第5話:「なぜできない?」脳科学的アプローチと(渋々の)自己改革宣言
桜井先生が残した「あなたならできると信じてるから」という言葉と、「できなければ参考書物理的撤去」という悪魔の宣告。その二つが、俺の頭の中で無限ループを繰り返していた。目の前には、先生から与えられた、中学レベルだというのに俺にとっては古代の暗号文書にしか見えない英語の基礎ドリル。
「くそっ…なんで俺がこんな…」
ページをめくる。びっしりと並んだ英文。アルファベットたちが、まるで集団で俺を嘲笑っているかのように見える。数分格闘するも、脳みそが全力で理解を拒否。気づけばシャーペンを指でクルクル回し、窓の外を飛ぶカラスの数を数え、最終的にはスマホに手が伸びていた。我ながら、進歩という言葉を知らない男だ。
そして、運命の授業日。
先生は、俺が差し出したほとんど真っ白なドリルを一瞥し、それから俺の顔をじっと見つめた。その表情は、怒っているわけでも、呆れているわけでもない。まるで、難解なパズルを解こうとしている科学者のような、静かで真剣な眼差しだった。
「翔太君、少し話があるの」
先生はドリルをテーブルに置き、俺に向き直った。その雰囲気から、いつものようなお説教ではないことを察する。
「翔太君が、勉強に集中できなかったり、内容がなかなか頭に入ってこなかったりするのはね、単に『やる気がないから』とか『根性がないから』っていう精神論だけが原因じゃないかもしれないのよ」
「へ? そうなんスか?」
俺は意外な言葉に、思わず間の抜けた声を上げた。てっきり、「またサボったわね!」とカミナリが落ちると思っていたからだ。
先生は小さく頷き、まるで大学で講義でもするように、ゆっくりと話し始めた。
「人間の脳って、すごく複雑で、そして正直なの。例えば、新しいことを学んだり、慣れない作業をしたりする時って、脳はものすごくエネルギーを使うのよ。翔太君が今まであまり勉強してこなかったとしたら、脳にとって『勉強する』という行為は、いわば未開のジャングルを切り拓くようなもの。最初は道もなくて、すぐに疲れてしまうのは当然なの」
ジャングル…確かに、俺の頭の中はそんな感じかもしれない。
「それに、集中力っていうのも無限じゃないの。私たちの脳が一度に処理できる情報量には限界があるし(それをワーキングメモリって言うんだけど)、無理に長時間続けようとすると、かえって効率が落ちてしまう。無理やりエンジンを空ぶかししているようなものね」
先生は、難しい言葉を使いながらも、俺にも分かるように、丁寧に言葉を選んでくれているのが伝わってきた。
「だから、翔太君が2行で眠くなっちゃうのも、長時間集中できないのも、ある意味では脳の正常な反応なのよ。新しい習慣を身につけるのだって、脳の中に新しい『道』を作るようなものだから、時間がかかって当たり前。最初はみんな、何度も同じところでつまづいたり、すぐに古い楽な道に戻りたくなったりするの」
先生の真剣な説明を、俺はポカンと口を開けたまま聞いていた。内容は半分も理解できていないかもしれない。でも、いつもと違う先生の雰囲気と、俺のことを真剣に考えてくれているその姿勢に、なぜか目が離せなかった。
「……つまり、あれっすか?」
しばらくの沈黙の後、俺の口から出てきたのは、我ながらアホみたいな質問だった。
「俺の頭が悪いんじゃなくて、俺の脳みそが、まだ『勉強モード』に慣れてないだけってことっスか? なんか、こう…ゲームのキャラも、最初はスライム倒すので精一杯だけど、経験値積んでレベルアップすれば、ドラゴンとかも倒せるようになるじゃないスか。それと同じで、俺の脳みそも、まだレベル1ってこと?」
先生は、俺のトンチンカンな例えに、一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐにパッと明るい笑顔になった。
「そう! まさにその通りよ、翔太君! 素晴らしいわ、その理解力! 受験勉強はね、ある意味で『脳のレベル上げ』なのよ。そして、レベル上げには、適切なトレーニングと、少しずつの負荷が必要なの」
「トレーニング…負荷…」
俺は先生の言葉を反芻する。
「…それって、あれか? 筋トレみたいなもんスか? いきなり100キロのバーベル上げようとしても無理だけど、軽いダンベルからコツコツやってけば、だんだん筋肉がついてきて、重いのも持てるようになる、みたいな? 俺の脳みそも、まだ貧弱な筋肉しかねえから、英文2行でぶっ倒れる、と」
「その通りよ!」
先生は嬉しそうに手を叩いた。「翔太君、あなた、例えの天才かもしれないわ! そう、まさに脳の筋トレ。だから、今の翔太君に必要なのは、無闇に長時間机に向かうことじゃなくて、短い時間でもいいから質の高い集中を繰り返すこと。そして、脳にきちんと栄養を与えて、しっかり休ませてあげることなのよ」
脳の筋トレ、か。
その言葉は、不思議と俺の中にスッと落ちてきた。根性とか努力とか、そういう曖昧なものじゃなくて、「筋トレ」なら、なんとなくイメージが湧く。きついけど、やればやっただけ結果が出る、みたいな。
「じゃあ、翔太君。まずは本当に小さなことから始めてみましょうか」
先生は、まるで新しいトレーニングメニューを提案するパーソナルトレーナーのように言った。
「例えば、15分だけ集中してこのドリルをやって、5分休憩する。これを1セットとして、まずは一日2セットから。どうかしら? 15分なら、なんとか頑張れそうじゃない?」
「15分…でも、5分休憩していいんスか?」
「ええ。その代わり、15分間は他のことは一切考えない。スマホも禁止。そして、食事もね、カップ麺やポテチばかりじゃなくて、お母さんに頼んで、お野菜やお肉、お魚が入った、バランスのいいものを作ってもらうようにしましょう。脳のガソリンも大切だから」
俺は腕を組んで、うーむ、と唸った。15分。たかが15分、されど15分。今の俺にとっては、エベレスト登頂くらい果てしない時間に感じる。でも…。
「……まあ、先生がそこまで言うなら…」
俺は渋々といった体で口を開いた。
「参考書、全部捨てられるよりはマシだし…それに、脳の筋トレってんなら、ちょっとだけ…ほんのちょっとだけ、やってやってもいいかなって…気がしないでもないでもない、みたいな…」
我ながら、なんとも歯切れの悪い宣言だ。
先生は、そんな俺の言葉を聞いて、満足そうに微笑んだ。
「ええ、それでいいのよ。最初の一歩は、小さければ小さいほどいいの。大事なのは、続けることだから」
こうして、俺の「脳の筋トレ(仮)」と、ちょっぴりだけマシな食生活への挑戦が、実に渋々ながらも、その第一歩を踏み出すことになったのだった。
果たして、俺の貧弱極まりない脳筋は、東大合格という名の超ヘビー級バーベルを、いつか持ち上げられる日が来るのだろうか?
道のりは、物理的にも精神的にも、そして俺の胃袋的にも、果てしなく遠い気がした。