一つも出てこないのだろう。

私は、今の自分の態度に、自信が持てない。本当は、今の私は、見守りたいのではなくて、ただ、無理に余計なことを言って、自分の言葉で、彼を傷つけてしまうのが怖いだけの、臆病な人間なんじゃないか。自分で、自分が、分からなくなる。

一瞬の沈黙が、長く感じられる。凪いでいたはずの、自分の内にある湖に、むわんとした気持ち悪い風が吹いて、ゆったりとした嫌な波が立つ。

氷水が入ったガラスコップの周りに付着している水滴が少しずつ大きく成長していく。

そして、また、二人で同じタイミングでパスタを口に運ぶ。

「見た目は若いほうだけれども、やっぱり、もう二十代半ばだったし、十代後半のエネルギッシュな若々しさにはついていけなかった。人生をやり直したいと思っていたけれど、別にもう一度、楽しいキャンパスライフを送ろうとも思っていなかった。でも、ちょっと肩身は狭かったんだ。居辛さ、っていうのは感じていたかな。新品な商品の中に、一つだけ使い古されて、黄ばんで傷のついた商品が混ざっているような。自分が変に浮いている気がしてしまっていた。」

 彼は、話を続けた。彼の口調から、彼が、私の態度が気になっているのかどうかは、読み取れなかった。

 私は、自分の彼への態度がこのままでいいのかという不安を抱きつつ、彼との出会いを、思い返した。

 彼とは、大学で出会った。

 私は、現役で大学に合格し、地元を離れ、友達が誰もいない状況からスタートした。

 市内で一番大きな体育館で行われた入学式。入学式が始まる前は、みんなばらばらに会場に来ていたのに、終了後は、二人か三人ペアで歩く人々をちらほら見かけた。

 彼のことは、そこで初めて見かけた。

 彼は、会場の外にある時計の下に立って、一人、空を見上げていた。

誰かを待っているのか、それとも、この後どうしようかと考えあぐねていたのか。でも、私が彼のことが気になったのは、一人でいたからではなくて、彼の纏う雰囲気が、周りと少し違うように感じたからだった。

 よく言えば、落ち着いていて、悪く言えば、少し、疲れているような。見た目も少し年上なようだし、けれども、人を見た目で判断してはいけないし……。 私は、彼のことをじっと見つめてしまっている自分に気が付いて、そんな失礼なことをしてしまっている自分が恥ずかしくなって、その場を去ってしまった。

 当たり前のことだが、彼のことは、入学式の後もキャンパス内でたびたび見かけた。

彼は、いつも、無駄に群れることなく、無駄に騒ぐことなく、ただ、若い群衆のちょっと離れたところから、そっとその群衆を見ているようだった。

同じ年の新入生たちは、女子に限らず、男子も「大学に入ったら、親しい人とグループを作るもの」と思っていたようで、教室に入る時には、大体は五人から七人程度の塊で入ってきた。どうやら彼らは、SNSで繋がっているらしかった。

そんな彼らの瞳には、楽しさとともに、焦りも映っているように、私は感じていた。

私は、彼らのやっていることが、虚像のように思えてならなかった。彼らの瞳からは、仲良くなりたいという気持ちよりも、一人になりたくない、一人だと思われたくないという焦りや恐怖のほうがより強く感じて取れたから。

そんな彼らを、彼は、ただ、見ていた。

彼の瞳は、その群衆に混ざりたい、若い子が羨ましいという願望も、羨望も、何も映っていなかった。

「最初の授業で、ルーズリーフを忘れてしまって。困っていたら、たまたま隣の席に座った君が声を掛けてくれた。」

 ああ、そういえば、そうだったね、とまた言葉少なく返しながら、その時のことを思い返した。

 選択科目だったその授業は、受講人数が少なかった。教室も狭く先生との距離も近かったため、授業中にほかのことをしていると、とても目立ってしまいそうだった。大学に入学してから二週間目。先週はオリエンテーションばかりだったが、今週から本格的に授業が始まる。私も気を引き締めていた。

 高校の古臭い、傷だらけの机とは違う、新品な木目調の机の上に、筆記用具とルーズリーフを置く。正面を向いて、先生が教室に来るのも待っていた。すると、視界の隅で、何か慌てた動きをしている人がいるのが、目に入った。

