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第3話:最初の模試は地獄絵図~ポテチとカップ麺と徹夜の果てに~

桜井先生の女神のような微笑みと、悪魔のように難しい(俺にとっては)中学レベルのミニテストから数週間が過ぎた。先生の指導は週に二回。その間、俺は一応、出された宿題には手をつけていた。いや、正確には「手をつけたフリをしていた」。答えを丸写ししたり、ネットの翻訳サイトに頼ったり、そんな小手先の誤魔化しで、先生の美しい笑顔を拝むためだけに時間を浪費していたのだ。

「翔太君、食事はちゃんと三食バランスよく摂ってる? 睡眠時間も大切よ。脳が情報を整理する時間だから」

先生は、まるで俺の自堕落な生活を見透かすように、優しいながらも的確なアドバイスをくれた。

「大丈夫ッス! 若さでカバーっすよ! 夜食のカップ麺とポテチ、最高に美味いんで!」

俺はケラケラ笑って答える。先生が美しい眉をかすかにひそめたことに、もちろん気づかないフリだ。夜は深夜アニメとソシャゲのイベント周回、明け方に少しだけ仮眠を取って学校へ行くのが日常。勉強? ああ、なんか先生が「物理的にヤバい」って言ってたな、くらいにしか頭に残っていない。

そんな自堕落生活のツケは、思ったよりも早く、そして強烈な形で俺を襲った。

高校三年生になって最初の全国統一模試。会場の大学のキャンパスは、参考書を片手に真剣な眼差しを浮かべるライバルたちでごった返していた。俺だけが、なぜか修学旅行にでも来たかのような浮かれた気分だったのは、言うまでもない。

前夜も、限定レアキャラが出るまでガチャを回し続け、気づけば午前三時。朝食はエナジードリンク一本と、コンビニのフライドチキン(胃もたれ確定)。これが慢心、これが油断、これが佐伯翔太クオリティ。

最初の科目は英語。試験開始の合図と共に問題用紙をめくる。

――その瞬間、俺の腹部を、鋭い痛みが槍のように貫いた。

「ぐっ…!?」

冷や汗が噴き出す。なんだこれ、腹が、物理的にねじ切れるような痛みが…! ポテチか? いや、昨日の深夜に食べた激辛カップ焼きそばか? 原因究明をしている場合ではない。俺は手を挙げ、試験官にトイレへ行く許可をもらった。

個室に駆け込み、数分間の格闘。しかし、痛みは一向に治まらない。それどころか、脂汗と吐き気まで追加されてきた。なんとか席に戻るも、すでに試験時間は大幅にロス。問題文を読もうにも、グルグルと渦を巻くような腹痛と、キリキリと締め付けるような頭痛で、文字が全く頭に入ってこない。脳が、情報を処理することを全力で拒否している。

「だ、ダメだ…物理的に読めねぇ…」

周囲の受験生たちがカリカリとペンを走らせる音だけが、やけにクリアに鼓膜を打った。

結局、英語は半分も解けず、続く数学も国語も、集中力散漫、思考力ゼロの状態で時間だけが過ぎていった。まさに地獄絵図。俺の初めての模試は、人生最大級の惨敗という記録を打ち立てて終了した。

数日後、恐る恐るウェブで確認した模試の結果は、俺の絶望に追い打ちをかけた。

偏差値、30。

…いや、正確には29.8。前より下がっとるやないかーい!

東大E判定は当然として、コメント欄には「基礎学力の徹底的な見直しが必要です」「現状では志望大学の再考を推奨します」という、オブラートに包んだ「お前じゃ無理」宣言。

「……」

パソコンの画面を前に、俺は言葉を失った。さすがの俺も、ここまでコテンパンにされると、笑う気力も湧いてこない。

そして、桜井先生との授業の日。

俺は、力なく模試の結果用紙を先生の前に差し出した。先生はそれを黙って受け取り、しばらく目を通していたが、その美しい表情に変化はなかった。いや、むしろ、凪いだ湖面のように静かだった。それが逆に怖い。

「……翔太君」

静寂を破ったのは、先生の落ち着いた声だった。

「この結果は、残念だけど…ある意味、今の翔太君の実力を正確に反映していると言えるわね」

淡々とした口調。だが、その言葉は重く俺にのしかかる。

「あなたの今の生活習慣、特に食事と睡眠。そして、日々の勉強への取り組み方。それらが、この結果に繋がったのは明らかよ」

図星だった。ぐうの音も出ない。

しかし、追い詰められたネズミは猫を噛む。俺は、無意識のうちに反抗的な言葉を口にしていた。

「…うるせえな! わかってるよ、そんなこと! でも、どうせ俺なんかじゃ無理なんだよ! 東大なんて、夢のまた夢なんだ!」

情けないことに、声が少し震えていた。

先生は、そんな俺をじっと見つめていた。その瞳は、怒っているようでも、呆れているようでもなく、ただひたすらに深くて、俺にはその感情を読み取ることができなかった。

やがて、先生は静かに、しかしきっぱりとした口調で言った。

「無理だと決めつけているのは、翔太君自身じゃないかしら? 私はまだ、諦めてはいないわ。翔太君が本気で東大を目指したいと言うのなら、私は全力でサポートするつもりよ」

その言葉に、ほんの少しだけ心が揺らぐ。

「でもね」

先生は続けた。

「あなた自身が変わろうとしない限り、どんなに私が教えたとしても、それは砂漠に水を撒くようなもの。本当に、本当に…『物理的に』不可能になってしまうわよ」

先生の最後の言葉は、まるで鋭いナイフのように俺の胸に突き刺さった。

いつも優しく微笑んでいた先生の、初めて見せる厳しい表情。

俺は何も言い返せず、ただ俯くことしかできなかった。

その日の授業は、重苦しい雰囲気のまま終わった。先生が帰った後、俺は一人、散らかった自分の部屋で、ゴミ箱に叩きつけた模試の結果用紙をぼんやりと眺めていた。

窓の外では、楽しそうな高校生たちの笑い声が聞こえてくる。

俺の心を満たしていたのは、圧倒的な無力感と、そしてほんの少しの…悔しさだった。



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