第三の目
次の日、朝起きると、すっかり熱は下がっていて、前よりも体が軽くなった気がした。寝室の窓からは、さわやかな青空が覗いていた。
「あ、おはよう」
いつものように朝、起きて、着替えて、顔を洗って、食卓に座る。食卓には、キャベツの千切りとスクランブルエッグとベーコンとカフェラテ。いつもと同じ朝ごはん。
「うん、おはよう。昨日はありがとう。おかげで熱は下がったよ。」
袖を肘まで捲られた彼の腕を見ると、あの植物たちは綺麗さっぱり消えていた。つるんとした肌に男性にしては薄い体毛が生えている。
昨日の薬はいったいどこで手に入れた薬だったのだろうか。彼の腕に生えていた植物と、何か関係はあるのだろうか。朝起きて、食卓に座る前にリビングの棚に置いてある薬箱の中を確認したが、やはり、昨日のものとと同じような薬は見当たらなかった。
熱も下がり、正常な思考が戻ってきたところで、もう一度、その疑問点について考える。私の実家では、胃腸の調子が悪くなった時に飲む漢方薬があった。近くのドラッグストアには売っていないもので、わざわざ製造元に問い合わせて買っていた。もしかしたら、彼の家族でよく使っていた常備薬とかなのかもしれない。もしくは、彼の家に代々伝わる秘薬、とか。もしかしたら、私は昨日の熱がまだ残っているのかもしれない。可笑しな発想をしてしまった。
太陽に雲がかかったのだろうか。リビングの窓から差し込む光が弱くなった。
そこで、私はふと、そういえば、彼の家族についてほとんど何も聞いたことがないことに気が付いた。母親と父親がいるのは分かってはいるが、生きているのかも、両親が離別しているのかも、聞いたことがなかった。かろうじて、一人っ子であることは聞いていた。私自身も、家族についてあまり話したがらない方だからなのかもしれない。私があまり話さないから、彼も話さないのだろうか。
いつか、私たちがその話題について触れる日は来るのだろうか。
その話題について触れるということは、つまり、私が彼に一番話したくないことを、私の汚れている感情を彼にさらけ出す、ということだ。信頼関係は、あるはずなのに。今までは、その感情は新しい思い出たちに上塗りされて、うまく忘れてきていたのに。汚れた感情を隠すことに、罪悪感を抱いている自分がいる。そんな自分が、悲しい。
「消えたね、その、腕の植物。」
「そうだね。ちょっと残念だけど。」
「え?そうなの?」
「うん。だって、君に新鮮なマイナスイオンをあげられないでしょ。」
彼はまだ、そんなことを言っている。でも、そんな相変わらず意味不明でマイペースな彼の調子に、少しだけ、心が軽くなる。
「もう、今回は特に何も起きなかったからいいものの、次また腕になにか生えてきたら、今度こそ病院に連れて行くからね。」
「はいはい。」
彼は私の話を半分に、キャベツの千切りを口いっぱいにを頬張った。
これ以上、ネガティブなことを考え続けていても、この調子の彼に何を言っても仕方がないので、私も朝ごはんを食べ始めた。
私達は基本的に朝ごはんのときはあまり話さない。カチャカチャと食器同士がぶつかる音と咀嚼音だけが聞こえる。いつもと全く変わらない、朝ご飯の風景。
しばらくの沈黙が流れる。雲が風で流されたのだろうか。爽やかな日差しがもどり、部屋を明るくした。
「そういえば、昨日の薬ってどこから持ってきたやつだったの?」
空っぽだったお腹が、おいしいご飯で満たされていき、心も温かいもので満たされてゆく。私の気分も上昇してきて、穏やかな心持ちで彼と会話ができそうになったので、昨日からの疑問を彼に尋ねてみた。
「あぁ、あれね。」
彼は朝ごはんを一通り食べ終えて、カフェラテをゆっくり飲み始めた。私も彼と同じスピードでご飯を食べるので、ほぼ同じタイミングでカフェラテを飲み始める。
「僕の腕に生えていた植物をすり潰したんだ。よく効いたでしょ?」
私は思わず、カフェラテでむせてしまった。またごまかすのかと思いきや、あっさりと彼が答えたので、驚いてしまった。
「え?やっぱりそうだったの?え、でも、なんで?どうして?」
私の矢継ぎ早な質問に対し、彼はうーん、としばらく考え込んでから、言った。
「なんか、効きそうだったから。」
彼は残りのカフェラテをゆっくり飲み干し、涼しい顔で、ごちそうさま、と言って食器をキッチンへ下げに行ってしまった。
私の気管にはまだ微妙にカフェラテが残っている。
私たちの間には、天地がひっくり返ろうともひっくり返らない真実がある。そう、彼は私に嫌がらせはしない。絶対にしない。
でも、それとは関係なく、やっぱり、彼はめちゃくちゃだ、と思った。
腕の植物は消えたものの、やはり、体のかゆみは完全には消えていないようだった。
皮膚科の薬は底が尽きてしまったので、ドラッグストアで保湿クリームとかゆみ止めの塗薬を大量に購入し、それで対応することにした。
毎日、お風呂上がりの彼の背中に薬をつけることが、私の日課になってしまった。
「まだ痒い?」
「まぁ、そうだね」
「もう一度、病院に行こうか?」
「いや、それはいい。」
彼のお腹や背中には治りかけの引っかき傷がいくつもある。
体に明らかな変化が現れて以来、彼は病院に行くことを強く拒むようになった。だから、体のかゆみに対しては、病院処方の薬と似たような効果を持つ一般用医薬品で対応することにしたのだ。
腕に植物が生えた時は、そこまで気落ちしているようには見えなかったが、実際は、少し落ち込んでいるようだった。
観葉植物の葉にいつまでも水をあげているし、掃除をするといつまでも同じ場所を拭いているし、しまいには、一気にキャベツを三玉も千切りにしてしまった。ロックンロール・クリーニングも、今の彼には効果が無いようだった。