 彼、だった。

見ると、カバンの中をごそごそと何かを探していた。彼の机の上を見ると、筆記用具は並んでいた。しかし、肝心のノートやルーズリーフがない。彼の周りの机には、人が座っていたが、全員見知らぬふりをして、動こうとしなかった。

 だから、声を掛けた。彼が、困っていたから。

「素敵な人だと思ったんだ。」

 彼は、何口目かのパスタをフォークに巻き付けながらそう言った。

「周りの人は、僕を遠巻きにして、見て見ぬふりをしていたから。人って、異質なものを見ると、避けるんだよ。そういう本能を持っているんだ。でも、君はそうじゃなかった。見知らぬ人、しかも、まわりから少し浮いているような人間に対しても、少しも変わらずに接してくれた。そうやって、相手がどんな人であろうとも、周りの目を気にせずに困っている人に手を差し伸べるというのは、誰にでもできるものではないんだよ。自分と違うものというのは、自分の安全を脅かす、恐怖の対象となりうるもので、それと同時に、疎ましささえも感じてしまうものだから。そして、時には嘲笑の対象にもなりうる。でも、君はそんなことはしなかった。」

 ガラスコップに張り付いて大きく成長した水滴が、するっとコップに沿って落ちていき、コップの周りに水たまりを作る。

「そして、君は今も、僕の失敗も、会社を辞めて大学に入った経緯も、ただ聞いてくれた。どこか方向性を指し示すことなんかせず、ただ、聞いてくれた。それはね、意外と難しいことなんだよ。人は、落ち込んでいる人を見かけると、どうしたって励ましたり、アドバイスをしたり自分の失敗談も話したくなってしまう生き物だから。でも、本当に必要なのは、君みたいに、ありのままを受け入れてくれることなんだ。」

別に、特別な気持ちがあったわけじゃない。困っている人がいたら助けるのは当たり前で、私はその当たり前のことをしただけだ。彼の話を聞くことだって、そうだ。特別なことをしたいと思ったわけではない。こういう態度で接するべきだ、という明確な正解をもって彼の話を聞いていたわけではない。

だって、私はそんなに偉くない。人の行いを正せるほど、上手に綺麗に生きていない。

だから、そんなに特別視されてしまうと、もぞもぞしてきて居心地の悪さも感じてしまう。

「私は、別に……」

 フォークで、残り少なくなったパスタと皿の底にたまったトマトソースを絡め合わせる。

「君が何か、勘違いをしているようだったから、説明したつもりだったんだけど……」

 彼は、最後の一口を大きい口を開けて食べる。

君が先に僕を受け入れてくれたってことを言いたいんだけどなあ……むしゃむしゃむしゃ。

「本当に君は、無自覚で鈍感だな……。」

 彼は、口にパスタを含んだまま呆れたようにそう言って、ごくり、とパスタを飲み込んで、ごちそうさま、と手を合わせた。


 食事を終えると、ホールのスタッフがランチプレートを片付けてくれて、その後、食後のドリンクが運ばれてきた。

彼がアイスコーヒーで、私はアイスカフェラテ。店内はそれほど混みあっておらず、パソコンを開いて作業をしている人などもいた。今度、一人で来て、ドリンクを飲みながらゆっくり読書をするのもいいかもしれない。

読書、という言葉から、ふっと思い出したことがあった。それは、長いこと気になっていたけれども、聞かずじまいになっていたことだった。

「そういえば、私が読書をすると、いつもトイレ掃除を始めるよね。」

「ああ、うん。そうだね。」

「なんで、私が読書を始めると、掃除を始めるの?」

 彼は、椅子にもたれ掛け、足を組みながらストローでアイスコーヒーを飲んだ。

「僕が中学生のとき、担任の先生が教えてくれたんだよ。」

 彼は、一口飲み終わった後のコップをくるくると回した。カランカラン、と氷の涼しい音が響く。

「水回りの掃除をすると、悪いものが流れていくんだって。だから、高校受験の時に毎日トイレ掃除とお風呂掃除をしてさ。受験当日の朝もね。そうしたら、ケアレスミスすることなく、自分の全力を出し切って第一志望の高校に受かったんだ。これ、すごい効果があるんだな、って思ってさ。」

