はじまり
結婚するなら、病気のない人にしなさい
高校生の時、帰りの電車の中でクラスメイトの男子と話していたら、近くに座っていた知らないおばさんに突然、そう声を掛けられた。
ロングシートの端っこに私が座って、クラスメイトの彼が、私の目の前で吊革につかまって立った状態で、二人で話をしていた。知らないおばさんは、私と一つ席を空けたところに座っていて、買い物帰りなのか、食品が入っていると思しきエコバックと、ドラッグストアの店名が入ったビニール袋を、自分の足元に置いていた。
田舎の夕方の電車には学生かお年寄りがまばらにいるだけだった。
皆、居眠りをしていたり、こそこそと周りに気を遣いながらおしゃべりしていたりしていた。私が座っているロングシートには、私と、その知らないおばさんしか座っていなかった。
私と彼はただのクラスメイトで、そういった関係ではなかったので、内心、なぜ私に?なぜ突然?と思ったが、あまりに真剣そうな顔だったので、適当に受け流そうにも受け流せず、彼女の話を聞くことにした。
私はね、早くに旦那を亡くして、とても苦労したの。大変だったわ。一人息子もまだ幼くてね。一日中、汗水垂らして働いていたわ。お給料がそんなに良いところじゃなかったからね。家のことなんか、ろくに出来やしなかった。子供が熱を出しても看病なんてしてあげられなくて。
高校生の私にとっては割と重めな内容に戸惑いつつも、それは、その、そうなんですね、大変でしたね、と、私は持てる語彙力をもって最大限相手を気遣う相槌を打った。
一方で、一緒にいたクラスメイトの彼は、自分には関係ないとばかりに携帯を弄り始めた。何度も助けを求めるために目配せをしてみるも、彼は一向に私と目を合わせる気はなさそうだった。
困った。これでは、私がしっかりと話を聞くしかないではないか。
私は、クラスメイトの男子の幼さに苛立ちを覚えつつ、彼女の話に相槌を打ち続けた。
旦那との出会い、死別、自身の出産、育児……彼女は今までの人生がどれだけ大変だったかについて、熱を込めて語った。
旦那とは、大学で出会ったのよ。運命的な出会いだったわ。たまたま同じ講義を受けていて、たまたま隣の席になって、たまたま私が筆記用具を忘れてしまって。まだ、入学したばかりで、友達もいなかったから、どうしていいか困っていて。そうしたら、彼が先に話しかけてくれたの。小さい声で、『どうしたの?大丈夫?』って。もう授業は始まっていて、みんな、ノートを取り始めていたわ。私、自分が恥ずかしかったの。しっかりと準備をしなきゃいけなかったのに、それができなかった自分が、恥ずかしかったの。だから、自分から赤の他人の人たちに『忘れちゃったので、貸してください』って言えなかったの。だって、もし、その話しかけた相手に、『こいつ、授業の初日なのに忘れ物したのか』って思われでもしたら、もっと恥ずかしいから。でも、彼が、声を掛けてくれた。しかも、教室の他の人達に気づかれないように、声を潜めて。私がこれ以上、恥ずかしくて気まずい思いをしないように気を遣ってくれたことが、素敵だな、と思ったのよ。その後の私達の関係は、とんとん拍子で進んでいったわ。大学を卒業した後、私達はすぐに結婚した。私は専業主婦で、彼は給料はそんなに高くはない企業の勤めだったけれども、あの時代には珍しく、残業もほとんどしないで、土日もずっと家にいて、一緒に料理をしたり、買い物をしたり、掃除をしたりしていたわ。特に、料理については彼の方が上手でね、土日の朝ご飯は彼が必ず作ってくれていたの。そうして二人だけの日々を送っている中で、私は新しい命を宿したの。私と、彼の、二人の子を。私達は、手を取り合って、泣いて喜んだわ。どういう名前にしよう、どういう子育てをしよう。二人で、たくさん話したわ。特に彼は、小さい頃に父親を亡くしていたから、父親というものがどういうものかイメージが湧かなくて、自分が父親になれるか不安だったみたい。でもね、子供が生まれたその日から、彼はもう、立派な父親だったわ。可愛い、可愛い、って。目に入れても、全然痛くなんかない、って。おむつ替えから離乳食作りから、全部を彼がやっていたわ。母親の仕事を奪わないでよ、って言ったら、彼、こう言ったの。『僕は、僕のすべてを君とこの子にあげたいんだ』、って。限りある命のすべてを、君とこの子に捧げたいんだ、って。いっぺん通りな言い方かもしれないけれど、幸せだと思った。いつまでも、この幸せが続くと思った。でも……。
彼女は、口をつぐんだ。 彼女は、情熱的な人のようだった。
彼女が、彼女の旦那について語るたび、彼女の頬が上気していった。話しかけられたとき、彼女の見た目は、私の母親よりも年上で、少し疲れたように見えたのだが、今は、二十歳くらいの、恋のエネルギーに満ち溢れた、艶やかな肌を持つ女性に見えた。
