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愛を食す  作者: 里舘 凪
2/7

腕から生えた草花


彼はいわゆる健康優良児で、私と出会ってから今まで風邪一つ引いたことがなかった。

しかし、ある日突然、高熱を出した。四十度近くの高熱が一週間近く続き、一日中ベッドでうなされていた。

そして、熱が治まったと思ったら、今度は体が痒い痒いと言いだした。

顔も背中もお腹も足も、体の全部が痒いようだった。

皮膚科に行って薬も貰ったが、すぐに効果は現れず、皮膚の様子を見てみても、引っかき傷はあるものの、特に荒れている様子はない。全身の痒みはしばらく続き、尾てい骨が特にかゆいと言った時には、尾てい骨の皮膚が厚く盛り上がり、足が特にかゆいといった時には、足に薄く鱗のようなものが見えていたりしていた。

保湿をしたり、薬を塗ったりしているうちに、全身の痒みはなくなったものの、今度は右腕にだけ強い痒みが続くようになった。相変わらず、アトピーのように皮膚が過剰に乾燥しているわけでもないし、ただ、きれいな皮膚に引っかき傷が残るだけだった。医師に聞いても、原因は分からなかった。

病院からもらった薬が底をつきかけたとき、彼の腕に明らかな変化が現れた。

「植物が生えたんだ」

いつものように朝、起きて、着替えて、顔を洗って、食卓に座り、朝ごはんを食べようとしていた時、彼が私にそう言った。

朝は、彼の方が一時間、早い。

私よりも先に起きて身支度を整え、観葉植物に水をやり、二人分の朝食を作ることが彼の役割だった。キャベツの千切りとスクランブルエッグとベーコンとカフェラテ。毎朝同じ朝食を、彼は作ってくれている。

だから、最初、観葉植物を植えている鉢に、新しい植物が生えたのだと思った。観葉植物の世話は、私はほとんどやっていない。ちょうど、春が始まる季節だった。だから、年度の始まりに、と、彼が新しい種でも買って植えたのかと思ったのだ。

「あ、そうなんだ。どんなやつ?」

すると彼は、

「こんなやつ」

と言って、着ていた長袖のスウェットの袖をまくり、私に見せた。

私は目を丸くした。彼の右腕から、植物が生えていたのだ。

彼の右前腕の体毛が生えているはずの部位に薄く緑の芝が生えており、さらに、そこに数種類の小さな植物が生えていた。全体的にそれらはこぢんまりとしていて、高さは高くても三センチメートルほどだった。稲のような形をしたもの、つくしのような形をしたもの、黄色や青やピンクなど色鮮やかな花を咲かせているものなど、形はそれぞれだった。

「それ、フェイクじゃないの?」

人工芝を腕に貼り付けて、そこに百均などで、購入したフェイクグリーンを乗せているのだと思った。でも、今日はエイプリルフールではない。

「いや、本物だよ。触ってみる?」

恐る恐る人差し指と中指で触ってみると、芝や草木は瑞々しく、本物の植物と遜色ない感触だった。試しに、植物を触った手の匂いを嗅いでみると、濃い緑の香りがした。

「本当だ。」

私は困惑した。人体から植物が生えてくるだなんて。そんな病気、漫画でしか見たことがない。

「これ、触り心地が最高なんだよね。」

私が動揺しているのをよそに、彼は左手で自分の右腕を擦っている。確かに、彼の右腕でふぁさふぁさと揺れ動く芝の触り心地は、とても気持ち良さそうだった。

いや、しかし、どうしたって彼は、そんなに冷静でいられるのだろうか。

「これはいいね。」

「何がいいのよ。」

「健康にいいんだよ。」

「どういう意味よ。」

「だって、自分からマイナスイオンが出せるようになるんだよ。マイナスイオンは心身ともに良い効果があると聞くじゃないか。健康にいいものを自分で供給できるようになるなんて。これは凄いことだ。」

「何が凄いのよ。」

こんなの大変なことではないか。申し訳ないが、彼のよくわからない言い分には付き合っていられない。

「病院に行かなくちゃ。」

私はすぐにスマホでかかりつけの皮膚科の診療時間を調べた。

「いや、いいよ。調べなくても。」

彼は、私がスマホを打つ手をそっと抑えた。

「行っても、信じてくれないだろう?こんな奇妙な出来事なんて。」

確かに、そうかもしれない。普通では考えられないことが、今、目の前で起きている。たとえ病院に行っても、気味悪がられるだけで終わるかもしれない。

「僕のそばにいれば、わざわざどこか遠くに行かなくても、いつだって新鮮なマイナスイオンが感じられるんだ。でも、病院に行って、もし、僕の右腕を切り落とす、なんてことになったら、そんな貴重な経験できなくなる。それでもいいの?」

相変わらず、一体、何を言っているのだろうか。彼の理論は全く理解ができない。だって、明らかに異常なのに。命に関わることだったら、早く処置をしなくちゃいけないのに。

でも、私は、迷った。迷ってしまった。


そんな貴重な経験できなくなる。それでもいいの?


