読めない言語で書かれた手紙
「俺の分の洗濯もお願いしていいかな」ルームメートのムラタは振り返り僕に訊いた。「今日の午後はちょっと予定があるんだ」
僕は寮の食堂へ急ぐムラタの後ろに並んで歩いていた。うん、と僕は一応の返事をしたが彼が特に僕の同意を求めていないことは、彼の表情を確かめるまでもなかった。
常夏のフィリピン・セブ島のよく晴れた正午。突き刺すような日差しから、如何にエネルギーを吸い取られずに、しかし足早に食堂に辿り着けるかということが彼の今意識する全てだった。灼熱に焼かれたアスファルトから立ち昇る陽炎は遠く続く大地を震わせ、そこを歩く人々は大気のゆらめきの中でぬらぬらと体を踊らせていた。午前のクラスを終え、カルマド大学に附属する学生寮までの一本道、ムラタはまるで水たまりの一つひとつを飛び越えるみたいに、あるいはクロール泳法の息継ぎみたいに、僅かな日陰から次の日陰を渡り繋いで歩いた。彼の頼みを僕が承諾しようが拒絶しようが、それは彼の案ずるところではないのだ。それに僕が土曜の午後に、これという用を持ち合わせていないだろうと図っての申し出であり、その彼の推測は的を射ていた。これといって断る上手い言い訳を思いつけなかったので、僕はその依頼の形をとった命令を受け入れ、その日の午後を洗濯に割くこととなった。セブの灼ける日差しに晒されながら、ムラタの頼みを断るには僕は些か気力を吸い取られすぎていた。
その日はたしか僕がフィリピン・セブ州のマンダウエで過ごす十三回目の土曜日だった。その年の三月、僕は語学研修のために、カルマド医科大学に併設する英語学校に通っていた。生まれて二十年、日本から出たことも、ましてや飛行機に乗ったことすらなかった僕が、勢いのままに単身、マクタン・セブ国際空港を訪れてから早三ヶ月が経ち、留学生活も折り返しというところだった。三ヶ月前の僕がフィリピンについて知っていたことといえば、年中暑いこととゴキブリが巨大であるということくらいだった。地元の中華屋で一緒に働いていたフィリピン人の女の子が故郷のマニラに住んでいた頃の生活をよく僕に聞かせてくれた。「日本のゴキブリなんてアタシらから見ればかわいいものよ」
僕とムラタは食堂に行く前に教材が入ったバッグを置きに自室へ向かった。ムラタはいつもそうするように、部屋に入ると真っ先に冷房のスイッチを入れ、うなだれるようにベッドに腰掛けた。僕はバッグを壁にかけ、冷蔵庫の中からよく冷えたペプシコーラの缶を二本取り出した。
「どこかに出掛けるのかい」僕はコーラの片方をムラタに手渡した。
「ありがとう。気になるかい、俺の予定を聞くなんて珍しいね」彼は喉を鳴らしながらうまそうにコーラを一口飲んで、やけに嬉しそうな微笑で横に立った僕を見上げた。
「別にそれほど興味があるわけじゃないよ」
「嘘言え。ただ、これはお前にも教えることができないんだ」
「なんだか胡散臭いことみたいだね」
「いや、そうでもない。どっちかと言うとビール臭いところだね」と言ってゲラゲラと笑い声をあげた。「ま、それ以上は聞くな。お前が知ったところで得する話でもないさ」
ムラタはそこで一方的に会話を断ち切り、腰をかけていたベッドの縁からすくっと立ち上がった。彼はそのまま一足先に部屋を出て、軽快に階段を降りてロビーから通じる食堂へ入っていった。僕は少し遅れてその後について行った。
食堂はすでに寮生でごったがえしていた。入口から見て真向かいの壁際に配膳カウンターがあり、カウンターの奥の狭い横長の窓からは厨房の様子が見える。厨房の奥からはスパイスカレーの香りが漂ってきていた。入口からカウンターまでの通路を挟むかたちで、十人は掛けられるテーブルがまるで教会の長椅子のように並んでいる。中央の通路には順番待ちの列が入り口のところまで続いていた。足早に食堂に向かったムラタは先に列に並んでいて、ムラタと僕の間には三人の韓国人の女子グループが何かを喋りながら並んでいた。
食堂内では実に多種多様な国の言語で会話が交わされていた。その内のほとんどが、僕の耳には意味を持たない音の混合物でしかなかった。男の低い声、女の笑い声、感嘆の声、苛立ちの声、ささやき声、あらゆる方向からの気が滅入るような様々な声が、何の処理もされないまま僕の体内を夜霧となって通り抜けていった。僕一人だけが黙っているような気がした。
