第4話:参考書コレクターの憂鬱~積読ならぬ積ん勉マウンテン~
桜井先生の「物理的に不可能になるわよ」という最後通牒にも似た言葉は、鉛のように俺の心に重くのしかかっていた。あの悲惨な模試の結果と、先生の初めて見せる厳しい表情。ダブルパンチでKOされた俺は、数日間、抜け殻のようになっていた。
…というのは、ほんの少し大げさな表現で、実際には三日後にはケロッと立ち直り、「今回の失敗は、きっと俺に合う“神アイテム”がなかったからだ!」という、実に俺らしいポジティブ(ただのアホとも言う)な結論に達していた。そう、悪いのは俺じゃない、環境だ。勉強道具が悪いのだ。ドラクエだって、ひのきのぼうじゃ竜王は倒せないだろ?
「これだ…! この輝き、このオーラ…まさに聖剣エクスカリバー!」
俺は近所の大型書店の参考書コーナーで、目を血走らせながら運命の一冊(今週三冊目)を探し求めていた。そして見つけたのが、『イラスト満載!寝る前3分で東大脳が手に入る!奇跡の英単語記憶術』という、胡散臭さ満点のタイトルの単語帳だった。帯には「これで君も勝ち組!」という、もはや詐欺スレスレの煽り文句。
「これさえあれば、俺の脳みそもスーパーサイヤ人みたいに覚醒するに違いねえ!」
なけなしの小遣いをはたき、ホクホク顔でレジへ向かう。先週買った『ゴロで覚える爆笑日本史』と、一昨日買った『マンガで完全理解!萌える古文単語』の隣に、新たな仲間が加わるのだ。
そんなこんなで、俺の部屋には、美しい装丁の参考書たちが、まるで現代アートのオブジェのように積み上げられていった。自称「積ん勉マウンテン」。その高さは、日に日に俺の絶望的な学力を象徴するかのように、物理的に成長を続けていた。しかし、そのどれもが、最初の数ページに申し訳程度の折り目がついているだけで、中身は新品同様にピカピカだったのは、ここだけの秘密だ。
そして、桜井先生の授業の日。
先生は、俺の部屋にそびえ立つ新たな「積ん勉マウンテン」の一角(最新刊)に気づき、美しい眉をピクリと動かした。
「翔太君、また新しい参考書が増えたのね…。私が最初に渡した、中学レベルの基礎英語ドリルは、もう終わったのかしら?」
その声には、呆れと諦めと、ほんの少しの期待(おそらくすぐに裏切られるであろう儚い期待)が滲んでいた。
「いやー、先生、あれ、ちょっと俺にはレベルが合わないみたいで。硬すぎなんスよ、内容が」
俺は悪びれもせずに答える。
「それよりこっち!見てくださいよ、『ペンギンでもわかる!微分積分入門』! ペンギンですよ、ペンギン! これなら俺でもイケる気がしません?」
俺が自信満々に差し出した参考書の表紙には、タキシードを着た可愛らしいペンギンのイラスト。先生は、そのペンギンと俺の顔を交互に見比べ、深いため息を禁じ得ないといった表情を浮かべた。
「翔太君。参考書はね、たくさんコレクションすることが目的じゃないの。一つの教材を、それこそペンギンが魚を丸呑みするように、隅から隅まで、何度も何度も繰り返して、自分の血肉にすることが大切なのよ」
「でも先生、いろんな角度からアプローチした方が、知識も立体的になるって言うじゃないですか? サッカーだって、いろんなフォーメーション試した方が強い的な?」
我ながら見事な例え(のつもり)だったが、先生の表情は晴れない。
「…ちなみに翔太君、そのペンギンさんの本、どこまで進んだのかしら?」
先生が静かに尋ねる。
「え? ああ、それはですね…まだプロローグの、ペンギンと博士の感動的な出会いのシーンを熟読してるところで…」
「そう。じゃあ、試しにこの前のミニテストで間違えた、一次関数のグラフの問題、もう一度解いてみましょうか。ペンギンさんの力で、今度こそ解けるかしら?」
先生の笑顔は完璧だったが、目が全く笑っていない。そして、その手には、俺にとってトラウマでしかない赤点ミニテストが握られていた。
結果は、言うまでもない。ペンギンは、俺に微笑んではくれなかった。
たくさんの参考書に目を通したことで、俺はなんとなく「知っているつもり」にはなっていた。しかし、それは表面を撫でただけの薄っぺらい知識で、いざ問題を解こうとすると、脳みそが物理的に思考を拒否するのだ。
「いやー、これはまだ1周目なんで! 本番は3周目からって、この本のレビューにも書いてありましたし!」
「こっちは寝る前に読むって決めてるドリームノートなんで、まだ本領発揮してないだけです!」
俺の口からは、苦し紛れの言い訳が滝のように流れ出す。自分でも何を言っているのか分からなくなってきた。
先生は、そんな俺の言い訳を黙って最後まで聞き届け、そして、静かに、しかしはっきりとした口調で言った。
「翔太君。その『積ん勉マウンテン』はね、物理的にあなたの部屋のスペースを圧迫しているだけじゃないの。それは、あなたの貴重な時間と、なにより『本当に必要な努力』から目を逸らさせるための、言い訳の山でもあるのよ」
ぐうの音も出なかった。先生の言葉は、的確に俺の心の弱点を撃ち抜いていた。
「来週までに、私が最初に渡した英語のドリル、最低でも半分は終わらせてきてちょうだい。それができなければ、新しい参考書は…そうね、物理的にこの部屋から撤去させてもらうわ」
先生はそう言うと、いつもより少しだけ厳しい表情で、しかし俺の目を見つめて、「あなたならできると信じてるから」と付け加えた。
その言葉が、果たして今の俺に響いているのかどうか。
俺は、積み上げられた参考書の山を見上げながら、ただ途方に暮れるしかなかった。このカラフルな本の山は、俺の希望の塔なのか、それとも墓標なのか。
答えは、まだ霧の中だった。