人として最低な考えが脳裏をよぎる。そんなこと、思ってはいけない。望んではいけない。分かっているのに。渇いた欲望を満たしたくて、本能で、望んでしまう。

「大丈夫だよ。」

何も言わない私に、彼は、先程までのちょっとふざけた様子を一転させて、優しく微笑んだ。不安がっていると、思ったのかもしれない。そう、確かに私は、彼の怪奇的な変化に不安を覚えている。でも、それだけではない思いも、私にはある。

ああ、どうか、私の汚れた考えが、彼に気づかれていませんように。

「とりあえず、朝ごはんを食べよう。その後、色々調べてみようか。」

「調べるって何を?」

「それはもちろん、僕の腕について、だよ。」

 今日の朝食のパンは、いつもよりもパサパサしていて、カフェラテはコーヒーの苦みもミルクの甘さもあまり感じられなかった。

彼の言う、調べる、というのはネットで調べるということではなく、いわゆる検査のようなものだった。両手の握力を比較し、両腕の可動域や筋力をチェックした。握力計はないので、二リットルのペットボトルを手で掴んで持ち上げたり、腕をぐるぐる回したりしていた。

ネットで、「握力の調べ方」「腕の可動域の調べ方」と検索したわけではない。彼が自分で考案した検査法で、本当にこんなやり方で調べたいことが調べられるのか怪しい。

「うん、問題ないね。」

ペットボトルは両手でガッと勢いよく掴んで、二回ほど頭の上に持ち上げただけ。腕の可動域については、両腕を伸ばして、手のひらを上にしたり、下にしたり、肘を曲げたり、伸ばしたりしただけで、何か特別な動かし方をしていたわけではない。

大した検査もしていないのに、彼はサラッとそう言った。本当は、検査をする気なんてなかったのではないかと思わせる。

彼の言い分に何か一言申し上げたい気分だったが、大丈夫かどうかを判断する基準がないのだから、どうしようもない。

「指先の神経とかは問題ないの?」

握力や筋力には問題がなくとも、指先の感覚に異常があることもあるかもしれない。

「うーん、確かに。でも、お箸は普通に持てたけどなぁ……」

確かに、彼は朝食のとき、いつもと変わらない様子で箸を使っていた。

でも、私は心配だった。彼の身に起こった、奇妙な変化。前兆はあったものの、腕から本物の植物が生えるなど、誰が想像できただろうか。そんな奇妙な出来事に対して、彼の対応はどこか悠長で、本当に大丈夫なのかと余計に心配になる。

 腕だけではなく、脳も大丈夫なのかと心配になってきた。腕の検査だけではなく、脳機能の検査も必要だと思われた。

「病院、本当に行かなくてもいいの?」

 行っても、どうしようもできないことは分かっている。こんな症例、どんな有名な医者でも見たことはないだろう。

「うーん、大丈夫だよ。」

 けれど、あまりにも悠長だと苛立ちも覚えてくる。病院に行こうといっても、彼はのらりくらりとかわしそうなので、私は交換条件を出すことにした。

「ジグソーパズルをやろう。指先の検査も必要だと思うし、なにより、脳に異常がないか確かめたいの。それで、もし、ちょっとでも変だと思ったら、病院に行こう。」

 ジグソーパズルであれば、指先も使うし、脳も使う。うちにはジグソーパズルが何種類か置いてある。二人共、細かい作業が好きなので、買ってあるものも大抵は細かいピースのものばかりだ。

「うーん、別にそこまでしなくても、大丈夫だと思うんだけどな……。」

 彼はごねているが、これ以上彼のペースに巻き込まれるわけにはいかないので、私は彼を無視して、押し入れを探した。

「これをやってみて。」

私が選んだものは、五百ピースのジグソーパズルだった。大きさはA4サイズほど。そして、ピースの形も普通のものと少し変わっていた。

彼は、元々、ジグソーパズルが得意な方で、同じピース数で難易度も同じくらいのジグソーパズルを一緒にやると、大抵、彼のほうが先に完成させてしまう。元々、変わった人だから気が付かないだけで、何か作業をしていれば気がつくこともあるかもしれない。

「ふうん。また変わったパズルを選んだんだね。ピースもまあまあ細かいし。でも、僕、本当に大丈夫だよ。」

 まだ、言っている。

「それはさっきも聞いたけど、それを証明して見せてほしいの。」

彼は納得していない様子で、しょうがないなぁ、と頭を掻きながらジグソーパズルを始めた。

まずは、外枠のピースを取り分け、四角い枠を作っていく。

今回のパズルが他と変わっているのは、パズルの中心が卵型になっていることだ。卵の部分のピースだけ丸みを帯びている。

そして何より、この卵の部分はほぼ全てが白色で、その柄でこのピースがどこに嵌まるのかを判断することができない。一つ一つのピースを試し続け、十数個ある白いピースから、お互いの直線や曲線にぴったりと合うものを探し出さなくてはいけない。それゆえ、非常に難易度が高い。

彼は、外枠のピースを取り終えた後、残りのピースの山から卵の部分の白いピースも取り分け始めた。

今のところ、彼の手先は問題なく動いているようだった。

「ねぇ、前から気になってたんだけどさ。」

彼はパズルの内側のピースを組み合わせながら向かいに座る私に唐突に尋ねた。

「何を?」

「君の嫌いじゃないけど好きではないものの基準って何?」

 はあ、とため息を吐いてしまいたくなる。

どうしてこう、彼はいつも突然に、今までの流れと全く関係のない話を始めるのだろうか。しかも、今は彼の体に異変が起こっている異常事態なのだ。

「……どうして急に、そんなこと聞くの?」

 今は、関係ないでしょ、と心の中で続けた。

 今、口に出して言わなかったのは、あまり触れてほしくないからだ。もう、長いことややこしく絡まってしまった紐を、一つ一つ丁寧にほどいて、ほら、これだよ、と見せるのはとても心の体力がいる。

確かに、私には嫌いじゃないけど、好きではないものがいくつかある。

ピンクのもの、フリルのついた洋服、キャラクターもの、オレンジジュース、レアチーズケーキ。

好きなキャラクターはいる。流行りのものだってある程度は抑えている。嫌いじゃないけど、好きではない。食べられるけど、好きではない。好みの問題のようで、そうではない。