「それと私が本を読むことと何の関係があるのよ。」

 私も、アイスカフェラテを一口飲む。コーヒーの苦みがミルクのまろやかさと甘さで中和されている。

トイレ掃除の副次的、非科学的効果については理解ができた。だがしかし、それと私の行動とが結びつかない。

 ああ、それね、と言いながら、彼はもう一口アイスコーヒーを口に含んだ。

「だって、君はいつも決まって、嫌なことがあって落ち込むと、本を読むだろう?特にファンタジーものを。僕は、君の嫌なものを落としてやりたくてさ。でも、僕にはそんな不思議な力はないから、君の肩に乗った見えない何かを振り落としてやることができない。だから、これはトイレ掃除の効果を信じて、悪いものを水に流してもらうしかないと思ったんだ。」

 私にはもう、脱力する筋肉も残っていない。気が抜けて、骨まで溶けてしまいそうだ。

 彼の考えには、本当にいつも驚かされてばかりだ。普通の人なら、繋げないであろう所を繋げて考え、行動してしまう。そんな彼に、感嘆する。

 彼は、どこまでも広くて、深くて、温かい。もう、本当に。彼には、かなわない。

 だから、今日は、もういいや、と思ってしまったのだ。

カフェの外を見ると、シッピングモールに着いて時よりも日が高くなり、気温も高いせいか、日陰に残っていた水たまりも小さくなっていた。

せっかくの、いい天気なのだから。とてもとても、いい天気で、彼といるのも心地よくて。だから今は、この心地のいい時間を穏やかに過ごそう。

朝起きた時には、彼に、ちゃんと話そうと思っていた。でも、彼にきちんと話すのは、また今度にしよう。

「何、笑っているの?」

「別に。」

 一度、彼のほうに視線を戻して、もう一度、外を見る。雲一つない、すっきりとした青空だった。

「今日は天気がいいなあ、と思って。」

 私は、ふふっと笑いながら、残りのカフェラテを飲み干した。

 

カフェを出てから、ショッピングモールをもう一周回った。

 一度は見たはずなのに、今見ると、色合いや素材感がはっきりと感じられる。

 いくつか店舗の中に入って、実際に商品を手に取ってみたりもした。

 もう帰ろうか、というタイミングで、彼がある店舗の前で急に足を止めた。

 そこは、子供用のおもちゃが売っているお店だった。ショーウィンドウには年齢幅も様々なおもちゃが展示されている。彼は、ショウウィンドウではなく、店の中の商品が気になっているようだった。彼の視線の先を追ってみる。

「おままごとセット?」

 それは、木製のおままごとセットだった。丸みを帯びたデザインのそれは、フライパンやなべなどの調理器具もペンキなどで一切塗っておらず、木目があらわになっていた。逆にそれをいい味を出していた。

「小さいころ、うちにあったものと似ているなと思って。」

 彼の小さい頃の話を聞くのは、初めてだった。

「父親が料理が好きでさ。本物の包丁やフライパンは使わせてもらえなかったんだけど、おままごとセットで父親と一緒に料理を作るふりをしていたんだ。」

 懐かしいな。 彼は、寂しそうに、ぽつり、とつぶやいた。

 私は、彼の寂しさの奥にあるものに思いを馳せた。

 しばらく、私たちはその店舗の前で立ち止まっていた。ぴゅう、と風が吹いて、髪をなびかせる。首に当たる風が冷たい。

「もう、帰ろう。」

 私は、彼の右手の人差し指に触れた。

「そうだね。」

 そしてそのまま、私たちは駐車場へ向かった。

 彼の寂しさが、温まりますように。そう、願いながら。


 家に帰って夕飯を食べると、今日も今日で、彼はそそくさと寝室に向かってしまった。

 私は、一人、リビングで過ごすことにした。

テーブルの上に置きっぱなしにしてあるジグソーパズルの、その中心に空いた穴の部分にアロマキャンドルを立てた。そして、マッチで火をつけた。

最初は弱く、小さかった赤い揺らめきが、段々と大きくなっていく。そして、ちょっとの風では消えないくらいの大きさになり、しっかりと、燃えている。私が動くことで起こる小さな風で多少揺れてしまうが、すぐに元の形に戻り、芯を燃やし続けている。