私は、観葉植物の葉の余計な水分をふき取り、彼が拭いていない床をサクッと拭いて、大量のお好み焼きと餃子とキャベツのカツを作った。
そして、私はいつもよりも丁寧にトイレ掃除をするように心がけた。
悪いものが流れますように、悪いものが流れますように。
そう願いながら、便器をごしごし磨いた。トイレ掃除をしているときだけは、ロックは聞かなかった。聞いてしまったら、気持ちが散漫に流れてしまう様な気がしたから。
彼のそんな失敗をカバーしつつ、トイレ掃除を懸命にやりつつも、私たちの日々は続いていく。
毎日同じ時間に起きて、おはようと言い、彼が作った朝食を食べ、私が片づけをして、それぞれの仕事をこなし、昼食を作り、一緒に食べ、そしてまたそれぞれのことをして、夕食を作り、一緒に食べて、お風呂に入って、おやすみと言って布団に入る。
その繰り返しだ。変化があるようで、変化のない生活。
一見、何も起こっていないようで、穏やかに見える日常が、私は不安だった。水面は静かに凪いでいるけれど、水中では何か大きいものがうごめいているような。そんな嫌な予感が、胸にうずく。
確かに、彼の体に起きた変化は、命に別条はないかも知れない。でも、早めに原因を見つけて治療しなければ手遅れになることもあるかもしれない。
だから、病院に行こう、と言うのだけれど、そのたびに断られた。
「本当に、大丈夫だから。」
彼は、決してきつい言い方はしない。やんわりと、しかし、断固とした意志を持って、拒絶の意思を示す。
一見、入りやすそうに見える彼の心のドア。ぬくもりのある木でできたそのドアをノックしようとすると、優しい花々が、ぱあっと咲いて、あっという間に彼のドアを覆ってしまい、入れなくなってしまう。
優しく心を閉ざされてしまうからこそ、私は、悲しかった。
その心に触れたいのに、そっとその手を払われる。もっと強く言ってやりたいが、けれども、私も私で、心の奥隅に隠していることがあるのでそう強くは言えない。その隠していることが、私に後ろめたさを植え付けて、彼の心の深く触れることを躊躇させるのだ。
私は、たまに、自分が分からなくなる。
私は、自分の隠しているものに気づかれないように、「大切な人に懸命に寄り添う人」を演じているだけなのか。それとも、純粋に彼のためなのか。もし、前者なら私は最低な人間だ。自分がそうであってほしくはない。でも、後者である自信も全くない。
自分の手は、汚れているんじゃないか。そんな手で、痛いほど綺麗な心で私を想ってくれる彼の手を、掴んではいけないのではないだろうか。
そんな迷いが、彼に対しての申し訳なさを生んでしまい、結局、最後の一歩を踏み出せない。
「じゃ、おやすみ。先に寝るね。」
私が薬を塗り終わると、彼はいそいそとパジャマを着て、おでこをポリポリと引っ掻きながら、寝室へと消えてしまった。
彼に触れようと手を伸ばした私の手は、今日もまた、虚しく宙にぷらんと浮いたままだった。
「うわあぁぁ!」
まだ、私がいつも起きている時間より一時間早い時間帯に、我が家の狭いアパートに絶叫が響き渡った。
どうやら洗面所から聞こえてきたようだった。
しかし、これには絶望というよりも歓喜の色も混じっているようだった。
「ねぇ!ねぇ、ねぇ、ねぇ!」
彼はドタドタと音を立てて寝室に舞い戻り、まだ寝ていた私を叩き起こした。
「見て、見てほしいんだ!これを見て!」
「何?」
そう言いつつも、私は見るつもりなんて毛頭なかった。私はまだ眠いのだ。自分の顔を枕に押し付ける。
「ねぇ、見て、見てってば!」
「もう何、何なのよ。」
彼は、しつこいときは本当にしつこい。面倒なのでとりあえず、枕から顔を上げ、彼の方へ向き直り、彼の顔を見た瞬間、眠気が一気に吹き飛んだ。
彼はわくわくした顔でこう言った。
「見て!目が、開いたんだ!」
何と、彼のおでこに第三の目が開眼していたのだ。
「やめてよ、あんな起こし方。」
「いや、ごめん。でも、嬉しくて、つい。」
今朝は二人で朝食を作っている。私がフライパンで目玉焼きとベーコンを焼き、彼がお皿に千切りキャベツを載せてカフェラテを作る。
彼は目玉焼きが苦手だ。いつもはそんな嫌がらせはしないけれど、私の貴重な睡眠時間を削った彼の罪は、重い。今日は特別に、黄身がとろとろの目玉焼きを二個作ってやった。今までで一番の出来栄えだ。
「いただきます。」
「いただきます。」
彼は、お皿に載ったきれいな目玉焼きを見て一瞬、顔をしかめたものの、塩とこしょうを多めにかけて食べ始めた。
最近、なんとなく元気がない気がしたけれど、今日の彼は普段の数倍はテンションが高い。第三の目が開眼したことの何がそんなに嬉しいのか、私には理解ができない。けれど、理由がどうであれ、彼が楽しそうにしていることは私を安心させた。
食器同士がぶつかる音と咀嚼音だけが聞こえる。彼は、苦手な目玉焼きも黙々と食べ進めている。苦手なメニューがあるはずなのに、いつもよりも美味しそうに食べている。
「何?」
「いや、やけに嬉しそうだなと思って。」
どうやら、彼の方をじっと見つめてしまっていたらしい。少し恥ずかしくて、目玉焼きを口にかき込んだ。
「そりゃ、嬉しいよ。だって、第三の目だよ?かっこいいだろ。僕は、すべての特殊能力の中で第三の目が一番かっこよくて、一番好きだね。」
「ふーん。特殊能力、ね。」
彼の思考は、とても子供じみている。小学生レベルだ。
私だって、小さなころは魔法を使って、箒にまたがって空を飛ぶことに憧れた。でも、大人になるにつれて、それは不可能なことなのだと理解していく。そして、そんな実現不可能なことに強い憧れを抱いて、いつか自分も、と望むことは恥ずかしいことなのだと、理解していく。
それが、大人になるということなのだ。