嫌いではないけれど、それらを勧められたら、私は他人から見れば不自然なほど、頑なに拒否する。このジグソーパズルを買ったときも、彼に、あるキャラクターのものを進められたが、私は頑なにそれを拒んだ。嫌いでなければ一つ買ってみてもいいものの、私は、拒否した。強く強く、拒否した。

「君の基準は少し特殊な気がしたから。その他大勢と同じなのが嫌なのかと思ったけど、そうじゃなくて、とても小さいけれども、とても固い意志を持って、特定のものを嫌がるときがある。」

「……そう?」

「そんな気がする。いや、ちょっと気になっただけだよ。」

彼は、深くは聞かない。多分、私から話し出すことを待っている。

今みたいに、たまに私を誘い出そうとするときは今までもあったが、私はいつも真正面から彼の相手にすることはなく、するっと、別な話題へと話を逸らしていた。

彼は、私の口から聞きたいんだろうな、とは思う。けれど、それがさらに私の口を重くさせるのだ。

私の複雑な欲望は、特殊で、人によっては理解し難いものだろう。でも、ふかふかのクッションみたいな彼なら、受け止めてくれるかもしれない。

けれど、もしも。

もしも、受け入れてくれなかったら。理解できないと切り捨てられたら。呆れられてしまったら。結局のところ、私は私のありのままを彼にまだ見せられていない。怖いから。もし、彼に受け入れてもらえなかったら、彼以上に私の理解者なんていないのに、理解できないといわれてしまったら。この広い広い世界には私の受容者がいないという事実を突きつけられるのが、私はただ、怖い。

だから、いつも自分に言い聞かせていた。その恐怖に蓋をするために、仮面をかぶっていた。話す必要も特にないから、話さない。ただそれだけ。

その仮面は、ほんの少しだけ悲しく、ほんの少し寂しい顔をしている。

「私もやる。」

微妙な空気の中で、少し落ち着かないので、それを忘れるために私も細かい作業に没頭することにした。

彼が作った外枠の内側にピースを嵌めていく。

水彩画のタッチで描かれているパズルの背景は、湖と森。卵と、湖と森は遠近法で描かれているせいか、背景の部分はかなりぼやけている。そして、画面の中央に、白い卵が浮かび上がっている。柔らかいタッチで描かれているその絵は、春のような暖かさを感じさせた。

背景のほとんどが緑と青だから難しいが、微妙な色合いと柄から、少しずつ、絵を広げていく。

初めて、このパズルの絵を見たとき、この卵は、かわいそうだと思った。

鳥は、一般的に複数個の卵を産むから、きっと、この卵は産み落とされてすぐに、他の卵たちと違うところに、連れて行かれてしまったのだろう。

一人ぼっちで、周りには自分と似たようなものは誰もいなくて。だから、きっと、この卵から生まれてきても、生きにくさを感じながら過ごしていくのではないだろうか。理解者がいないということは、孤独だ。

でも、この卵がそうして過ごしている一方で、他の卵から生まれてきた兄弟たちは、みんな一緒で仲良く楽しくやっているのだろう。だから、もし、この卵から生まれた鳥が大きくなって、他の兄弟たちに会ったら、喜びと同時に、嫉妬や腹立たしさを感じてしまうような気がした。

理解者ができたことは嬉しくても、でも、その理解者たちが、自分が持ちえなかった経験をもって、逆に、自分が持っている悩みなんか一つも持たずに、楽しそうに生きてきていたと知ったら。

自分の孤独な人生と比較して、惨めな気持ちになってしまうのではないか。

そんなことを、考えていた。

「あなたは、凄いわ。」

「え?何?今度は急に。」

彼はパズルを持つ手を止めて、こちらを見つめた。

「生きるのが上手だから。」

私は彼の視線を感じながらも、完成途中のパズルから目を離さなかった。ピースの山から適切な形のものを探し出す。

今の言い方は、さすがにちょっと棘があったかな、と言い終わってから反省する。

彼は、いつも余裕がある。自分のことで手一杯なはずなのに、いつもと変わらない態度で過ごしている。人との距離感を取るのも上手い。かといって、周りに合わせすぎることもなく、嫌なことを言われたりされたりしたら、やんわりと躱していく。

一方で、私は嫌なことがあったらそこに真正面から向き合おうとして、そして、ボロボロになって疲れ果ててしまう。だから、無理矢理にでも嫌な出来事を忘れようとするのだが、それでも忘れられず、ずっとモヤモヤして、結局爆発しまう。だから、いつも自分のことで一杯一杯で、心に余裕がなくて、なかなか人のことまで考えられない。

彼のように、相手の心に立ったさざ波に気づいてあげられない。

私はそれでいいのだろうか。

私はいつも、貰ってばかりだ。

でも、そうやって、自分への失望と同時に、彼への嫉妬も感じてしまう。

「私も、あなたみたいな上手な生き方をしたい。」

彼が、羨ましい。

彼は、うまい具合に肩の力を抜いていて、他人にも寄り添えて。私は彼に、今こそ何かしてあげなくてはいけないのに。こんな状況でも、彼はとても大きく、温かいもので私を包み込んでいる。私は、それ以上に大きく、温かいもので彼を包み込んであげられるだろうか。

きっと、出来ない。

心の片隅で、ほんの少しでもそう思ってしまう自分に悲しくなる。そうして、その悲しさは自分の中で消化しきれなくて、他人へと向いてしまう。彼に優しくありたいと思うと同時に、彼が羨ましくて。ほんの少しだけ、ほんの、ほんの少しだけ、腹が立ってしまう。