私は、その炎の揺らめきをじっと見つめていた。

 今の、このキャンドルの炎のように落ち着いた気持ちで、感情の整理をしたかったのだ。

 私が彼に対して感じるこの気持ちは、恋なのだろうか、愛なのだろうか。

 それとも、愛とも恋とも違う、また別な何かなのだろうか。

 この感情は、長く一緒にいるから、冷めてきて今に至っている、というわけでは決してない。

 彼と出会った当初から、私の中に存在し、そして、今も形を変えずに残っている。

 私と彼との関係性を、「冷めている」と言われたこともあった。

ほとんど手も握らず、お互いに触れあうこともないから。

でも、それが、寂しいと思ったことはない。私にとって、そばにいるだけで十分で、それ以上を求めていないから。私は、彼と一緒にいて、心から安心できて、もう、それだけで、それだけで。

 だから、今日の日中にショッピングモールで出会った女性からの返事に、私は非常に困ってしまった。

 彼が、トイレに行くというので、私はトイレの近くの店で商品を見ながら待っていたのだ。

 すると、

「素敵な旦那さんね」

見知らぬ女性に話しかけられた。年齢は、六十代くらいだろうか。素敵なマダム、といった風貌だった。

私は、昔から、知らない人に話しかけられる嫌いがあった。理由は、分からない。

彼女との呼びかけから察するに、私たちがトイレによる少し前から、私たちのことを見ていたのだろう。

私たちくらいの年齢の男女が隣り合って歩いている、というのが気になる人は気になってしまう、という人の特性を私は認識しており、それを理解したうえで彼と二人で出かけていたので、そこまで彼女の呼びかけをそこまで不快には思わなかった。

だがしかし、返答には困ってしまった。

「あ、いや……結婚は、していなくて……」

あぁ、そうですね、と適当に誤魔化せばいいものを、私は、人には誠実にならなければいけないという妙な正義感から、正直に話してしまった。

「あら?そうなの?」

女性は、意外そうな顔をした。ごめんなさいね、お二人が素敵だったから、と言って、彼女が立ち去ることを私は期待したのだが、そうはならなかった。

「プロポーズ待ちってことかしら?」

女性は、ニコニコしながら、話を続けた。

「あ、えっと……」

どう、返答しようか。答えに困ってしまった。

彼女に、悪気はない。だが、悪気がないからこそ、私は困惑し、そして、少しの不快感を覚えた。

彼女はただ、「女性は男性からプロポーズされて結婚するもの。そしてそれは、すべての女性が喜ばしいものと思うもの」と思っているだけだ。


「結婚」というものをする予定はないが、ただ、これからも一緒にいたい、という話をしている。

 

 今の私たちの状況を説明したところで、彼女は瞬時に理解できるのだろうか?私の考えを受け入れられるのだろうか?

 きっと、無理だろう。

どんなに言葉を並べても、どんなに優しい言葉を使っても、こればかりは、きっと伝わらない。

だから、ごまかそうにも上手にごまかせない私は、今この状況をどう打開すべきか困ってしまって、えー、やうーん、を繰り返していた。

 結局、彼がトイレから出てきて、

「え?僕が素敵な旦那さん?いやー、ちょっと照れるなあ。」

「プロポーズ?や、ちょっと彼女の前でそういう話はしにくいですねえ。」

「いやあ、見知らぬご婦人に声を掛けていただけるなんて光栄です。これからも僕たち二人、仲良くしていこうと思います。ありがとうございます。」

 と言って、三十秒もかからずに、ご婦人とさよならばいばいしてしまった。

 相変わらず、彼の愛想のよさというか手際の良さには驚かされる。

どうして、女性は結婚することが当たり前で、プロポーズされることが嬉しい、とされているのだろうか。

なぜだか知らないが、世の中では、こういう関係になったら、将来はこうするもの、と決まっている。

私たちは、自分で欲しがってもいないのに、目の前に勝手にレールが敷かれ、その上を歩かされる。

十代の女の子はみんな男の子に恋をする「もの」、そして、恋をした相手と無事付き合えたら、こういう事をする「もの」。

二十代の女性は男性に恋をしてお付き合いをしたら結婚をする「もの」。そして、子供を産む「もの」。

一昔前に生まれていたら、私は窒息して生きてはいなかったかもしれない。「そういう事」をするために生まれたわけではないのに、本当は自分の意思があるのに、操り人形のふりをして生き続けるなんてこと、私には到底できない。