小さい頃は夢を見ることが「良いこと」、とされていた。だから、大人たちはたくさん聞いてきた。「何をしたいの?」「何になりたいの?」そのたびに、私は、空想にまみれた願望を口にした。「魔法を使いたい」「空を飛びたい」その願望を口にするたび、私の心の部屋は色鮮やかに、きらきらと輝いて、楽しい音楽で満ち溢れていた。周りの大人たちは、それをニコニコしながら聞いてくれた。
けれど、大人になると夢よりも現実を見ることが「良いこと」、とされていく。私の空想にまみれた願望は、「何を馬鹿なことを言っているんだ」という大人たちの鋭く冷たいまなざしによって粉々に破かれていく。それは、みんなが通る「当たり前」ことで、だから、もれなく私も通らなくてはいけない。そうやって、私たちは、現実の中でしか生きることを許されなくなっていくのだ。
私たちは「良い大人」になることを急かされている。夢と現実の分別をつけ、現実を優先した道を選ぶように。それが「大人びている」とされ、「大人びている」ことは「良いこと」とされる。
でも、「良い大人」になってしまうことは、きっと寂しい。
「良い大人」になることは「良いこと」だけど、「良い大人」になって見渡す世界は、楽しいだろうか。ワクワクするだろうか。その世界は、眼が眩むほどの鮮やかさと、踊りだしたくなるような楽しい音楽は存在するのだろうか。
私は、この年になってそんなことを恥ずかしげもなく言ってのけてしまう彼が、嫌いではない。むしろ羨ましさや憧れを感じてしまう。それがたとえ「良い大人」にならなければいけない自分にとって、本来は持つべきではない「悪いこと」とされているものでも、まだ何にも染まっていない、少年のような純粋無垢な心をもって、自分の好きなものをはっきりとした口調で、「好き」と言える彼は、眩しくて、そしてとても強いんだな、と思う。
だから私は、彼の話を否定することはせず、一緒になってその特殊能力について考えたくなるのだ。
「それじゃ、あなたのその第三の目にも何か能力が宿っているってこと?」
「その可能性は、ゼロではないよね。むしろ、十分にあり得るし、僕は絶対にそうであってほしい。」
「じゃあ、あなたはどういう能力が宿っていると思うの?」
「そうだね……やっぱり、相手にビームを発射したり、相手に幻術を見せたり、相手の動作を早く見切ってコピーできたり、とかかな。」
彼は、箸を持った右手を顎に当て、とても真剣な顔をしてそう言った。
何が「やっぱり」なのかさっぱりわからない。そして、どうして、誰かと戦う前提になっているのかも分からない。
彼のそんなところは嫌いではないが、やはり、少々あきれてしまう。しかし、半分あきれつつも、もう半分は彼とのそのノリを楽しむ自分がいる。
「第三の目から流れ落ちた涙に治癒能力があるとか。」
半分冗談、半分本気でそう言ってみた。
彼の腕に生えた植物は、不本意ではあるが私の風邪を治してしまった。だから、何か能力があるとしたら治癒能力である可能性も十分考えられる。
「そうだねぇ。でも、残念ながら、僕は泣かないから、それはないだろうね。」
私は、むっとしてしまった。自分の意見は意気揚々と語るくせに、他人の意見はバッサリと切るなんて、失礼じゃないか。聞かれてもいないのに勝手に話し出したりしたのは私なのだが……。
でも、確かに、彼はあまり泣かない。というか、全然泣かない。彼が泣いたところを、私は見たことがない。全米が泣いた、あなたもきっと涙する、などのキャッチコピーの映画を見ても、彼のドライアイの瞳はいつだってからっからに乾いていた。
「病院には、行かないんでしょ?」
ダメ元で聞いてみる。異常があるなら、きちんと見てもらったほうがいい。でも、彼がノーと言うのは分かっている。分かってはいるが、私は私の不安を払拭したいがために、彼に尋ねた。彼が病院に行かないと答えるのは分かっているし、病院に行ったところで、こんな明らかな異常が「これは何々という病気で……」と病気が特定されるわけでもなく、薬で治療されないことは医療の知識がない私にも分かっている。でも、聞いてしまう。尋ねてしまう。この質問は、彼のためではなく、私のための質問だ。そんな自分に、落胆する。もういい年をした大人なのに。自分の不安くらい、自分で処理できるようにならなくてはいけないのに。それができない自分が、少し悲しい。
「うん。そうだね。だから、また検査をしなくちゃ。」
予想していた通り、拒否の返事だった。私の不安は、やはり消えない。でも、彼が自分の身に起こっている異常に落胆していないことが唯一の救いなのかもしれない。
彼はカフェラテを飲みきり、苦手な目玉焼きも綺麗に平らげて、食器をキッチンへ下げに行った。
「まずは、視力検査からだ。」
「色覚検査もしなくちゃ。」
彼は次々と私に検査の指示をする。そのたびに私はスマホで「自宅 視力検査」と検索し、検査の仕方を調べて、彼に試した。
「うん、視力は両目と同じくらいだね。透視ができるわけでもなさそうだ。」
「うん、特別、色の見え方が変わるわけでもないみたいだ。」
自宅でできる検査方法のため、一つ一つのやり方は簡便で、時間もさほどかからない。一つの検査が終わるたび、彼は端的に結論付けた。
「うん、今回も問題な……」
「見た目は、どうかしら?」
彼が最終的な結論を出す前に、私は急いで制止した。
「あなたが、第三の目が生えたことに喜んでいるのは分かるわ。でも、簡単な検査だけで最終的な判断を下すことは考えが浅いと思うの。問題ないと結論づけるに足る根拠だったのか、検査の妥当性を考慮しなくてはいけないわ。病院に行かないのなら、尚更ね。」
私のわざと小難しい言葉を使った説明に、彼は閉口してしまったようだ。
