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第11話:秋風とスランプの足音~伸び悩む才女の涙~

夏の熱気が嘘のように遠のき、校庭の隅では金木犀が甘い香りを漂わせ始めた。文化祭の準備で浮き足立つ教室の喧騒をBGMに、俺、佐伯 翔太は、相変わらず東大合格という無謀な頂を目指して、地味な一歩を刻んでいた。

あの夏の全国模試。偏差値30の壁をほんの少しだけ乗り越えられたという小さな成功体験は、意外にも俺の心に大きな影響を与えていた。桜井先生との週二回の授業も、以前のような「早く終われ」オーラ全開ではなく、「今日は何を教えてくれるんだろう」という、ほんのわずかな前向きさ(と、先生の美しさへの期待)を持って臨めるようになっていた。まあ、相変わらず英語の長文は催眠術だし、数学の公式は宇宙語だけどな。

そんなある日、俺は図書室で勉強している橘さんの異変に気づいた。

夏合宿以来、俺と鈴木君、そして橘さんは、たまに放課後の教室や図書室で顔を合わせ、一緒に勉強する(というより、俺が一方的に二人の集中力を邪魔しているだけかもしれないが)ようになっていた。

いつもなら、橘さんは鬼のような集中力で参考書と格闘し、周囲に「話しかけるなオーラ」を放っているはずなのに、その日は違った。何度もペンを置き、深いため息をついている。時折、イライラしたように自分のこめかみを押さえたり、参考書の同じページを何度も行ったり来たりしている。

「橘さん、なんか今日、調子悪そうじゃね?」

隣で小声で尋ねると、彼女は一瞬ビクッとして顔を上げた。その目には、普段の冷静沈着な光はなく、焦りと疲労の色が濃く浮かんでいた。

「…別に。ちょっと考え事をしていただけよ」

そう言って無理に微笑む彼女の顔は、どこか強張っているように見えた。

その予感は、数日後に返却された秋の全国模試の結果で、よりはっきりとした形になった。

俺は、夏からさらに2ポイントアップの偏差値38.8。相変わらずE判定だが、着実に前進している(と信じたい)。鈴木君も、C判定は変わらないものの、得意の数学で高得点を叩き出し、総合偏差値を少し上げていた。

しかし、橘さんの結果は、夏とほぼ横ばい。いや、得意だったはずの国語が少し足を引っ張り、総合では微減していたのだ。B判定はキープしているものの、彼女の表情は明らかに曇っていた。

「…橘さん、大丈夫か?」

結果を見た後、俺は思わず声をかけた。彼女は何も言わず、ただ唇をきゅっと噛み締めている。その姿は、まるで嵐の前の静けさのようで、俺はそれ以上何も言えなかった。

鈴木君も心配そうに彼女の顔を覗き込んでいるが、かける言葉が見つからないようだった。

その日の放課後だった。

俺は、教室に忘れたスマホを取りに戻った。夕暮れ時の教室は、オレンジ色の西日に染まり、どこか寂しげな雰囲気に包まれている。

「あれ…?」

自分の席に近づいた時、ふと、一番後ろの窓際の席に人影があるのに気づいた。

橘さんだった。

彼女は机に突っ伏し、顔を腕にうずめていた。そして、その肩が、小さく、小刻みに震えているのが見えた。

(…泣いてるのか?)

俺は、思わず足を止めた。

いつもクールで、知的で、どんな時も揺るがないように見えた橘さんが、一人で泣いている。その事実は、俺にとって衝撃的だった。彼女だって、俺たちと同じように悩み、苦しみ、そして涙を流すのだ。

どうしよう。声をかけるべきか? それとも、そっとしておくべきか?

俺が逡巡していると、彼女の嗚咽が、静かな教室に微かに響いた。それは、抑えようとしても抑えきれない、心の奥からの悲鳴のようだった。

(橘さんだって、必死なんだ…俺なんかより、ずっとずっと…)

俺は、そっと教室のドアを閉め、その場を離れた。

自分の無力さが、歯がゆかった。何か力になりたいと思っても、今の俺には、彼女にかける言葉すら見つからない。偏差値38の俺が、B判定の才女に何を言えるというのだ。

翌日、俺はぎこちない態度で橘さんに声をかけた。

「あ、あのさ、橘さん…なんか、元気ねーけど、大丈夫か? 俺でよかったら、話くらい聞くぜ? まあ、何の役にも立たねーだろうけどな! アハハ…」

我ながら、最低の慰め方だ。

橘さんは一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにいつもの冷静な表情に戻り、小さな声で言った。

「…別に、何でもないわ。ありがとう、佐伯君」

その声は、ほんの少しだけ震えているように聞こえた。そして、彼女の目の縁が、ほんのり赤くなっているのに、俺は気づいてしまった。

橘 志帆のスランプ。

それは、Gグループの、いや、俺たちのささやかな友情にも、微妙な影を落とし始めていた。

いつも俺たちを引っ張ってくれていた彼女の苦しみを知り、俺は初めて、本気で「誰かのために何かをしたい」という気持ちを抱き始めていた。

だが、今の俺に、一体何ができるというのだろうか?

秋風が、教室の窓をカタカタと鳴らしていた。

その音は、まるで彼女の心の叫びのように、俺の耳にはやけに冷たく、そして寂しく響いた。



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