配膳を待っていると、少し離れたムラタのもとに地元の人間らしき見知らぬ男が話しかけに近づいていった。僕が初めて見かけたその男は、背が高くがっしりとした体格で伸びかけの坊主頭をしていた。この蒸し暑い真夏にも関わらず、男は黒い薄手のハイネックセーターに黒の細身のスラックスという出立ちだった。食堂にいるほとんどの寮生は男の存在に気がついていないらしい。一見して僕たちと同じ留学生のようには少なくとも見えなかった。ムラタの顔色を見るに二人は顔見知りらしく、親しげに軽い挨拶を交わしているようだった。国際色豊かなノイズの中に紛れた二人の会話を聞き取るのは難しく、またその内に二人は小声になりムラタの表情からは少しずつ落ち着きが薄れ、その後を埋めるようにある種の不穏で緊張した空気が占拠していくのが見て取れた。
***
僕は寮へやってきた日のことをよく覚えている。初めて日本以外の地面を踏んだ日であり、ムラタと初めて会った日だ。僕がセブに降り立った時、日は傾き始めていてあらゆる物がその影を引き伸ばしていた。
空港を出たところにガイドの男が立っていた。彼も元々は英語学校の留学生だったのだが、そのうちに学校のスタッフになり今は留学生たちの寮生活のサポートをしているらしかった。僕は彼に連れられて近くのタクシーに乗り込み、三キロほど離れた学生寮へ向かった。その車内で彼から寮生活の細々とした規則と、日本人の留学生と相部屋になることを伝えられた。これから初めて会う人と半年の間、寝食を共にすることを思い浮かべると少し気が引けた。
寮の前でタクシーを降り、トランクルームからボストンバッグとスーツケースを受け取って玄関へ向かった。赤茶けた五階建てのその寮を見上げると、律儀に並んだ長方形の窓にぶら下がった大きな室外機たちが身を乗り出して僕を見物していた。それは僕の入寮を歓迎しているようにも忌避しているようにも見えず、あくまで中立的な視線を投げていた。遠くの方の草原で何かを焼くような香ばしい匂いがした。寮の前の通りの向かい側では、腰が折れ背中を丸めた老人が大きな黒い犬と木かげのベンチで休んでいた。ストローハットを被った老人は、両手に持った杖の柄と額がくっ付きそうなほど俯いていた。微動だにしない老父が、居眠りをしているのか、ただ項垂れているのかは定かではなかった。
まだ灯りの入っていないエントランスに入ると寮母さんが迎えてくれた。彼女は膨よかでずんぐりした体で、短く刈り込まれた髪に黒縁の眼鏡をかけていた。険しさと怒りの中間くらいの無表情で、寮母というよりは関所の門番といった佇まいだった。薄暗いエントランスに射し込む夕陽が彼女の顔につくる陰影が、その印象をより強くさせていた。ガイドと寮母さんの間でタガログ語での短いやりとりがあり、僕は212号室の鍵を渡された。
「ルームメートが中にいるから鍵は空いてるはずだよ」と彼女は英語で言った。彼女の言動からはどのような感情も読み取ることはできなかった。
静かな廊下を進んだ先に僕の部屋はあった。212号室の扉をノックして少し待ったが中からは返事や物音は聞こえなかった。誰も中にいないのだろうか。ノブを回すと、鍵は空いており部屋の隅に置かれたベッドの上であぐらをかいて腕組みをする男が見えた。
「悪いんだけど・・・」彼は固く低い声で僕に向かってそう言った。挨拶も抜きにして。「悪いんだけど、俺はこの留学中は日本語を話さないように決めているんだ。はなから君のことを避けるつもりじゃないんだけど、なるべく日本人とは連まないようにしたくてね」男は続けた。「そこで提案なんだけど、良かったら俺と話す時は君も英語で話してくれないかな。君、英語は得意?」
彼がそこまで言った後で、僕は部屋の中に入り扉をぱたんと閉めた。特に異論が思い浮かばなかったので、ちょっとした間が空いて僕はひとまず賛成した。すると彼は立ち上がり、「ムラタ」と名乗って嬉しそうに握手を求めた。どうやらひとまずはこの男に歓迎されたみたいだ。
その日の夕方、僕はムラタに連れられ寮からほど近い「バー・モロン」を訪れた。広い店内には木製のテーブルがいくつか並び奥には小さなカウンターが備え付けられていた。店の道路側には壁がなく外から地続きになっていた。バーというよりはダイナーのような雰囲気だ。駐車場に並んだココヤシが、懸命に居眠りを我慢する人のように、その大きくしなる葉を揺らしていた。