でも今は、少しだけ、価値観の幅が広がった。

LGBTQ。レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー、バイセクシュアル、クエスチョニング。

世の中には、異性愛だけではなく、性自認も多様であるという考えが広まった。

でも、世の中にある多様性はLGBTQだけではない、ということを、彼がおすすめしてくれた本から知った。

「君の世界が広がるよ。」

 そう。彼の言う通り、私の世界は広がって、前よりもほんのちょっとだけ、息がしやすくなった。

 やっぱり、彼は、すごい。うまいこと私を誘導して、私が私の世界を、生きやすく変えられるようにしてしまった。

Aセクシュアル、デミロマンス。

彼がおすすめしてくれた本は、そんな、異性愛の多様性をテーマにしたものだった。

みんなが憧れるようなキラキラしたものに心が踊らない私は、欠陥品のような気がしていた。

恋愛は、こうするもの。何をするもの。そんな正解が、理解できない私は、周りから置いてけぼりにされてしまっているようで、自分が悲しくて、寂しかった。

だから、彼がおすすめしてくれた本を読んで、そんな新しい価値観を知って、私は、この世界にも私の居場所はある、と安心したのだ。

だから、私は調べた。知りたかったから。

それらが一体どんな定義で、それらの定義に当てはまるのはどんな人たちなのか。

本当にそれは、私を表すもので、私に居心地の良さを与えてくれるものなのか、知りたかった。

でも、調べれば調べるほど、違和感が湧いて出てきた。

この部分は当てはまるけれど、この部分は違う気がする。

世の中には、私自身と私と彼の関係性を的確に言い表す言葉がないように思えてきた。調べていくうちに、どんどん窮屈な気持ちにもなってきた。

と、ここまで考えて、私は気づいてしまった。

私は、どこかの箱に収まりたいわけではないのだ、と。

きちんと名前があるところにカテゴライズされたいわけではないのだと。

確かに、居場所がある、という安心感は得られる。しかし、どう頑張っても、今この世にある新しい価値観から生まれた新しい言葉を用いて表そうとしても、違うものになってしまうのだ。

それは私が欲しているものとは違うものなのに、わざわざ苦しい思いをすると分かってまでそこに所属したいとは思わない。

どうして、人は、その関係性に名前を付けたがるのだろうか。

その人自身を、カテゴライズしたがるのだろうか。

ついさっきまで、私は今まで存在していなかった名前があることに、今度は真逆のことを考え始めてしまった。

無理に名前を付けたくない。ありのままで、そっと大切にしまい込んでおきたい。

 私たちのことを何も知らないどこかの誰かに、私たちのことを知った風な顔して、偉そうに決めつけられたくない。

私が彼のことを大切に思っているのは、本当のことだ(うまく大切にできているかは分からないが……)。だから、マジョリティの価値観で勝手に否定されたくない。かといってマイノリティに理解のあるふりをした気持ちの悪い優しさで肯定されたくもない。

 自分は、なんてわがままなんだろう。自分を定義するものを欲しがって、でもちょっとでも違うと思ったらやっぱりこれじゃないやと切り捨てて。

今の私は、彼との気持ちを、誰かに測られたくはないし、勝手に名前を付けられたくもなかった。

ありのままの形と温かさで、私の中でそっと、誰にも見られないように、抱えて隠していたい。

もし、見つかってしまったとしても、型にはめ込まないで、名前なんて付けないで、ありのままを、受け入れてほしい。

そんな、身勝手な願い。

私は彼を大切にしようとしてもうまくできないくせに、私と彼の関係性を勝手に近いようなところに分類して、勝手にそれっぽいような名前を付けないでと願ってしまう。

たとえ私たちが持つその形が、他人から見て、どんなに歪でゆがんでいたとしても。

どうか、どうか。

どうか、どうか。

彼と私が、世界のどこかで、無理に形を変えられるなんてことされずに、深く息をしてありのままの形で存在できますように。

そんな、小さくて静かな願いが、叶いますように。

そう思いながら、私は静かに揺らめく蝋燭の炎を消した。


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