自分で自分を、傷つけたくは、ないから。そうして、刃先を自分以外の誰かに向けてしまう。

胸の内で増幅してしまいそうになる感情を、唇をかんで抑える。痛みで、その感情を上書きする。

背景の湖と森は思っていた以上に難しく、一つピースを取って嵌めてみるが、合わず、別なピースを取って試してみる、という作業を繰り返していた。本当にこのパズルを完成させることができるのだろうか。終わりが見えないことに、不安を感じて、手が止まってしまった。

私もずっと、このままなのだろうか。

「でも、僕は君みたいな生き方をしてみたい。」

私の発言に対し、彼はそう言った。

私は、彼の発言が信じられなかった。

「馬鹿みたい。絶対やめなよ。意味がわからないわ。なんでわざわざこんな生き方しようとするのよ。」

「え?そう?僕は馬鹿なのかな?」

そんなやり取りをしつつも、私達は目を合わせることなどなく、目の前の作業を進めていく。

「でも、一つ言えることは、僕は、君が思っているほど、上手くは生きていないってことだね。」

私と彼は、ピースの山から出来かけのパズルの曲線にあったものを見つけて、嵌めていく。

「君は君の生き方で苦労している部分があると思うけれど、その分、得していることもあると思うよ。僕は、君のそういうところが羨ましい。お互い、自分の持っている部分に気づかなくて、持っていないところに目が行ってしまうけれど、でも、それでもいいと、僕は思う。君は僕の、僕は君の良いところを、ちゃんと知っているからね。僕らは、お互いの欠けたところをお互いで補っていけばいいんだ。一人で完璧にならなくていい。二人が持っているそれぞれのピースで、一枚のパズルを完成させればいいんだよ。」

彼は、私のことを、衒いもせずにあっさりと肯定してしまう。

なぜだろう。不思議だ。

難しい理論で語っているわけではないのに、力強く語っているわけでもないのに。

自分への嫌悪感が完全に消え去ったわけではない。けれども、私は、彼のたった数行の言葉が、自分にも良いところがあると言われたことが、嬉しくて、照れてしまって、安心もしてしまって。心に生まれたもやもやは、ふう、と軽く息を吹きかけられただけで、おおかた消し飛んでしまった。

彼の心地の良い、中音域の声で紡がれる、子守唄のような言葉たちは、あぁ、そうか、それでいいのか、と私の長年の頑固な心の澱をいとも簡単に、すうっと、溶かしていってしまう。

彼の言葉には、それだけの力があった。

私にだけ効く、魔法の呪文たち。彼から発せられる言葉たちには全て優しい魔力がこもっていた。どんな時でも、彼が短い呪文を唱えれば、私の中でうごめく靄たちは、ふう、とどこか遠くへ消えていってしまう。

私は、他者からの肯定をなかなか受け入れられない。自分への嫌悪感は、べったりと古い油のように私の内側に張り付いて、そう簡単には剝がれてはくれない。親しい友人に自分の内面的なことについて賞賛の言葉を並べられても、私の心は動かない。彼だから、なのだろうか。自分でも、なぜここまで心が軽くなれるのか分からない。数年の歳月をかけて構築された信用と信頼がある相手だから、なのかもしれない。

なぜ、彼の言葉はすんなりと私に浸透するのか。その答えはきっと、理屈で説明できるものでは、ない。

「これで、最後だね。」

難易度の高い卵の部分は彼がほとんど作ってしまった。他のピースとは別に作っていた卵の部分を最後にジグソーパズルの中央に嵌める。終わりの見えないと思われたジグソーパズルも、無事に完成した。

「はい、完成。」

非常にスムーズな作業だった。途中から、これが検査であるということを忘れていた。

「残念だわ。」

 あえて、口に出して言ってやった。

「あら、そうですか。」

 彼は、ニコニコしている。

 これ以上、彼に何を言っても無駄なのだろう。今日のところは、ひとまず私が引くしかない。

「残念そうな顔しているあなたに、朗報です。」

「あら、なんでしょう。」

 すると、彼のおなかがぐう、と鳴った。彼は、少し照れながら、こう言った。

「一緒に、お昼を食べましょう。」


完成したパズルは折角なのでしばらくの間、食卓の隅に置いておくことにした。

お昼は二人でオムライスを作ることにした。私がチキンライス担当、彼が卵担当。

私達はそれほど食へのこだわりがない。食の好みもそこまで違わない。私達の料理のモットーは、「食べられれば良し。火が通っていれば良し。」

強いて言えば、若干彼の方が濃い味が好きであるくらいだろうか。だからいつも、彼が味付けを調整できるように薄い味付けで料理をしている。

「チキンライスの中身は何にする?」

「ハムと、ピーマンと、ニンジンと、玉ねぎかな。あ、グリーンピースもあるけど、入れる?」

 冷蔵庫と引き出しを確認しながら食材を決める。

「そうだね、入れてみよう。」

オムライスの中身は、これ、と決まっているわけではない。何となくそれっぽいものが入っていればいい。中身なんて、食べ物であれば、なんでもいい。

最初に冷凍ご飯を二人分、ちょろっと水をかけてレンジで解凍する。その間に、ハム、ピーマン、ニンジン、玉ねぎを小さくさいころ型に切っていく。すべて切る終わったところでちょうどよく、チン、という音が鳴った。

レンジからご飯を取り出し、大きめのボウルにあけ、ある程度熱を冷ましておく。その間にフライパンにバターを載せ、野菜を一気に炒める。玉ねぎが半透明になったら、ハムを入れ、少し焼き色が付いたら、火を止める。

ごはんが入ったボウルに炒めた具材とグリーンピースを加え、軽く混ぜ合わせる。そこに適当にコンソメを入れ、ケチャップを加え、さらに混ぜ合わせる。コンソメは気持ち少なめに、ケチャップはごはん全体が赤くなる量を。