私だって、私が追加の検査をしたところで根本的な解決につながるとは思っていない。
これは、自己満足だ。
ただ、自分の不安を取り除きたいだけ。でも、それだけではない。隠してはいるものの、人として、最低な気持ちも存在してしまっている。だから、そんな気持ちを別なもので上書きして無かったことにしたくて、いつもより過剰な行動に出てしまう。
窓の外を見ると、今にも雨が降りそうな曇り空だった。ここ数日は晴れていて、天気も良かったのに。空気を切り裂くような風も吹いている。
こんな日は、何もなくても心が不安定になってしまう。
心の部屋の中で、「いつもなら、しっかりと固めて形を保っているもの」が、形を保持できずに、ドロドロに崩れてしまう。
揺らぎそうになる自分を、すうっと息を吸って、ぐっとお腹に力を込めて、気合を入れる。崩れない。私は大丈夫。そう、自分に言い聞かせる。
「仕方ないなあ……。大丈夫だと思うんだけどなあ……。」
彼は、文句は言っているが、了承してくれた。私のざわついた気持ちが凪いでいく。
第三の目の見た目を確認するに当たって、私と彼には身長差があるので、彼に椅子に座ってもらって確認することにした。
ひとまず、眼球を上下左右に動かしてもらう。第三の目は、顔の中央に付いている二つの目と同調した動きをする。第三の目だけ独立した動きをするわけではなさそうだ。
改めて、じっくりと第三の目を観察する。長いまつ毛。パッチリとした二重。光の加減で黒目の部分が緑がかっているようにも見える。
彼の第三の目に、私のくっきりとした黒い瞳が小さく映り込む。その瞳は、先ほど気合を入れたにもかかわらず、不安げに揺らいでいるように見えた。
どうしよう。言い出したはいいが、明らかに異常なのに、これといった異常が見当たらない。また、自分に自信がなくなってしまう。
今の私は、役者なのか、それとも私本人なのか。
彼のことが心配だという気持ちに嘘はない、と思う。嘘はないと思うのだけれど、私の薄汚れた感情が邪魔をして、それ以上のことができない。私は、私の本心が分からない。自分のことなのに。もしかしたら私は、自分のやましい部分を無かったことにするために、世間一般の人が理想とする「良い人」になろうとしていて、無自覚に「良い人」を演じて、彼の看病にいそしんでいるだけなのかもしれない。
彼のために、何かをしてあげたいという気持ちがあるが、何かこれ以上しようとすれば、その行動が自分でもわざとらしく感じてしまう。それはそれで「私は役者だ」と認めてしまう気もする。
私は、この後どうするべきなのだろうか。役者にはなりたくないけれども、本人にもなりきれない。
揺らいでしまう。しっかりと固めておいたはずなのに。私は、本当はどう思っているのだろうか。揺らいで、ドロドロに崩れて、分からなくなってしまう。認識できるものとして、はっきりとした形が、そこにあったはずなのに。
自分に迷い、何もできず、何も言えずに黙っていると、彼が、静かに言った。
「君は、嫌がらないんだね。」
「え?」
唐突な、静かだが少し暗い声色の彼の言葉に、驚いてしまった。
一瞬よりも少し長い時間、部屋から、音が消えた。
いや、たぶん、実際に消えたわけではなく、私が聞こえなくなっただけ。
「私が、何を嫌がるの?」
第三の目が、静かに、私を見つめる。私が一体、いつ、何を嫌う素振りを見せたのだろうか。
数秒の沈黙ののち、一度、深く深呼吸をして、彼はゆっくり言った。
「僕を。」
彼の瞳に映る私の瞳が、大きく揺らいだ。
どうして。
どうして、そんな悲しいことを言うのだろうか。そんな寂しいことを言うのだろうか。
彼にそう言われるような、思い当たる節はない。
一瞬、彼に突き離されたような気がしてしまった。
彼の瞳は、一切、揺れない。けれど、その瞳は、何か、触れたら壊れてしまいそうな感情を湛えていた。いつものように柔らかく、しかし、どこか影のある声。
彼の普段とは違う眼差しと声の調子に、胸が、ざわざわする。
「……私が、あなたを嫌がる理由が、分からないわ。」
心の声に耳を澄ます。そして、一つ一つ、慎重に、言葉を選ぶ。
彼が私を嫌う理由はあれど、私が彼を嫌う理由などあるはずもないのに。
何か間違えた言葉を選んでしまえば、彼が、永遠に手の届かない、どこか遠くの場所へ行ってしまう気がしたから。
彼が私の前でガラガラと音を立てて崩れてしまうんじゃないか。そんな気さえもしてしまう。
普段とは違う彼の様子に、心に嫌な風が吹く。
私の黒い瞳と彼の緑がかった瞳の視線が交差する。私と彼を繋ぐ、細い、一本の糸。その糸が、靄を纏いながら、ピンと張り詰める。これ以上は、糸が切れてしまう。そう思った時、彼が、ふっ、と笑った。
そしてその笑みに、なぜか泣きそうになる。
どうして彼が笑うのか、どうして私は泣きそうになっているのか、分からなくて、固まっていると、彼はまた笑った。さっきの笑みとは違って、一見、寂しそうなのに、どこか楽しそうに。
「君には、僕に対する安い同情や哀れみも、ない。」
「そんなの、当たり前じゃない。あなたはあなたでしょ。腕に植物が生えようと、眼が開こうと、それは変わらないことでしょう。」
「そうだね。」
また一瞬、彼は、悲しそうに笑った。
すると、彼は、ふうっ、と短く息を吐いて、言った。
「君は、当たり前のように、僕を受け入れるね。」
「……それは……どうかしら……。」
彼の言葉に、ピリッと胸が傷んだ。
私が、彼を、受け入れている。
何のやましい気持ちもなく受け入れているわけではないと自分で分かっているからこそ、彼の言葉を素直に受け入れられない。私は彼を、ある意味では自分の良くのために利用しようとしているのだから。