彼女の口から紡がれる、熱い言葉の数々が、真っ赤な糸となり、それらの糸から、温かい布が幾つも幾つも、織り上がっていく。
私は、彼女の話を聞きながら、何とも言えない、不思議な気持ちになっていた。家族でもない赤の他人の人生を、一から十まで聞くなんて、そんな経験、私には初めてのことだった。一体全体、私は、彼女の熱い糸によって織られた布の柄を、どんな気持ちで眺めればいいのだろうか。
その答えを一瞬で出すことはできなかったが、しかし、彼女の話を強く拒絶することもできず、とりあえず、相槌を打ち続けようと思った。
沈黙が続く。
電車がちょうど林の中に入り、車内が急に暗くなった。そして、ガタンゴトン、と電車が揺れる音が、普段よりも強く、叩くように、鼓膜を震わせた。
でも、彼は突然、死んでしまった……。
……。そう、なんですね……。
その後に続けるべき適切な言葉を、私は知らなかった。「ご冥福をお祈り申し上げます」という言葉は知っていたが、それは今使うべきものなのか、私には分からなかった。
また、沈黙。
彼女は、今まで私の目を見ながら話していたが、急に目を伏せ、自分の膝の上に綺麗にそろえられた手をじっと見つめた。そして、何かを耐えるように、自分の右手を自分の左手で、ぎゅっと固く握った。そして、何かを耐え終わった後、目線を上げ、向かいの窓の向こうの、どこか遠くを懐かしげに見つめた。
彼がいなかったから、子育ては大変だった。あの子は、よく泣く子だった。優しくて、大人しくて、気が弱かったからか、学校のお友達から嫌がらせを受けることも多くてね。優しいがゆえに、言い返せなかったのね。自分は傷ついても、だからと言って仕返しに、自分の言葉で、他人を傷つけたくなかったんですって。でも、友達からの嫌がらせは嫌だから学校に行きたくない、って何度駄々をこねられたことか。外で遊ぶよりも、中で静かに遊ぶのが好きな子だった。おままごと、とかね。あと、本を読むのが好きな子だった。小説も読むけど、少女漫画も好きだったわ。父親に似て、料理も好きで、お菓子もよく一緒に作ってた。学校も、学年が上がるにつれてだんだんと慣れてきたみたいで、家に友達を連れてくることも増えてきて。ま、全てが上手くいくことばかりじゃ、なかったけれど、それでも、立派に大学を卒業して、今は真面目に会社に勤めているのよ。無事にわが子が巣立って、今はそんな人生を幸せと思えるわ。だけど……。
そうして彼女はまた、何かを噛みしめるように、きゅっと口元を結んだ。
だけど……。
私は、彼女のその言葉に続く思いを、考えた。けれど、答えは出なかった。
当時の私は、「愛」を考えるにはまだ幼くて、辞書に載っているような定義は言えるけれども、実感を得たものとして感じることは出来なかった。
色々な思いを、思い返していたのだろうか、また、長い沈黙が流れた。そして、彼女はもう一度私を見つめ、話の最後に、彼女はこう締めくくった。
だから、結婚するなら、病気のない人にしなさい。本当よ、本当だからね。
夕方の田舎の電車の車内には、和やかな雰囲気が流れているはずなのに、私達のところだけ、異様な緊張感に包まれているような気がした。
彼女の真剣な眼差しが、私を捉えて離さなかった。
夕日が差し込み、彼女の顔が照らされる。
彼女の瞳は、ドキッとするほど綺麗な、翡翠色をしていた。
高校生の時にした、そんな少し不気味な(?)経験は、長い間、忘れ去られて埃をかぶっていたけれど、この度、その埃を振り払い、懐かしく思い出すこととなった。
今の私には、将来を共にしたいと考える人が、いる。
この場合、「結婚したい人」ではない、ということを強調せねばなるまい。
恐らく、中学生のころからだろうか。私の恋愛観が一般的なものと比べて少々特殊なものであるらしい、と気づき始めた。
同性が好き、とか、極端に年上が好き、とか、そういう話ではなく、私の恋愛観は、微妙に、世間一般とずれているのだ。
年の近い友人にその話をしようと思ったことは、一度もない。
自分とは全く異なることは受け入れがたいが、自分とは微妙に異なるものも、正確に理解し、受け入れることはもっと難しいからだ。
小さい時から、自分の精神年齢は、周囲の同級生よりも五歳ほど年上なのだろう、という自覚があった。それもあって、自分のこの微妙なずれを人に話したことはなかった。
子供っぽく、自分とは全く異なる価値観の人間を受け入れられるほどの許容量もない彼らが、私のことを理解する、とまではいかなくとも、そのまま受け入れてくれるとは到底思えなかったから。
私は、早々に、私の人生に、私の理解者もしくは受容者が現れることを諦めていた。
私にそんな人ができることなんて、ないだろうなあ、と思っていた。