一切、量りや計量スプーンを使わない。なぜなら、私達の料理のモットーは、「食べられれば良し。火が通っていれば良し。」だから。

「チキンライス、できたよ。」

「それじゃあ、僕の出番だね。」

 私がチキンライスを作っている間、食卓のものを移動させたり、台ふきんで食卓を拭いたりしてくれていた彼は、キッチンに来て、よし、と意気込んだ。

「今日は、ふわとろオムライスといこうか。」

 さっき私が使っていたボウルよりも一回り小さいボウルに、卵を四つ割り入れる。最初に、菜箸の先で四つの黄身を割る。透明な膜が破け、オレンジがかった液体が、丸い球体から、とろとろと流れ出る。そして、ボウルを斜めにして、白身を割きながら卵を溶いていく。白身と黄身が均一になったら、そこに牛乳を入れる。

 私はその間、お皿を出して、その上にチキンライスを載せて楕円形に整えた。

「さて、ここからが腕の見せ所だね。」

丸いフライパンに油を敷いて、全体にいきわたらせる。油が温まったら、用意した卵を半分流し入れる。そして、ある程度火が通ったら、半熟のまま、楕円形にまとめていく。

「よっ、と。」

 彼は左手でフライパンを持ち、右手で左手首をトントンと叩いた。そうすることで、楕円形にまとめた卵に振動を与え、少しずつ回転させていき、形を整えていく。

 料理をしているとき、彼はいつも袖を肘までまくっている。右腕に生えている植物たちは右手で左手首を叩くたびに、首をゆさゆさと揺らしている。

「こんなもんかな。」

 綺麗な黄色の楕円形の卵は、割れないように、慎重にチキンライスの上に移されていく。チキンライスの上に乗った瞬間、ぷるん、とその黄色い体全体を震わせた。

「うん、いいね。それじゃ、この調子でもう一個。」

 彼は手際よく、同じような手順でもうひとつ、ふるふると震える黄色い楕円の卵を作り、チキンライスの上に載せた。

彼の料理の腕前はいつ見ても、惚れ惚れとしてしまう。

 私は、綺麗に載せられた卵がチキンライスの上から落ちないように、慎重に食卓へと運ぶ。そっとお皿を机に置き、スプーンとコップを用意た。そして、冷蔵庫から、朝、ティーバッグから抽出してポットに入れておいた麦茶を取り出し、コップに注いだ。お茶はお代わりをするかもしれないので、ポットはそのまま食卓の上に出しておく。

「それじゃ、最後の仕上げといこうか。」

 彼はキッチンから包丁を持ってきて、楕円の卵に切り込みを入れていく。包丁の切れ味が良いので、途中で止まることなく、すうっ、と鋭い線が、滑らかな表面に真っすぐに引かれていく。すると、鋭い切れ込みからとろとろの、すこし固形も混じった黄色い半液体が顔を出し、やがて、自分の重みで楕円の袋から溢れだす。何の特徴もない塊から、いきなり黄色いドレスが現れ、赤いチキンライスをふわっと覆う。

 何度見ても、この瞬間はたまらない。

「いただきます。」

「いただきます。」

 私はそのまま、彼は一口食べて物足りなかったようで、ケチャップを卵の上に足していた。チキンライスは少し冷めてしまっていたが、卵はあつあつのとろとろで、一口入れるたびに、はふはふと言いながら食べ進めた。ケチャップの酸味と卵のまろやかさのハーモニーがたまらない。私は、たまにチキンライスを多めに、たまに卵を多めにスプーンに載せながら、最後にはどちらもが同じくらいの量残るように計算をしながら食べ進めた。

「相変わらず、おいしそうに食べるよね。」

「そう?まあ、おいしいからね。この卵が最高よね。オムライスって、卵さえうまくできれば他の全部がおいしく感じるわ。」

「そんなことない。君のチキンライスもおいしいよ。」

「私のは普通よ。多分、他人が作ったものって、自分が作ったものよりもおいしく感じるのよね。」

「それじゃあ、僕が君のチキンライスをおいしいと感じるのも納得してくれるよね。」

「いや、それは違うと思うわ。」

 きっぱりとそう言うと、彼は首をすくめてしまった。

「具材の量も、ケチャップの量もちょうどいいよ。」

「そう、ありがとう。」

「具材の大きさも、火加減も。」

「うん、わかったわ。」

「僕は今、ドライアイスとしゃべっている気分だよ。」

彼が褒めてくれるのは嬉しいが、料理に関しては、私は自分の実力は到底彼には及ばないと本気で思っているので、彼の言葉をすんなりとは喜べない。

彼は私を褒めることを諦めて、黙々とスプーンを口に運んだ。私達は、食事中は基本的にあまり話さない。食器同士がぶつかる音と、咀嚼音だけが聞こえる。いつもと変わらないとても穏やかなお昼の風景。強いて言えば、彼の右腕の植物が、彼がスプーンを口元へもっていくたびに気持ちよさそうに揺れていることくらいだろうか。

食後にお茶をゆっくり飲んで、二人でお腹を休めた。

「適当に作っても、良いものができるだろう?」

 私は、お茶を飲みながら、こくんと頷いた。

確かにそうだ。彼は、材料一つ一つを丁寧に量り取っているわけでも、丁寧に切っているわけでもない。大体の量で、大体の大きさや形でカットして、味付けも何となく、でこなしている。それでも、おいしいものが出来上がってしまうのは、今までこなしてきた数の違いだろう。大体でやっても、おいしいものができてしまうから、彼は料理上手だと思うのだ。その分、私は彼とはこなしてきた数が全然違うので、未だに自分の腕前に自信が持てない。素直に彼の褒め言葉を喜べないのは、そこが原因だろう。