痛い。太い針で刺されたかのように、心が、痛い。彼が思うような私ではあれないことが、刺すような痛みを生む。しっかりと固めて形を保っているところに、ぶすりと針が刺され、そこからドロッとした赤い液体が流れ出る。
そして、黒いガスが湧いてきて、心の部屋が汚れていく。
あぁ、嫌だ。
彼が私を褒めるたびに、私はどんどん傷ついて、汚れていく。
耐えきれず、私が先に視線を逸らした。すると、トン、と彼の右手の人差し指と中指が、私の額を軽く叩いた。
「……いきなり、何をするのよ。」
「いや、ちょっとね。眉間にシワが寄っていたものだから。伸ばしてあげようと思って。」
からかう様な口調でそう言った。そして、彼は閉じていた人差し指と中指を広げて、私の額に深く刻まれているのであろうシワを伸ばしていく。
「君は、本当に不器用で、鈍感だな。」
困った、困った。そう言いながら、彼はそのまま人差し指で、私の眉間をグリグリと押してくる。
「ちょっと、やめてよ。痛いじゃない。」
「うーん?そうだねぇ。」
そう言いながら、彼はやめるつもりはなさそうだった。
私は顔を逸して、彼を睨みつける。本当に、彼の思考回路や行動には付いていけない。急に真面目になったり、急にふざけたり。
もう一睨みしてやると、おやおや。ちょっと、やりすぎちゃったかな、と言いながら、彼は首をすくめた。
「まぁ、そんな君だから、僕は一緒にいたいと思うんだけれども。」
彼は、からりと笑った。
心の部屋に、カラカラっと、大小様々なビーズが金属製の缶の中を転がっているような楽しい音が響き、これもまた、あっさりと、黒いガスは引いてしまった。
私は、彼に何も言い返せなくなってしまった。こんなにも単純な自分が、恥ずかしくなる。
彼は、大概ふざけたことしか言わないくせに、たまに、ものすごく正直に自分の気持ちを言うときがある。ストレートで、シンプルなその単語で構成されたその言葉は、どんなに着飾ったおしゃれな言葉よりも、強い。
だから、悔しいが、彼のそういう一面はずるいと思ってしまう。
「それじゃ、もう、大丈夫ってことだよね。」
私が何も言わないことをいいことに、彼はさっさと椅子から立ち上がろうとした。
外では、一旦風が弱まり、雨がぽつぽつと降り始めた。それはやがて、大粒の滴となり、ベランダや窓に当たって、ぴちょん、ぴちょんと、音を立ててはじけた。そしてあっという間に、バケツをひっくり返したかのような雨になり、窓ガラス一面が滝のようになった。可愛い音ではじけていた雨粒は、ドドドド、という体の底に響くような音に変わり、ひときわ大きな雨粒が、窓に当たって、鈍い音を立てて、はじけた。
その瞬間。
彼は、第三の目を抑えて悶えだした。
彼がバランスを崩し、テーブルに手をついた。そして、その手は、食卓に静置されていたパズルを叩き、そのままピースが床に飛び散った。
私は、彼の片腕を掴んで、体を引き寄せて、机の角に頭を打たないように注意した。
「ねぇ、大丈夫?」
彼の第三の目は相当痛むようで、返事はなく、うめき声ばかり上げている。
立てる?動ける?水とか飲む?
言葉を掛けながら、彼を支えて寝室まで歩き、ベッドに横たわらせた。
「……ありがとう」
彼の息が荒い。
痛み止めと、水と、痛む目は、冷やすのがいいのか、温めるのがいいのかわからない。どちらがいいのかわからないが、清潔なタオルを水で濡らして、電子レンジで加熱して作った即席のホットタオルを彼の第三の目にかけた。
「ねぇ、やっぱり、病院に……。」
声を掛けるが、彼の三つの目は全て固く閉じられていて、呼吸も荒い。返事をするのも苦しそうだった。でも、多分、返事をしたとしても、「行かない」と言うだろう。
私は、ただ、彼を見ていることしかできない。
彼の不規則な呼吸音が寝室を嫌な空気で包み込む。
どうしよう。
どうすればいいのだろう。
何をすればいいのだろう。
今の私は、役者なのだろうか。それとも、本人なのだろうか。その形を確かめようと、「いつもなら形を保っているもの」に触れようとするが、激しく流動的に動いていて、その全容を掴みきれない。
分からない。分からないが、体が先に動いていた。
私は、彼の手を、握っていた。
彼が、私にそうしてくれたように、私も、自分の右手で彼の右手を握っていた。彼の手は、熱かった。燃えるように、熱かった。
「……死なないで。」
様々な思いをのせて、その言葉を口にした。
それは、相手のためであるようで、自分のためでもあるような。
けれど、自分のためであるようで、相手のためでもあるような。
私は、自分の想いが、彼に届いてほしいようで、届いてほしくなかった。
でも、私は、祈った。どこにいるとも知れない神に。
死なないで。
行かないで。
私の彼を奪わないで。
私のことを置いていかないで。
私は、一体、誰に、誰のために何を祈っているのだろうか。
その祈りは、綺麗なのものなのだろうか。それとも、私の欲にまみれて薄汚れているのだろうか。
分からなかった。分からなかったが、私は祈った。ただ、祈った。
雨脚は少しずつ弱まってきていた。地響きのような雨音は、軽くなり、地面や窓に当たってはじけた雨粒は、静謐な音楽を奏でていた。
私は、彼の手を両手で包み込み、固く、固く握った。そして、私は、彼の手を握った両手を自分の額に当てた。彼の指先が、額にこつんと当たる。最初は熱いと感じていた彼の手は、段々と私の額の体温となじんでいった。
魔法が、使えたらいいのに、と思った。
彼が今、苦しみながら何を感じて、何を思っているのか分からない。でも、彼みたいな魔法を、私も使えたらいいのに、と思った。もしかしたら、彼は私が想像するよりも全然苦しんでいなくて、私の魔法なんて、必要としていないのかもしれない。それでも、魔法が使えたらいいのに、その魔法が、繋いだ両手を伝って、彼のもとに届けばいいのに、と思った。そうしたら、彼も、私のように、苦痛が和らぐかもしれないから。