日が沈むにつれて同じ寮生と思われる多国籍の客たちが席を埋め、生ぬるい空気が開け放しの店内を通り抜けていった。僕とムラタはカウンターに座り、グリルチキンと大きなピザを肴によく冷えたサン・ミゲルを飽きることなく飲み続けた。店内を流れるラテンポップのうち三曲に一曲がエド・シーランだった。それを抜きにすれば、そこは僕にとって落ち着ける空間に思えた。
ムラタはニ年ほど前からここで留学生活を送っているらしかった。年は僕より三つ上で神戸の漁師町で生まれ育ったようだ。地元の高校を卒業すると都内の大学に入学し経営学を専攻していたのだが、セブに留学に来る一週間前に中退したとのことだった。
「東京の人間はさっぱりし過ぎて見える」三本目のサン・ミゲルに口をつけながら英語でムラタは言った。「俺の地元のヤツらはさ、楽観的なのばっかりで男も女も高校出たら、早いとこ相手見つけて子供作って、実家のすぐ近くに家建てられればいいって思ってんだ。関西より外の世界には興味ないわけ。俺はちっちゃい時からそういう事に居心地悪くって、とにかく高校出たら東京に行くって決めてたんだ。だけどさ、いざ東京に出てみたら、あまりにも人が違いすぎた。街も歩き方もテレビのコマーシャルも色んなものが俺の知ってるそれとは全く別物に見えた」
僕はだまって聞いていた。
「ある時気が付いたんだ、これがホームシックなんだって。あんなにバカにしてた地元のヤツらの顔が見たくてたまらなくなった。それで少し前の冬休みに、神戸に帰ってみたんだ。高三の時のクラスメート七人で集まって久々に話してみたら、あいつら何にも変わってなかった。変わってなくて安心したよ。自然と心がほぐされていく感じがした。だけど、だけど今になって考えると俺はその時、みんなの会話の輪の中にすんなり入っていけていなかった気がするんだ。放課後に教室で話してた時とおんなじような他愛もないやりとりなのに、なぜか俺だけが輪の外側にいるような気分になった。神戸は町も人も前とおんなじままだった。ただ俺だけがもう以前の俺とは違ってたんだ」ムラタは冷めて固くなってしまったピザに向かってそう語っていた。
その帰省の後、ムラタは大学の講義に出るのをやめ、一昨年の八月に正式に退学届を提出した。
バーテンダーがおかわりを聞きに来て、僕らはサン・ミゲルを一本ずつたのんだ。
***
坊主頭の男と話すムラタの顔は強張ったままだった。そしてムラタに何かを早口で説く男は苛立っているようにも見えた。二人の会話は聞き取れない。集中して耳をすまそうとすると前に立つ女子たちが笑い声で遮った。僕は明らかに不穏な空気を感じていた。引き攣ったムラタの表情はこれまでに見たことのないものであり、見てはいけないものの類にある気すらした。しかし僕はそこから目を離せずにいた。
配膳の列の途中にいたムラタは、その列から外れて男と一緒に入口の方へ引き返してきた。僕とのすれ違いざま、何かを訴えるような目で僕の顔をちらと見た。男の後について行くムラタは何も言わずに食堂を後にした。
少しすると、食堂の窓の外に坊主頭とムラタの姿が見えた。寮に面した通りの傍に、不気味な光沢を浮かべる黒塗りのフォルクスワーゲンが停まっていた。坊主頭は運転席に、ムラタは助手席にするりと飲み込まれていくのを僕はただただ無言で眺めていた。行儀良く主人の指示を待つ忠犬のような佇まいの黒いセダン車は、音もなく発進した。
一週間分の洗濯物を溜め込んだ大きなキャンバス地のバスケット。それを二つ脇に抱えて階段を降り、ランドリー室にやってくるのは思っていたよりも骨の折れる作業だった。バスケットを運んでいる間にも、さっきのムラタのあの不安げな表情が脳裏にありありと浮かんできた。ロビーを横切り、寮棟の角を左に曲がると廊下はひと回り狭くなり、その突当たりの扉からごうごうと唸り声を響かせている部屋がランドリー室だ。
中に入ると中央に置かれた作業台を囲むように六機の洗濯機が壁を背にして並んで立っていた。六台のうちの四台が使用中で、空いているうちの一つは、out-of-orderと書かれた貼り紙がフタの上に添えてあった。