食べ終わった食器はそのままに、彼は空になったコップに新しく麦茶を注いだ。

「君は最初、掃除も料理も、すべて完璧にこなそうとしていたよね。」

「まあ、慣れていなかったからね。」

 彼と一緒に暮らす前、私は一人暮らしをしていた。

大学卒業までずっと実家暮らしだった私は、就職を機に念願の一人暮らしをすることとなった。一人暮らしをするにあたって、料理や掃除、洗濯を一人でこなさなくてはいけなくなったわけだが、私はそれらすべてを慣れていないくせに完璧にこなそうとして、早々に疲れ果ててしまったのだ。

洗濯物は朝に干すもの、掃除は毎日するもの、掃除機をかけて、拭き掃除をして、隅々まで埃や汚れを取るもの、料理はすべて自分で作るもの、きっちり量りを使ってつくるもの、そんな固定観念にがんじがらめに縛られていた。

少しでも、完璧な存在でいたかったから。小さいころからの渇望を満たす方法が「完璧であること」だったから。まだ学校に入る前の、未熟で幼稚な頭で考えた方法は、今、冷静に考えればとても滑稽な考えだったが、小さい頃は、すこしでも完璧でいれば、私は自身の欲望を満たし、安心できると本気で思っていた。その考えが、滑稽であるようだと気づいても、小さなころから根付いた思考とそれに基づく行動は、大人になってもやめられなかった。

そんなわけで、オムライス一つ作るにも、食材の量から切り方から味付けまで、これでいいのか、正しいのか、分からなくて二時間もかかってしまっていた。きっちりやった分、味付けはうまくいくのだが、作り終わった後に思わず疲労のため息が出てしまっていた。

「君は、完璧主義なくせに、少し不器用なところがあったからね。」

「……その節は大変お世話になりました。」

 当時、一人暮らしの先輩である彼には、だいぶお世話になった。洗濯物は夜に干しても十分に乾くこと、今は多種多様なおいしい冷凍食品がたくさんあること、掃除は毎日じゃなくても週に一、二回やれば部屋はそれなりに綺麗に保てること。家事を楽にこなすための工夫の数々や心構えを多く伝授してもらった。

 そうやって、少しくらい手を抜いたところで、私はダメなわけではないと、私の存在意義が揺らいでしまうことはないのだと、そんな安心を彼は与えてくれた。

 一人では、がんじがらめの思考から抜け出すことはできなかった。でも、彼が優しく私の手を取って、私に負担がかからないように、少しずつ、少しずつ蟻地獄から引き上げてくれた。今では、片足の足首ほどしか蟻地獄に残っていない。

「本当に、会うたびにやつれていっていたから、心配したよ。ご飯を食べていないのか、生活が気になって家に行ったら部屋はびっくりするくらい綺麗でピカピカだったし、冷蔵庫の中も手作りのおかずでびっしりだったし。」

「生活は、ちゃんとしていたのよ。」

 そう、生活はちゃんとしていた。ちゃんとしようとしていた。自分一人の力でも、ちゃんとできる人間であろうとしていた。完璧であることは、「私」を構成する一つのピースだったから。私が、独立した、唯一の「私」であることを証明するための、重要なものだったから。

「生活がちゃんとしているのは、すごいことだと思っているよ。そうなりたくてもできない人間はこの世にはたくさんいるからね。」

「……その節はご心配をおかけしました。」

 彼は仕事が休みの日などに、私の部屋に来て、色々と手伝ってくれた。一緒に買い物についてきてくれて、これは便利だ、あれも使い勝手がいい、と教えてくれた。そして、買ってきたものを実際に一緒に使ってみたりした。そうした彼の手助けもあって、私は少しずつ楽に家事ができるようになっていった。

「でも、一緒に暮らし始めてからも、君はいつもしかめ面しながら掃除をしていたよね。」

「そうかしら。」

 言われてみれば、そうだった気がする。

料理は、作って食べて食器を洗ったら終わりだし、洗濯も、洗濯機に入れて干して取り込んで畳んで引き出しにしまったら終わりだし、分かりやすく終わりが見えるけれども、掃除に関してはやれどもやれども、ここそこの汚れが気になってしまって、終わりが見えない。だから、掃除の度に、嫌だなあ、と憂鬱になってしまっていた。

 嫌だなあ。嫌だなあ。

 完璧になりたいのに、それができない。そうであれない。私は「私」になりたいのに、そうで在り続けられない。掃除が嫌いというよりも、掃除をきちんとこなせない自分が、嫌いだった。

「そんな君に、ロックンロール・クリーニングは良い効果だっただろう?」

「え?何それ。あれって、そんな名前だったの?」

 ロックンロール・クリーニング。そのネーミングセンスに思わず、ふっ、という笑いがこぼれた。

「掃除をしながらロックを聴くなんて発想、誰も思いつかないわよ。」

「違う違う。逆だよ、逆。ロックで魂を震わせながら、掃除をするんだ。」

「同じじゃない。結局、二つのことを同時にやっているんでしょう。」

「いいや、違う。最初がロックで、後が掃除だ。ここ、重要なところだからね。」

 彼は、ちょっと頑固なところがある。どっちが前で、どっちが後かなんて、どうでもいいと思うのに、彼はそういうところは細かいし、譲らない。

 家事を楽しみながらやる、という発想は、私にはなかった。真面目にきっちりこなすもの。生活をする上で欠かせないもので、楽をしていいものでも、楽しみながらやるものでもない。