どれくらいの間、そうしていたのだろうか。
ふぅー、と彼が長く息を吐くのが聞こえた。
はっ、と顔を上げる。
薄く目を開いた彼の顔がそこにあった。
「……特殊能力がないって……思っていたけど……そうじゃないみたいだ。」
ベッドに横たわる彼は、まだ少し苦しそうに顔をこちらに向けた。鼻の横の両目は潤んでいたが、第三の目は、乾いて赤く充血していた。その第三の目が、私の目を捉える。その奥に、何か強い意志を感じて、動けない。
「……さっき……第三の目を検査してもらっているときに……」
ふぅー、ともう一度長い息を吐く。
「……見えたんだ……君が、僕に隠していることが……。」
部屋が一段と暗くなる。弱まったと思われた雨風はまた強くなり、外では猛烈な嵐となっていた。風が、鋭く空間を切り裂いている。窓に雨粒が叩きつけられて、その勢いで、窓が割れてしまいそうだった。
彼は、ゆっくりと、息を吐いて、ゆっくりと、言葉を紡いだ。
「……だから、それを、ちゃんと……君の口から、聞きたい……。」
寝室の窓のすぐそばで、空間を撃砕するかのような音を立てて、雷が鳴った。
彼は、容態が落ち着いて、規則正しい寝息を立てながら深い眠りについたので、私は寝室を離れ、リビングに戻っていた。
何も言えなかった。
パズルのピースは、テーブルの下やら植木鉢の中やら、激しく部屋中に散らばっている。
知られてしまった。ずっとずっと、隠していたのに。
胃も、急に冷たくなって、嘔気が込み上げてくる。
心の部屋に、黒く、冷たいガスが充満して、何も見えなくなって、何がなんだか分からなくなりそうになる。
小さい頃、悪いことをして、お母さんに怒られてしまうんじゃないかとびくびくしていたら、ついにばれてしまって、白状しなさい、と言われたような、そんな気分だった。悪いことをしてしまった自分は、お母さんに嫌われてしまうんじゃないか。何でこんなことをしたのか、なんですぐに話さなかったのかと、呆れられ、失望されてしまうんじゃないか。それが怖くて、頑張って自分の中に押し隠していたのだけれど、結局ばれてしまって、話さざるを得ない状況になってしまった。その時の状況と、似ている。
実は知られていたのだというショックと、自分の汚いところがばれてしまったという恥ずかしさで一杯になって、頭の奥がじんじんする。
自分の中の奥深くに、無理やり押し込んでしまい込んでいた、小さくて黒い渦が、外から来た小さな刺激に驚いて、爆発的な威力を伴って解放されてしまった。けれど、その勢いに、器である体が追い付かない。しまい込んでいたものが大きい分、その反動も大きかった。心と体のバランスが崩れたせいで、全身にうまく力が入らず、その場に座り込んでしまう。
何もしないでいると、それらの感情にのみ込まれて二度と立ち上がれなくなりそうで、感情を紛らわすために、体の奥底にわずかに残った力を振り絞って、震える指先で飛び散ったパズルを震える指でかき集めた。
ピースを集め、その山から、外枠のピースを探し出し、一つ一つ、繋げる。
彼の言葉を反芻する。
「君は、当たり前のように、僕を受け入れるね。」
彼の、そんな言葉を思い出すたびに、私の心はどんどん暗くなって、冷えていく。
褒められても、嬉しくなどない。むしろ、心が氷のように冷えて固まっていく。
だって、私は、そんな立派で、純粋な人間ではないのだから。
テレビドラマで見る、病気を持った人のパートナーは、純粋に相手を想う気持ちを持っている。その気持ちを糧に、相手にしてやれる限りのすべてを尽くす。普段はしないようなこともたくさんやって、特別な思い出を重ねていく。それらの行動には強い「自信」が伴っている。その「自信」を持ってして、どんな苦悩も乗り越えていく。そうしてできた思い出の塔には、色とりどりの、様々な装飾が施されている。その塔は、とても立派で、美しく輝いていて、見る人の心を打つ。
一方で私は、一緒に起きて、一緒にご飯を食べて、そして一緒に寝る。そんな、ごく当たり前のことしかできないでいる。
何か特別なことをしようにも、薄汚れた気持ちを上らか白く塗り替えようとしているだけの空虚な行為にしかなりえない、と思えてしまうから。
それはただの何もない草地。何の変哲もない、どこにでもあるような雑草が生えているだけの。美しく輝くような、そんな特別なことを彼にしてあげたいとも思うのだけれど、綺麗な一歩を踏み出せる自信がなくて、その場に踏みとどまってしまう。
自分にはそんなことをする資格などない、と思ってしまうから。
心の部屋の奥隅に、自分でも見つけてしまわないように隠してある「そう思ってしまう理由」に気づいてしまうたびに、自分に失望し、時には苛立ちさえも覚える。
知らず知らずのうちに、じんわりと瞳に涙が滲んでくる。
パズルは、外枠を作り終えて、内側を埋める工程に入ったけれど、視界がぼやけて、柄がうまく識別できない。手元も震えて、うまくピースが嵌められない。
心の部屋の奥隅に、大きな布がかぶせられた、鏡のついた机がひっそりと佇んでいる。その机には、鍵のかかった引き出しが付いている。その机から目を背けたいのに、気になって見てしまう。その思いに、気づきたくないのに。認めたくないのに。
この状況を、喜んでいる自分がいる。望んでいた自分がいる。
その喜ぶ理由が、望んでしまう理由が、引き出しに隠されている。
私は、最低だ。私は、醜い人間だ。
