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第8話:「教わる」だけじゃ伸びない!~自習室の戦いと、初めての「できた!」~

Gグループでの演習は、俺にとって苦行以外の何物でもなかった。橘さんは涼しい顔で難解な問題を解き進め、鈴木君は血の滲むような努力で食らいついていく。その一方で俺は、英文を前にすれば深海魚のように意識が沈み、数学の問題を前にすれば宇宙人に遭遇したかのようなパニック状態に陥る。もはや、グループのお荷物、いや、産業廃棄物レベルだ。

そんな絶望的な午後の演習が終わり、夕食と短い休憩を挟んで、夜は自習時間となる。大広間に集められた俺たちは、それぞれ指定された席で、黙々と机に向かうのだ。もちろん、俺は開始五分で、得意の「意識だけ異世界トリップ」を発動させ、ノートの隅に壮大なファンタジー漫画を描き始めていた。主人公は、もちろん俺。必殺技は「エターナル・スリープ・スラッシュ」だ。

ふと顔を上げると、通路を挟んだ隣の席の鈴木君が、鬼気迫る表情で分厚い数学の参考書とにらめっこしていた。額には汗が浮かび、メガネの奥の目は充血している。時折、「うーん…」「ああ、また間違えた…」と小さなうめき声を漏らしながらも、決してペンを止めようとはしない。彼のノートは、黒と赤のインクでびっしりと埋め尽くされ、まるで戦場の地図のようだ。

その向こう、少し離れた席には橘さんの姿があった。彼女はストップウォッチを机に置き、時間を区切って猛烈な勢いで英語の長文を読んでいる。時折、眉間に皺を寄せ、何かを考え込むようにペン先を唇に当てる仕草は、真剣そのもの。間違えた問題には、細かく何かを書き込み、丁寧に分析している様子が見て取れた。その集中力は、まるで周囲の音を一切遮断する透明な壁に覆われているかのようだ。

(こいつら…マジで、戦ってるんだ…)

俺は、自分のノートに描いた勇者(俺)の情けない顔と、彼らの真剣な横顔を見比べた。桜井先生に言われた言葉が、脳裏に蘇る。

『私が教えるのはあくまでヒントや道筋だけ。本当に力をつけるのは、翔太君自身が手を動かして、頭を使って、何度も繰り返すことなのよ』

『受験勉強はね、ある意味で「脳のレベル上げ」なのよ。そして、レベル上げには、適切なトレーニングと、少しずつの負荷が必要なの』

今まで俺は、桜井先生に「教えてもらう」ことばかり考えていた。先生の美しい顔を見て、あわよくば褒められたい、そんな不純な動機だけで、勉強そのものには全く向き合っていなかった。でも、こいつらは違う。誰かに教えてもらうんじゃなく、自分の力で、必死に目の前の壁を乗り越えようとしている。

(もしかして、勉強って…ただ授業を聞いてるだけじゃ、物理的にダメなんじゃね…?)

その当たり前すぎる事実に、俺は、この合宿に来て初めて、心の底から気づいたのかもしれない。

カバンの中から、クシャクシャになった英語の基礎ドリルを取り出す。桜井先生から「来週までに半分」という課題を出された、あの忌まわしきドリルだ。正直、もう見たくもなかった。でも…。

(あの五十嵐ってヤツに、あんなにコケにされたままじゃ、終われない…!)

理由は不純かもしれない。でも、今は何でもいい。俺は、生まれて初めて、自分の意志で「勉強してみよう」と思った。

ドリルを開く。相変わらず、英文は呪文にしか見えない。数行読んだだけで、いつものように強烈な睡魔が襲ってくる。何度もスマホに手が伸びそうになるのを、必死で堪えた。分からない単語だらけで、小さな辞書を引くのにも一苦労だ。一つ調べている間に、さっき調べた単語の意味を忘れる始末。脳みそが、物理的に情報を記憶することを拒否しているかのようだ。

「くそっ…なんでこんな簡単なことも分かんねーんだよ…!」

何度、ドリルを投げ出しそうになったか分からない。心が折れそうになるたびに、視界の端に入る鈴木君の必死な姿や、橘さんの静かな集中力が、なぜか俺を繋ぎ止めた。「あいつらも、苦しみながらやってるんだ…俺だけ逃げるわけにはいかねえ…」

どれくらいの時間が経っただろうか。

俺は、ドリルの最初の数ページを、何度も何度も、ブツブツと声に出しながら読んでいた。意味なんて分からなくてもいい、とりあえず音読だ、と桜井先生も言っていた気がする。

すると、ふと、今までバラバラの記号の羅列にしか見えなかった短い英文が、まるでパズルのピースがハマるように、スッと意味のある言葉として頭に入ってくる瞬間が訪れた。

「あれ…? This is a pen. …これは、ペンです…? I have an apple. …私は、リンゴを持っています…?」

中学一年レベルの、あまりにも基本的な例文。でも、今まで何度見てもピンとこなかったその意味が、今、確かに俺の頭の中で像を結んだのだ。

「も、もしかして…」

俺は震える手で、ドリルの隅にある、本当に簡単な確認問題を解いてみた。

「Q1:空欄に適切な be動詞を入れなさい。 I ( ) a student.」

(えーっと、I の時は… am か? is だったか…? いや、am だ!)

祈るような気持ちで、解答欄に「am」と書き込む。そして、巻末の解答ページを、息をのんで確認する。

――正解。

たった一問。本当に、誰でもできるような、簡単な問題。

でも、それは、俺が初めて「自分の力で」考え、そして正解にたどり着いた問題だった。

その瞬間、じわじわと、胸の奥から熱いものがこみ上げてきた。

それは、今まで味わったことのない種類の、純粋な喜びだった。

「…で、できた…」

思わず、声が漏れた。そして、気づけば俺は、小さく、本当に小さくガッツポーズをしていた。その瞬間、本当に体がカチリと音を立てて、何かが変わったような、そんな気がした。物理的に、何かが変わったわけではないだろうけど、確かに、俺の中で何かが震えたのだ。

この小さな、本当に小さな成功体験が、俺の中で何を変えるのか、変えないのか。

それはまだ、分からない。また明日には、いつものダメな俺に戻っているかもしれない。

でも、今はただ、この胸の高鳴りを、もう少しだけ感じていたいと思った。

自習室の白い蛍光灯が、なぜか今日だけは、やけに明るく、そして温かく感じられた夜だった。

ふと、隣の席の鈴木君が、「うぉっしゃあ!」と、俺よりも少しだけ大きな声で喜びを噛み締めているのが聞こえた。彼もまた、何かを乗り越えたのかもしれない。

俺は、ほんの少しだけ、彼に親近感を覚えた。



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