 そう思っていたから、彼が掃除中に突然大音量でロックを流し始めた時には、驚いたし、心底呆れてしまった。一体、何をやっているのかと。

 けれど、やってみると意外と楽しいものだった。ロックのリズムが体に刻まれ、ノリに乗っているうちに、気が付いたら部屋のすべてに掃除機をかけ終えていた。いや、正確には隅々まではかけられてはいない。しかし、気分がノッているので、「まあ、いいか」という気持ちになってしまうのだ。

ロックンロール・クリーニングを始めてから、私の気持ちも楽になっていった。掃除以外のことでも「まあ、いいか」と思えることがさらに多くなっていった。

「分かった、分かった。最初がロックで、後が掃除ね。」

 彼のしつこさに観念してそういうと、彼は勝ち誇った表情をした。

「確かに、私は真面目すぎたのかもしれないわね。」

彼からは、「適当さ」を学んだ気がする。そして、適当な自分を許せるようになった気がする。そう思えるようになったのは、多分、彼が、私がなろうとしている「完璧な私」を良いところとして認識してくれて、そして私が嫌いな「適当な私」でいることも許してくれたからだと思う。

私には、まだまだ好きになれない自分がたくさんいる。だから、真っすぐに前を向いて歩くことができないこともまだ多い。上を向いて、世界を見渡すことも、まだ怖い。下ばかり見て、歩いてしまう。

だから、たまに、自分の上手くいかない生き方と彼のそういう上手な生き方を比較して、卑屈な考えになってしまうこともあるけれど。でも、私の良いところをちゃんと見つけてくれる人がそばにいてくれるなら、私はちゃんと地面に足をつけて、前を向いて、時には上を向いて広い世界を見渡しながら、終わりのないところへも歩いて行ける気がするのだ。

「でも、私も馬鹿じゃないから、もういい加減学んだわよ。手を抜かないのは良いことなのだけれども、手を抜くことも良いことなんだって。」

 すると彼は、にっこりと笑ってこう言った。

「よくできました。」

午後は二人でそれぞれ好きなことを過ごしていた。各々の仕事の続きをしたり、録り溜めたドラマやアニメを見たり。しかし、お昼までは元気だったのに、夕方過ぎごろから、体がだるくなり、今度は私が熱を出してしまった。

もともと、私はそんなに体が強いほうではなく、小さなころからしょっちゅう熱を出していた。高校に上がるまでは、年に数回は熱を出して学校を休んでいた。大人になってからは、熱を出す回数は減ったものの、代わりに一回にくる体調不良の重さが重症なものとなってしまった。

自分で気づかないところで疲れが溜まっていたのか、熱はあっという間に四十度近くまで上がり、私はベッドでただ横になることしかできなかった。ひたすら寒かった。寒さでガタガタ震え、汗も止まらなかった。

具合が悪くなると、悪いことしか考えられなくなってしまう。

寂しい。悲しい。自分が嫌い。

何が寂しくて、何が悲しくて、どうしてこんなにも自分が嫌いなのか、自分でも分からない。けれども、とにかく、寂しくて、悲しくて、自分の嫌いなところばかりが頭に思い浮かんでくるのだ。そんな冷たくて重い感情に、心が支配されていってしまう。

暗い寝室のベッドで一人、目を閉じて横たわっていると、果てしない孤独も感じる。

寝室のドアを隔てた向こう側には彼がいて、私は独りじゃないはずなのに、世界に自分一人しかいないような感覚に陥ってしまう。

あぁ、怖い。

私の内側からも、ぽろぽろと私のピースがこぼれていく感覚。

私というパズルが、崩れて、消えていく。

空虚。虚無。

私は誰で、私は何?

私は、自分のピースが無くならないように、崩れた個所を両手で抑えるのだが、否応なく、私が「私」であるために、必死で築き上げてきたものが、指の隙間から、零れ落ちていく。

「大丈夫?」

体がベッドに沈み込んでいく。私はこのままベッドさえも突き抜けて、この世界とは違う暗闇の底に落ちていってしまいそうだった。落ちていった先で、バラバラになりながら、乾いた土のように砕けて、最後は砂粒になって消えていってしまいそうな、そんな恐怖に心が侵食されそうになっていたとき、タイミングよく彼が卵粥を作って持ってきてくれた。

隠し味に味噌を使った、私が唯一、彼に伝授したレシピ。私は、体を起こし、壁に背中を持たれて、何とか座位を維持しようとした。

私が具合を悪くしている場合じゃないのに。今は、私が彼を気遣ってやるべきなのに。具合なんか悪くして。何もできない自分が、嫌になる。

彼は両袖を腕まくりしていた。右腕の植物に目をやると、こころなしか元気がなさそうだった。

「お粥、作ってきたよ。食べられそう?」

 私は、体も心も疲れてしまって、声に出して返事をすることができず、こくんと小さく頷くことしか出来なかった。

 彼は、ベッドの隣においてあるローテーブルに、卵粥が入った土鍋をトレイごと載せた。土鍋のふたを開けると、もくもくと熱い湯気が立ちのぼり、それと同時に、ふわっとかつおのお出汁の良い香りがした。お腹は空いていないように思っていたけれど、その香りでお腹が空いてきて、口の中で唾液がじんわりとにじんできた。そして、土鍋に入った卵粥をスプーンで掬って、一緒にトレイに載せてあった私のお茶碗に移した。

 彼とおそろいの、百均で買ってきたお茶碗。今日は、彼は一人でご飯を作って、一人でご飯を食べたのだろうか。申し訳なさで、心が苦しくなる。

「ごめん、思ったよりも、あつあつにできてしまったみたいだ。少しずつ、冷まして食べてごらん。」

 彼に渡されたお茶碗とスプーンを受け取って、お茶碗から卵粥を一さじ掬い、ふう、ふうと息をかけながら冷ました。彼は、ベッドの隣の椅子に腰かけて、私が食べるのを見守っている。