彼は、こんなにも私のことを考えてくれているのに。私は、いつだって、小さなころから存在する欲望を捨てきれなくて。彼が奇病でい続けることを、望んでしまう。そんなこと、決して望んではいけないことなのに。自分の都合で、相手に病気でいてほしいなどと、そんなこと考えてはいけないのに。でも、欲しかった。私が唯一の存在になるために、どうしてもそのピースは欲しいと思ってしまった。でも、その欲望はあってはならないものだから。望んではいけないものだから。だから、消したかった。でも、消しきれなかった。
彼の想いに、ただ純粋に応えたいだけのに。でも、できない。私は、どう頑張っても、不純な気持ちを消しきれなくて、彼の想いに、純粋にあれない。
それが、悲しい。
大事にしたいと思う気持ちが、それ以外の感情で穢されているのなら、それは決して、決して、存在することにしてはいけないと思う。だって、綺麗ではないのだから。本当は、彼を想う気持ちはあるのに、でも、消さなければいけない。無かったことにしなければならない。自分で自分の気持ちを、そうやって何度も何度も、否定する。その存在を消去しようとする。
自分の中の大事な気持ちを自分で消さなければいけない。
それが、寂しい。
そして、彼の綺麗な想いも、全てを無条件に受け取ってはいけないと思ってしまう。彼が、その温かなまなざしを私に向けるたびに、私は心の扉を冷たく閉じる。その温かさを、決して、心の部屋に入れまいとする。だって、私は自分勝手な欲望で穢れているから。でも、本当は、彼のぬくもりが喉から手が出るほど欲しい。そのぬくもりの中に、思い切り飛び込んでいきたい。飛び込んで、ぎゅっと抱きしめて、これは私だけのものだと、心の部屋に押し込んで、閉じ込めて、独り占めしたい。
でも、私には、そんな資格はないから、無理やりにでも、その気持ちを振り捨てようとする。
それが、苦しい。
ぱらぱらと、私の心のうちに生まれる温かな想いを、それが生まれるたびに、小さくちぎって捨てていく。ちぎれた欠片は、温度を失い、風に飛ばされて、どこか遠く、もう自分の手の届かないずっとずっと遠くまで飛んでいく。
私なんかよりも、彼にもっと純粋に寄り添える人はいるんじゃないか。
そう、何度思ったことか。
彼のことを考えたら、きっと、そっちのほうがいい。きっと、そうだ。こんなにも、自分のことしか考えられない人間の傍にいたって、彼は幸せになれない。
でも、そんな素敵な人が彼の隣に立って、私はそれを、ただ遠くから見ているのを想像したら、もっと寂しくなる。私では彼を幸せにできないんだということに、もっと悲しくなる。一人になんてなりたくないくせに、自分で自分を一人に追い込んで、もっと、苦しくなる。
あぁ、私はなんて最低で、ずるくて、卑怯な人間なんだろう。
そう、自分にひどく失望する。
自分が、どれだけ汚れた人間か、自分が一番よく分かっているはずなのに。それなのに、彼の傍に立ちたい、失望されたくない、嫌われたくない、などと思ってしまう。私は、なんて悲しくなるほど自分勝手な人間なのだろうか。
ただ純粋に、相手のことだけを想う。
たった、それだけのことが、なんと果てしなく難しいことか。テレビドラマの彼女たちは、余計なものなど一切もなく、それがとても強く、美しく見える。
でも、私は。
私はそんな風に、強くも美しくもあれない。
私だって、本当は綺麗になりたいのに。優しくありたいのに。
でも、そうあれない。
そんな自分が、悲しくて、悔しい。
自分が汚れていて、だから、自分は彼の側にいるには相応しくないと分かっていても。
それでも彼を望んでしまう。
そんな自分が、寂しい。
私の中にある、自分のことしか考えていない欲望に気づくたび、自分で自分を叩いてやりたくなる。傷つけてやりたくなる。
こんな自分、大嫌いだ。
自分で自分を切り刻んでやりたくなる。両手の爪を自分の胸に立て、皮膚を抉り取って、内臓をむき出しにして、心臓を握り潰してやりたくなる。
大嫌いだ。
こんな自分、消えてしまえばいい。
彼のことを真に想えない自分なんて。
彼のことを真に大切にできない自分なんて。
彼のために真に何もできない自分なんて。
呪い殺されて、ずたずたに引き裂かれて、消えてしまえばいい。
自分への失望は、苛立ちへと変わり、自分自身を激しく攻撃する。
しゃくりあげ、嗚咽が漏れる。彼を起こさないように、何度も何度も、静かに鼻をかむ。パズルはなかなかうまく嵌まってくれない。湖と森の柄は繊細で、ただでさえ絵柄を繋げるのが難しいのに、感情がぐちゃぐちゃになっている今は全く集中ができなくて、余計に進まない。
叫びたい。
喉が枯れて、潰れて、二度と声が出なくなるまで、叫び散らしたい。
こんな自分が、悲しいと。
こんな自分が、寂しいと。
その、激しい攻撃性を内包した悲嘆と寂寥感は、嵐のごとく私の中を暴れまわり、破壊の限りを尽くしていく。私の中にあるものすべてを壊し、抉り取り、それでもなおも暴れ続ける。そうやって果てしなく膨らみ続ける感情で、私は内から壊れてしまいそうになる。
自分の胸の内で、荒れ狂うその感情を、思い切りどこかにぶつけたい。
そうでもしないと、自分で自分を壊してしまうから。自分という存在が、紙きれのように、簡単に細かくちぎれて、跡形もなく、燃えて、消えてしまうから。
叫び散らしたい。慟哭したい。この感情を、激しくどこかに殴りつけたい。
悲しい、悲しい、と。
寂しい、寂しい、と。
でも、どこでそれを叫んでいいのか分からない。ぶつけていいのか分からない。
叫ぶ代わりに、涙が止めどなく溢れ出る。溢れ出た涙は、机や服に、たくさんのシミを作った。
それはまるで、私の悲しくて寂しい心の汚れのようだった。
自分の感情と闘いながら、何度も間違えながらも、時間はかかりながらも、一つ一つ作業を進めていくと、やがて、ピースの山が無くなり、パズルはほとんど完成した。
