第2話:東大合格(物理的に)無理ゲー宣言!?~机に2行でダイブ~
あの衝撃的な「東大行きます!」宣言から数日後。ついに桜井先生による本格的な指導が開始される日がやってきた。俺、佐伯翔太は、鏡の前で入念に髪型をチェックし(どうせ数分で崩れる寝癖だが)、クローゼットの奥から一番マシなTシャツを引っ張り出した。目的はもちろん、桜井先生に少しでも良く見られたいからだ。下心こそ、最強のモチベーションなのである。
「翔太君、こんにちは。今日も頑張りましょうね」
玄関を開けると、そこにはやはり女神がいた。今日の先生は、淡いブルーのワンピース姿で、昨日にも増して輝いて見える。俺の心臓は、早くも全力疾走を開始していた。
リビングのテーブルにつき、先生が取り出したのは、分厚い…いや、俺にとっては城壁にしか見えない英語の参考書だった。
「まずは翔太君の今の英語力を知りたいから、この長文を読んでみてくれるかしら? そんなに難しくないはずよ」
先生は天使のような微笑みで言うが、俺にとっては悪魔の宣告に等しい。英語なんて、アルファベットがギリシャ文字に見えるレベルなのだ。
「は、はい…」
促されるまま、俺は参考書の最初のページを開いた。そこには、びっしりと小さな文字が並んでいる。まるで呪文だ。
「(えーっと…The quick brown fox jumps over the lazy dog…って、これ例文じゃねえか!)」
心の中でツッコミを入れつつ、俺は最初の1行を読み始めた。
「Many people visit Kyoto every year because it has many beautiful temples and shrines.」
ふむ。多くの人々が京都を訪れる…なぜなら美しい寺社があるから…か。なるほど。
続く2行目。
「These historical sites attract not only Japanese but also tourists from all over the world.」
これらの歴史的場所は日本人だけでなく世界中からの旅行者も惹きつける…と。
――その瞬間だった。
ズドンッ!!
強烈な眠気が、まるでボクサーの右ストレートのように俺の側頭部を直撃した。視界がぐにゃりと歪み、意識が急速に遠のいていく。
「あれ…なんか、まぶたが…重りでも入ってるみたいに…」
俺の体は、まるで操り人形の糸が切れたかのように、机に向かってゆっくりと傾いていった。
そして、ゴンッ! という鈍い音と共に、俺は華麗に机へダイブを決めていた。わずか2行。俺の集中力は、インスタントラーメンが出来上がる時間よりも短かったのだ。
「……翔太君? 大丈夫?」
頭の上から、心配そうな先生の声が降ってくる。俺は慌てて顔を上げた。額にはくっきりと机の木目が刻印されている。
「だ、大丈夫っス! ちょっと昨日の夜、宇宙人と交信してて寝不足なだけで!」
我ながら苦しすぎる言い訳だ。先生は、美しい眉をほんの少しだけひそめ、深呼吸を一つした。
「そう…宇宙人も大変なのね。でも、東大を目指すなら、まずは地球の言語から始めましょうか」
その声はあくまで優しかったが、目が全く笑っていない。こ、怖い…。
気を取り直して勉強を再開しようとするも、俺の集中力はミジンコ以下だった。
窓の外を飛ぶハトの群れに気を取られ、「あいつら、どこまで飛んで行くんだろう…俺も自由になりたい…」と黄昏れてみたり。
先生の細くて綺麗な指先がめくる教科書のページに釘付けになり、「あの指で頭撫でられたら、俺、秒でノーベル賞取れるんじゃね?」と明後日の方向に思考が飛んだり。
シャーペンの芯をカチカチと出し入れする行為に無限の可能性を見出し、気づけば芯が一本空になっていたり。
「翔太君、この問題、さっき説明した公式を使えば解けるはずよ。試してみて」
先生に促され、数学の問題に取り掛かる。問題文は…うん、日本語だ。そこまでは分かる。
「えーっと、確か…愛と勇気と友情の三平方の定理を使えば…」
「そんな定理はありません。それに、これは一次関数よ」
先生の冷静なツッコミが、俺の脳天に突き刺さる。
国語の現代文読解では、筆者の主張をことごとく真逆に解釈し、「翔太君の読解力は、ある意味で非常に独創的ね…」と、褒めているのか貶しているのか分からないコメントをいただいた。先生の語彙力も試されているのかもしれない。
「はぁ…先生、俺、やっぱり東大とか、物理的に無理ゲーなんじゃないスかね…?」
開始から約一時間。俺はすっかり心が折れ、弱音を吐いた。だって、勉強しようとすると頭痛がしてくるし、お腹はグルグル鳴りっぱなしだし、しまいには足の小指がつりそうになる始末。体が全力で勉強を拒否している。これはもう、アレルギー反応の一種だ。勉強アレルギー。
先生は、そんな俺の情けない顔をじっと見つめ、そして、ふっと息を吐いた。その表情は、呆れているようでもあり、少し困っているようでもあり、そしてほんのわずかだけ、面白がっているようにも見えた。
「翔太君。今の学力と集中力で、いきなり東大レベルの問題が解けるわけがないのは当然よ。でもね…」
先生はそこで言葉を区切り、俺の目をまっすぐに見つめた。その真剣な眼差しに、俺は思わず息をのむ。
「東大合格が『物理的に無理ゲー』かどうかは、まだ決まったわけじゃないわ。まずは、今の翔太君が、一体どのくらい『物理的に』東大から離れているのか、正確に知る必要があると思わない?」
そう言って、先生はカバンから一枚の紙を取り出した。そこには、デカデカと「実力診断ミニテスト(中学レベル)」と書かれていた。
…中学レベル?
俺の脳裏に、中学時代の忌まわしい記憶――赤点スレスイングの通知表、補習の嵐、そしてオフクロの雷(物理的に痛い)――がフラッシュバックした。
「さあ、翔太君。今のあなたの『本当の力』、見せてもらいましょうか」
女神の微笑みは、いつの間にか、挑戦的な笑みに変わっていた。
俺の東大受験という名の無理ゲーは、どうやら最初のセーブポイントにすらたどり着けそうにない。