 ふう、ふう。ふう、ふう。

 けれど、だんだんと息が震えてしまい、スプーンに上手に息が当たらなくなってしまって、なかなか冷めてくれない。そして、涙がこぼれた。

これは、何の涙なのだろうか。

安堵なのか。それとも、本当は私が彼に何かしてあげなくてはいけないのに何もできない自分への悔しさなのだろうか。

自分でも、分からないが、体の具合が悪いと、心の具合も悪くなってしまう。こんな弱い自分ではだめだと思うのに、弱いままになってしまう自分が、悔しくて、悲しい。

涙は、ただ、ぽろぽろと、こぼれていく。

彼は隣で、ただ背中をさすった。彼の手から伝わる無音の魔法の言葉たちは、私の中で固く凝固した石をゆっくりと温めながら、溶かしていく。

彼の指が、優しく私の頬を伝った涙を拭った。何も言わずに、拭った。彼の指先の温かさが頬に触れるたび、零れる涙は増えていく。私は、感情に抗うことを諦め、涙をこぼし続けた。頬を涙で濡らしながら、彼の作った卵粥を食べた。

その卵粥は、いつもよりもしょっぱい味がした。 

夕飯をなんとか食べ終え、しばらく横になっていたら、彼がまたやってきた。その時にはもう、私の涙は止まっていた。涙の跡で目の周りが乾いて、まつげにも目やにがこびりついている。

「これ、飲んでみて。」

コップに入った水とともに、何かが包まれた紙を渡された。手のひらにすっぽり収まるくらいのサイズの、五角形に折り込まれた紙の中を開くと、銀色の粉末が入っていた。

「これ、何?」

「うん、ちょっとね。」

彼は、はぐらかした。先ほどまでは袖をまくっていたのに、今は袖を下している。

「いや、具合悪いときに怪しいものは飲みたくないんだけど……」

 まだ、熱も高いし、体もだるい。これ以上具合を悪くするのは、身体的にも精神的にもきついものがある。唇もかぴかぴに乾いてきた。

「ああ……、いや、大丈夫。これは、薬だから。これを飲めば、すぐに治るから……。だから、飲んでほしいんだけど……。どう、かな?」

 彼にしては珍しく、はっきりとしない物言いだった。どうしたのだろうか。何か、隠しているのだろうか。彼の態度に疑問に感じたが、頭がうまく働かなくて、質問をぶつけてその答えを聞いて、それをもとに熟慮する体力が今の私にはなかった。でも、一つだけ、間違いのないことははっきりと分かっていた。


彼は、言うことはめちゃくちゃだけれど、私が嫌がるようなことは絶対にしない。彼の起こす行動には、私を大切にしたいという想いがいつも込められている。


その真実は、地球は丸いとか、夜が明けたら朝が来るとかいうことと同じくらい当然のこととして、私たちの間にどっかりと鎮座している。

彼はもともと人の気持ちを察することに長けていている人物だ。私がはっきりと言わなくても、私が何で困っていて、何が必要なのか気が付いて、手を差し伸べて、側にいてくれる。

そして、彼は真っ直ぐな人だ。いつも、自分の思いを口に出して伝えてくれる。それは、決して押しつけがましいものではなかった。しかし、遠慮しすぎていることもなかった。彼は、その辺が非常に上手な人なのだ。ほんのちょっと、私の心の扉が開いたときに、コンコン、とノックして、「こんにちは、どうですか」、と扉の前に立つ。心の部屋には、まだ、入らない。そして、私が、遠慮がちに「こんにちは」、と返すと、「どうぞ」、と、手のひらに、たんぽぽの綿毛のように、白くてフワフワとした触り心地の良い暖かい何かを載せて、私に差し出すのだ。

いつも自信がなくて、彼の気持ちを受け取ってよいものか迷っていた私の気持ちに合わせて、少しずつ、少しずつ、伝えてきてくれた。私は、私の心の準備が整うのをいつも待ってくれている彼に感謝している。

そんな、彼なのだ。深い海のような人なのだ。そんな彼が、いきなり私に不利益なことをするとは到底考えられない。頭はもうろうとしているが、彼は何か隠してはいるけれど、その薬が私に良い影響を与えることは信じてよいのだろうと確信的に思う。私の中に蓄積している「タンポポの綿毛のような何か」が一斉に震えて、そう訴えかけてくる。

一体、どこでこの薬を手に入れたのか謎だったし、その効果も怪しいと思ったけれども、彼と私の間に大仏のように静かにどっかりと座っているこの真実は、この程度のことでは揺らがない。私は、彼に言われるがままに薬を飲んだ。

冷たい水を頑張って口いっぱいに含み、上を向いて、口を開けて、そこに、彼が持ってきてくれた粉を注ぎ込む。そして、口を閉じて、ごくんと飲み込んだ。冷たい水が、焼けるように熱くなった喉元を、冷やしていく。無味無臭のその粉は、食道を通り、胃に落ちた。特に、変な感覚はなかった。

薬を飲んで、私はまた、横になった。

私が眠りに付くまでの間、彼は私の手を握ってくれていた。彼の手の持つ熱と肌の感触が少しくすぐったくもあり、心地よくもあった。

たった、それだけ。

たったそれだけで、私の心の部屋の空気は、暗くて、冷たくて、重かったのに、柔らかく、温かい空気になってしまうのだ。

彼は、本当は魔法使いなんじゃないか。

高熱だからだろうか。柄にもなく、そんな、子供じみた、ありもしないことを考えながら、深い眠りに落ちた。


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