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第10話:夏終わりの模試~兆しと、まだ遠い背中~

あっという間に過ぎ去った、地獄のようで、それでいてほんの少しだけ悪くなかった東大特進サマーキャンプ。最終日、俺たちはボロボロになった参考書と、わずかな自信(と大量の疲労)を胸に、それぞれの日常へと帰っていった。

「佐伯君、鈴木君、また模試会場でね。…負けないわよ」

別れ際、橘さんはいつものクールな表情でそう言ったが、その声にはどこか温かさが滲んでいた。

「う、うん! 僕も、次はもう少しマシな点取れるように頑張るよ!」

鈴木君は力強く頷き、俺も「おうよ! 次に会う時までに、五十嵐のやつに一発ギャフンと言わせるネタくらい仕込んどくぜ!」と、根拠のないビッグマウスを叩いた。まあ、口だけなら偏差値70だ。

合宿で得たモチベーションは、意外にも東京に戻ってからも数日間は持続した。桜井先生との授業でも、以前のように2行で撃沈することは減り、先生が「翔太君、最近少し集中力がついてきたんじゃない?」と首を傾げるくらいには、机に向かう姿勢もマシになっていた。物理的に、俺の脳みそに何らかの変化が起きているのかもしれない。…いや、さすがにそれはないか。

そして、夏休み明け最初の全国統一模試の日がやってきた。

会場となった大学のキャンパスは、あの合宿所と同じような、ピリピリとした緊張感に包まれていた。人混みの中に、ひときわ目立つ長身痩躯の姿を見つける。五十嵐 圭だ。あいつは相変わらず、自信満々のオーラを周囲に撒き散らしている。目が合ったが、フン、と鼻で笑われただけだった。相変わらずムカつく野郎だ。

(見てろよ、五十嵐…! 俺だって、あの合宿でただ遊んでたわけじゃねえんだからな!)

心の中で悪態をつきつつ、俺は橘さんと鈴木君の顔を思い浮かべた。「あいつらに笑われるわけにはいかねえ!」と、無理やり気合を入れ直す。

最初の科目は英語。

問題用紙が配られ、試験開始の合図。俺は深呼吸一つして、最初の長文に目を落とした。

以前なら、この時点で脳が思考停止し、文字がミミズの大群にしか見えなかったはずだ。だが、今日は少し違う。

(…この単語、あのドリルでやったやつだ! こっちの熟語も…!)

合宿中、桜井先生に「物理的に撤去される!」と脅され、半泣きで取り組んだあの英語の基礎ドリル。そこで覚えた単語や文法が、驚くほど頭の中に残っていたのだ。もちろん、全てがスラスラ読めるわけではない。相変わらず知らない単語も多いし、複雑な構文になると頭がこんがらがる。でも、以前のように「物理的に読めない」という絶望感はなかった。ところどころ、意味の取れる部分がある。それだけでも、俺にとっては大きな進歩だった。

続く数学。これは相変わらずの強敵だ。問題文を読んでも、何を問われているのかすら分からない問題が半分以上。だが、鈴木君が汗だくで問題に取り組んでいた姿を思い出し、「諦めるのはまだ早い!」と、自分にできること――簡単な計算問題や、図形問題で補助線を引いてみるなど――を必死に探した。

国語では、橘さんの冷静な分析力を少しでも見習おうと、設問の意図を考えながら本文を読むように心がけた。…まあ、効果があったかどうかは、神のみぞ知る、だが。

全ての試験が終わり、俺はぐったりと机に突っ伏した。脳みそを物理的に絞り切ったような疲労感。でも、不思議と気分は悪くなかった。やれるだけのことはやった、という、ほんのわずかな達成感があった。

数週間後、模試の結果がインターネットで公開された。震える手で自分の受験番号を入力し、エンターキーを押す。

画面に表示された結果は――。

英語:偏差値40.2

数学:偏差値33.5

国語:偏差値36.8

総合:偏差値36.8

志望校判定:東京大学 理科一類 E

「…………」

E判定。やっぱりか。東大の壁は、そんなに甘くはない。

だが、俺は自分の目を疑った。偏差値。総合で36.8だと? 前回、確か29.8だったはずだ。つまり…7ポイントも上がっている!

コメント欄には、「英語の基礎力に著しい向上が見られます。語彙力強化と長文読解の演習を積むことで、さらなる飛躍が期待できます」という、信じられないような言葉が書かれていた。

「せ、先生ーーーーっ!!」

俺は結果のページをプリントアウトし、その足で桜井先生の元へ走った。

「先生!見てください! 俺、やりましたよ!」

息を切らしながら結果用紙を差し出すと、先生はそれを受け取り、ゆっくりと目を通した。そして、ふわりと微笑んだ。

「翔太君、すごいじゃない! 特に英語、素晴らしいわ! あの基礎ドリル、しっかりやった成果が出ている証拠よ。数学も国語も、前回よりずっと粘り強く問題に取り組めたんじゃないかしら?」

先生は、具体的な問題点を指摘するのではなく、まず俺の努力と小さな成果をしっかりと褒めてくれた。その言葉が、じんわりと胸に染みる。

後日、こっそりと五十嵐の結果を調べてみると、当然のようにA判定。全国でもトップクラスの成績を維持している。橘さんはB判定。現役でこれは本当にすごい。鈴木君は、C判定は変わらなかったものの、総合得点は俺と同じくらい上がっていた。

(…やっぱり、あいつら、すげえや)

彼らの背中は、まだまだ物理的に遠い。東大合格というゴールも、霞んで見えるほどだ。

でも、絶望感はなかった。むしろ、「いつか、あいつらに追いついて、追い越してやる!」という、新たな闘争心がメラメラと燃え上がってくるのを感じた。

「東大合格までの道のりは、物理的にまだまだ果てしなく遠い。でも、ゼロじゃなかった。俺の脳筋も、ほんの少しだけレベルアップしたんだ」

秋の気配が漂い始めた空を見上げ、俺は新たな決意を胸に刻んだ。

「次の目標は…偏差値40の壁、突破だ! そして、いつか先生に…いや、まずは自分自身に、胸を張れる結果を出すんだ!」

俺の、長くて険しい受験戦争第二章の幕が、今、静かに上がった。


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