そんな風に、早い段階から周囲の人間や自分の人生に見切りをつけていたから、今の自分が、当時の自分が想定していたものと真逆な状況になっていて、人生とは分からないものだな、と思っている。
まだ、両親を始めとした家族には、彼の存在は伝えていない。彼もまだ、私のことは彼の家族には話していないようだった。
「そんなに急いで伝えることでもないんじゃないかな。そもそも、お互いの親の了承を得なくてはいけないようなことでもないし。それに、家族になるのは僕達で、だからといって、お互いの家族が仲良くしなくちゃいけないわけでもない。まぁ、籍を入れるかどうか、という話し合いも必要だし、しばらく経って僕たちの中である程度の結論が出たら報告するくらいでもいいんじゃないかな。たぶん、僕の親もそれで許してくれると思うよ。」
私達の将来に関してはこのような、あまり常識に囚われすぎず、私達二人にあった形を一緒に模索してくれた、私よりも八つ年上の彼は、一見まじめで、頼りがいがあって、とてもまともな人間のように見えるが、決してそんなことはない。
正直、ちょっと変わっている。
あるとき、私が掃除をしていると、いきなりロックな音楽をかけだした。
掃除機の音よりも大音量にかけるから、私はそれ以上の音量でやめて、音楽を止めて、と叫ばなければならなかった。なぜ音楽をかけたのか尋ねると、
「つまらない掃除も、音楽があれば楽しくなるだろ?そして、テンションをあげるにはロックが一番だ。ロックなら、掃除機の音とセッションしても、全く違和感はないからね。ロックに必要なのは、綺麗な音じゃなくて、魂だ。ライブ会場と同じだよ。音楽を大音量でかければ、みんなその歌を知らないけれど、自分で気づかないうちにテンションが上がって、最後はノリノリ。そして、何をやっても楽しい気分になる。さ、ロックな気分で一緒に掃除機をかけて、拭き掃除をしよう。」
またあるときは、私がゆっくり読書をしていると、がさごそと収納スペースから掃除用具を取り出して、新しいゴム手袋を手に嵌め、トイレや洗面所などの水回りをピカピカに磨き始めた。前日に掃除したばかりだというのに、メラニンスポンジやらアルカリ電解質やら何種類ものスポンジとスプレーを用意して、汚れに応じて適宜それらを使い分けながら、水垢や油汚れを隅々まで完璧なまでに落としていった。
いきなりどうしたのかと尋ねると、
「悪いものを流すためだよ。さ、徹底的に悪いものを流してやる。覚悟しろよ、悪しき者たちよ。この僕がお前らをこてんぱにやっつけてやるからな。」
それが私の読書と何が関係あるのか分からないが、とにかく彼は私が読書を始めると、決まっていつも以上に気合を入れてトイレ掃除を始めるのだ。
極めつけは、ある日突然、何の前触れもなく、
「今日は記念日だから」
と、花を買ってくることだ。
初めて、彼が突然花束を買ってきた時、私は困惑した。
その日はお互いの誕生日でも、バレンタインでもホワイトデイでもなんでもない日だったのだ。けれど、彼は自信満々に記念日と言っているから、自分が忘れているだけなのかと思い、何の記念日なのか尋ねてみると、
「ちょうど新しい記念日を作りたかったんだ。だから今日は記念日創立記念日さ。」
そう言って、彼は普段は仕舞ってある花瓶を取り出し、剪定ばさみで手際よく茎やら葉っぱやらをほど良い長さにカットして、とても素敵な具合に食卓の上に生けてしまうのだった。
そんな調子なので、私達には記念日創立記念日がその一からその五まである。多くてもややこしくなるだけなのに、彼は絶対に記念日創立記念日を忘れることなく、面倒なことにさらに増やそうとさえしている。
こういった説明をしてしまうと、彼は変人で、面倒な人間のように思われてしまうかもしれないが、しかし、彼が人を思いやることができる、優しい心を持った人間であることは補足説明として、しっかりと付け加えなくてはいけない。
私が落ちこんで塞ぎ込んでいると、彼は私の心のドアをコンコン、とノックして、こそっと中を覗き込む。そして、その中がどんなに暗くて汚くても、彼は汚物に塗れて力無く座り込む私を必ず見つけ出し、そっとその汚れを払って、抱き締めてくれるのだ。
彼は、変わっている。でも、だからこそ、私に唯一の経験を与えてくれると感じている。唯一無二の、私だけの、何か。私が幼い頃から渇望したものを、彼は私に与えてくれる。そんな気がしている。
魔法を使って空を飛ぶだとか、そんなことに憧れた日もあったけれど、そんな突飛なことでなくても、彼は私を満たしてくれる気がした。
彼は、やっと手に入れた、私しか持ち得ない、私が私であるための、唯一の何かなのであると、そう、胸の奥から感じている。。
そんな彼が、奇病に罹った。