陽光を反射してゆらゆらときらめく湖と、風にわさわさと揺れている木々。木々の表面の葉も、陽光を反射して明るく光っていて、力強い生命を感じさせる。けれど、それは、生きてやろう、という反骨精神あふれるようなものではなく、自然の摂理に身を任せた、柔らかく、緩やかなもので、静かな力強さをその内側に感じさせた。
優しさで溢れるその風景は、何度見ても、心が救われる。
けれど、真ん中の、卵の部分のピースがまるまる無くなっていた。どこに行ってしまったのだろう、と机の下や椅子の下を念入りに探してみるが、見つからない。激しく散らばっていたとしても、一つくらい見つかってもいいものなのに、白いピースは全くと言っていいほど見つからなかった。
涙を流した疲れもあって、私は探すことを諦めて、食卓に力なく座り、しばらくの間、私は、ポッカリと空いたパズルの空間を見つめていた。頬に残った涙の跡が乾いて、皮膚がぱりぱりする。目も乾いてきて、瞬きをすると目がごろごろする。
何もない。ただ、机の木目だけが見える。
何か代わりのもので埋めようにも、そこにぴったりと嵌まるものはないし、埋めたところで、余計に醜くなるだけだ。
心の部屋の黒いガスの噴出は、落ち着いた。正確には、疲れ果て、噴出させる力さえも今の私には残っていなかった。
けれど、浄化もされず、排出先のないガスは、部屋の中に溜まったままだ。
私は、ぼうっとした気持ちのまま、薄汚れた部屋を歩いて、部屋の奥深く、鍵のかかった机の引き出しに隠しておいた小さい箱を手に取った。幼児向けのデザインのその箱は、この部屋にあるものの中で、一番古い。埃や汚れがびっしりとこびりついていて、もう、取れなくなっている。多くの傷もついている。
いつもは、彼がそっと入ってくるのを待つだけだったけれども、今度は、違う。ずっとずっと隠していたこの箱を持って、彼のところに行こう。彼が気づいているこの箱の存在を、私の口できちんと説明しよう。
私はこれからも、真の意味で、嘘偽りない自分の姿で、彼のそばに居続けたいから。
顔周りの涙の残骸を両手でごしごしと擦り取る。
私は、一つの決意を胸に、寝室へと向かった。
彼は痛み止めを飲んで、ホットタオルを第三の目に当てて寝ていた。規則的な呼吸が聞こえる。
無いものは、無い。
なれないものには、なれない。
今更、穢れひとつない、綺麗で美しいものに、私はなれない。むしろ、その気持ちを隠そうとするたびに、一つ、また一つと汚れが付着していく。
でも、今の自分のままで彼の隣には立ちたくない。後ろめたい気持ちを抱えたまま、隣には立ちたくない。
でも、私には、彼にそれを見せてしまうことで嫌われてしまうのではないかという恐怖があった。醜い部分を見せて、失望されてしまうんじゃないかという不安があった。
それは、長い時間を彼と共有し、彼を深く信用しているからこそ生まれる感情だった。
彼は、そう簡単には私のことは嫌わないだろうとは思っている。「万が一」は起きないだろうと思っている。根拠はない。でも、そう感じる。しかし、しっかりとした根拠がないがゆえに、不安を抱く。彼の心を疑ってしまう。
でも、もし。
もし、その「万が一」が当てはまってしまったら……?
もし、彼に拒絶されたら、私は孤独感と自己嫌悪で、自分で自分を殺してしまう。
彼はすでに、その箱の存在に気付いて、そして、それを見せてほしいと言った。なぜ、彼がそれを見たいのか、その訳は、私には想像もできない。けれども、冷静になって考えてみると、そもそも、変わり者の彼の考え付く行動など、簡単に説明できることの方が少ないのだ。そして、彼の行動を説明するには、長い長い文章が必要になるけれども、その長い文章の中に、「私への嫌がらせ」という文句は一切含まれていない。
いつだって、彼のおかしな行動の理由は私のため、あるいは私達のためにあった。だから、どういう風に私のためになるのか理解はできないが、少なくとも、私をわざわざ傷つけるためにそんなことを言うとは考えにくい。彼は、決して、自分の知的好奇心を満たすためなら他人が傷ついても構わない、といった考え方はしない。
そう考えると、私が自分の汚いところを見せて彼に嫌われてしまうという可能性はあまりないのではないか、という風にも考えられる。しかし、嫌われてしまうという可能性も拭いきれない。結局、どちらに転がるのか、分からない。
そう思うと、なんだか彼に対して腹が立ってきた。いつもいつも突飛な行動ばかりで、きちんとした説明もなくて困ってしまう。そのせいで、こっちは余計な考え事までさせられて、感情に振り回されて、迷惑極まりない。
沸々と怒りが湧き上がってきたが、私はなぜか、それが可笑しくなって、ふっと笑ってしまった。
彼の静かな寝顔をじっくりと見つめる。
先ほどまでの激しい雷雨は収まり、風も静まっていた。
彼は、いつだって私のことを想ってくれている。だから、聞いたうえで拒絶する、という行動パターンは考えにくいのだけれど、もし、拒絶されたらという不安は拭いきれないし、何より、自分の一番汚いところを見せることは、たとえ信頼している相手であっても、とても勇気がいることだった。
私は、もう一度、自分自身に問うた。自分がどうしたいのは、彼とどうありたいのか。
今更、綺麗にはなれない。美しくもなれない。
でも、誠実でありたい。
私は汚いんだと、醜いんだと。隠すことなく、ありのままの自分をきちんと話したい。
欲望と悲しみと寂しさでぐちゃぐちゃに汚れてしまった私だけれど、その箱を見せることで、ほんの少しでも、テレビドラマの彼女たちのように、自信を持って、彼の隣に立てるのなら。ひとかけらでも、そんな可能性があるのなら。
小さな決意とともに、私は彼の手を握った。
彼の手が、ほんの少し、私の手を握り返した気がした。
私は、私の想いが、彼のもとへ届くことを祈った。