第9話:キャンプの夜と小さな友情~エリートへの共同戦線(?)~
昨夜の、あの小さな「できた!」という達成感。それはまるで、真っ暗闇の中でほんの一瞬だけ灯ったマッチの火のように、ささやかだけれど確かな温もりを俺の心に残していた。
もちろん、それで俺の脳みそが劇的にバージョンアップしたわけではない。翌日の授業では相変わらずチンプンカンプンだし、英文は相変わらずミミズの大群にしか見えない。だが、以前とほんの少しだけ違ったのは、「もうダメだ、終わりだ」と即座に白旗を揚げるのではなく、「くそっ、この単語の意味なんだっけ…昨日見たはずなのに!」と、ほんのわずかだけ粘りを見せるようになったことだ。物理的な進歩は微々たるものだが、精神的には大きな一歩…かもしれない。
その日の夕食時、食堂はいつものように戦場の休息といった雰囲気に包まれていた。俺がトレーを持って空いている席を探していると、隅の方のテーブルで鈴木君が一人、山盛りのご飯を前に難しい顔で参考書を広げているのが見えた。その隣には、なぜか橘さんもいて、静かにお茶を飲んでいる。
「…よう」
俺が声をかけると、鈴木君はビクッと肩を震わせ、橘さんは涼しい顔でこちらを一瞥した。
「あ、佐伯君…」
「隣、いいか?」
「うん、どうぞ…」
こうして、Gグループの面々が、図らずも夕食のテーブルを共にすることになった。
最初は、お互いに何を話していいか分からず、食器の音だけが響く気まずい時間が流れた。この沈黙を破ったのは、意外にも鈴木君だった。
「今日の…数学の演習、マジで鬼畜じゃなかった…? 僕、最初の問題で完全に心が折れたよ…」
その言葉に、俺は思わず勢いよく顔を上げた。
「だよな! あれ、絶対東大レベルじゃねえって! 鬼畜っていうか、もはや悪魔の所業だろ! つーか、五十嵐のヤツ、あの問題スラスラ解いてやがったぜ! しかも、なんか鼻で笑ってたし! マジでムカつく!」
俺が興奮気味にまくし立てると、橘さんが静かに口を挟んだ。
「彼は確かに頭の回転が速いわね。でも、彼の解き方は少しトリッキーというか、基礎を疎かにしていると足元を掬われそうな危うさも感じるけど」
「え、橘さんでもそう思うんスか?」
「まあ、それでも私よりはずっと先を行っているのは間違いないわ」
橘さんはそう言って、ふっと息を吐いた。その横顔には、いつもの冷静さとは違う、ほんの少しの焦りのようなものが滲んでいるように見えた。
「僕なんて、五十嵐君と比べる以前の問題だよ…」
鈴木君が、力なくご飯をかきこみながら呟いた。「C判定から、一向に抜け出せないんだ。親にも、予備校の先生にも、『このままじゃ厳しい』って言われ続けてて…もう、何をやってもダメなんじゃないかって、最近思うんだ…」
その声は、絞り出すようで、聞いているこっちまで胸が苦しくなる。
「…橘さんは、A判定とか余裕なんでしょ? だから、五十嵐のことも冷静に分析できるんスよね」
俺が少しひがんだように言うと、橘さんは俺の目をじっと見つめた。
「私は、現役の時はE判定だったわよ」
「ええっ!?」
俺と鈴木君は、思わず声を上げた。
「まあ、色々あって、本気で勉強を始めたのが遅かったっていうのもあるけど。だから、浪人してようやくここまで来たの。でも、もう一年は失敗できない。そういうプレッシャーは、常にあるわ」
普段のクールな彼女からは想像もできない言葉だった。誰もが、それぞれの戦いを抱えているのだ。
「…俺なんか、スタートラインにすら立ててねえけどな」
俺は自嘲気味に笑った。「でも、桜…いや、ある人に、東大行くって約束しちまったから、簡単に『やっぱ無理でしたー』なんて言えねえんだよ。カッコ悪すぎるだろ、それじゃ」
勢いで言ってしまったが、それは紛れもない本音だった。桜井先生の美しい顔が脳裏をよぎる。
しばしの沈黙。
それを破ったのは、またしても鈴木君だった。
「佐伯君も…橘さんも…みんな、頑張ってるんだね。僕だけじゃないんだ…」
その目には、うっすらと涙が浮かんでいるように見えた。
「鈴木君は、あれだけノートびっしりに書き込んで努力してるんだから、絶対に結果はついてくるわよ。今は辛抱の時よ、きっと」
橘さんが、優しい声で言った。その声は、いつもの彼女とは少し違う、温かみのある響きだった。
「そ、そうだよな! 俺なんかより、よっぽど頑張ってるしな! 俺も、昨日初めて、英語の問題が一個だけ解けたんだぜ! まあ、中学レベルだけどな!」
俺が照れ隠しにそう言うと、鈴木君が「本当!?」と顔を上げ、橘さんもほんの少しだけ口元を緩めた。
「…じゃあさ」
俺は、なぜか急に大胆なことを思いついた。
「この合宿の最後に、なんかテストみてーのがあるらしいじゃん? そこで、五十嵐よりは無理でも、せめて…せめて俺らGグループの平均点くらいは超えようぜ! 目指せ、脱・最下位グループ!」
「え…」
鈴木君が戸惑いの表情を浮かべる。
「いいんじゃないかしら、それ」
意外にも、橘さんが賛同してくれた。「具体的な目標があった方が、頑張れるものね。もちろん、私はトップを狙うけど」
「よーし、決まりだな! 打倒・五十嵐…はまだ無理でも、打倒・昨日の俺たちだ!」
その夜、合宿のプログラムで小さなキャンプファイヤーが催された。パチパチと燃える炎を囲み、俺たち三人は、ジュースを片手に他愛ない話をしていた。好きな音楽のこと、地元のこと、そして、将来の夢のこと。
鈴木君は、医者になって多くの人を救いたいと言った。橘さんは、国際的な舞台で活躍できる仕事に就きたいと語った。俺は…まあ、その場のノリで「石油王!」とか言ってお茶を濁したが。
相変わらず勉強は物理的にキツいし、五十嵐は相変わらずムカつく。でも、一人じゃない。そう思えるだけで、不思議と心が少し軽くなっているのを、俺は感じていた。
この小さな、本当に小さな友情の炎が、俺たちの凍えそうな心を、ほんの少しだけ温めてくれている。
それが、この地獄のような(でも、もしかしたら悪くないかもしれない)サマーキャンプで得た、一番大きな収穫なのかもしれない。