やれやれ、どうやら僕は二度に分けて洗濯機を回さないといけないみたいだ。僕は左奥の空いている一台にムラタのものを放り込み、本を読みながら他の機が空くのを待つことにした。ジーンズのポケットに文庫本を突っ込んでおいたおかげで、自室に取りに戻る手間が省けた。カバーが外れて角が丸くなり始めた堀辰雄の『風立ちぬ』を開き、パイプ椅子に腰掛けた。
ランドリー室の中は乾いて暖められた空気と、妙に甘ったるい柔軟剤の香りと、稼動する洗濯機がそれぞれに発する轟音とで満たされていた。とてもじゃないが南国で過ごす休暇中の昼下がりに訪れたくなる空間とは言えないだろう。申し訳程度に壁に取り付けられた一台の扇風機は、どこか居心地悪そうに控えめに首を振っていた。かたかたと扇風機が送り出す風は、白熱する首脳会議を連想させる洗濯機たちそれぞれの主張に遮られ、僕に届くまでにかき消されてしまっていた。ここはじっと座って本が読める環境ではないようだ。
僕は文章を目で追いページを繰ってはいるが、物語の内容を置き去りにして無意識のうちに騒がしいサミットに耳を傾けていることにふと気がついた。汗ばんで湿ったTシャツの襟元を見て小さなため息を洩らし、本を閉じた。どの洗濯機も一向に止まる気配がない。
僕はあきらめて自室に戻ることにした。ランドリー室を一歩出ると廊下はひんやりとしていて、来た時よりも涼しく感じられた。ロビーのカウンターの中では寮母さんが広げた新聞紙の中に顔をうずめていた。階段を上がって212号室のドアの前にたどり着く途中で、僕はあることに気がついた。僕とムラタのその部屋のドアが数センチ開いていたのだ。ムラタは既に出掛けて居ないはずだし、僕がランドリー室に向かう時にはちゃんと閉めて出てきたはずだ。ムラタが忘れ物でも取りに戻ってきたのだろうか。室内の灯りが洩れ出る数センチの隙間から、僕は恐る恐る中を覗き見た。すると、僕の書物机に向かって男が座っているのが見えた。
その男は、僕らの部屋の隣の213号室に住むベトナム人のロンだった。彼は部屋を入ると向かって右側にある、僕が普段クラスで出された課題やレポートを書いたり、小説を読んだりしている木製の学習机に向かってペンを握り、何かを書いているらしかった。背中を丸め沈めんばかりに顔を紙に近づけて、ペンの先からゴリゴリと音を立てながら熱心に書き物をしていた。
僕が部屋に入ってきたことに気がついたロンは机から顔を上げて僕の方を見た。彼の顔にはどこか長茄子を連想させるものがあった。
「ムラタは一緒じゃないのかい?」彼は中指で黒縁メガネのブリッジを押し上げながら、英語で訪ねた。
「どこかへ行ったよ」
「どこかってどこへ?」
「さあ」と言って僕は肩をすくめた。
「さあって、君が知らないはずないだろう」ロンは驚いたように目を丸くして僕の顔を凝視していた。
「本当に知らないんだ、彼は行き先を教えてくれなかったよ。ムラタに何か用があったのかい?」そう言って僕は自分のベッドに腰掛けた。
ロンは椅子の背もたれに身を預け首を後ろに倒し、彼の頭上の空間に向けて大きな溜息を吐いた。「彼にUSBを貸したまま、まだ返ってきてないんだ。今日中に返してもらわなきゃ明日のレポートが提出できないよ・・・」彼は持っていたペンを机上に放り投げて両手を頭の後ろで組み、椅子の上で何回転かくるくると廻った。
僕はポケットから『風立ちぬ』を引っ張り出して栞が挟まったページを開き続きを読んだ。
しばらくの間部屋の中は沈黙が支配した。いつの間にか、またボールペンが机の表面を彫るかのような筆圧の感じる書き物の音が聞こえてきた。
「ところで君は何を書いているの?」僕はロンに訪ねた。
返事はなかった。沈黙を埋めるように、狂いのないリズムでペンを走らせる音だけが聞こえていた。
「どうして自分の部屋で書かないんだい?」
「ああ、シユがエクスとずっと電話しててうるさいんだ」とロンは応えた。
何かを書くロンは椅子の下で足を組み、片方の踵の上にもう片方の足を乗せていた。乗せられた足の指先に引っ掛けられたビーチサンダルが床に落ちないように一所懸命バランスを保って揺れていた。僕は本から顔を上げてその光景をなんとなく眺めていた。
ロンは何をしたためているのだろうか。文庫本の頁の上に視線を戻してからも、その問いは頭の中に居座り続けていた。小説の文章を読み下すリズムと、ロンのペン先が奏でる筆記音は柔和で心地よい一体感をこの212号室に生み出していた。
知らぬ間に、僕の観念や身体感覚は堀辰雄の創り上げる小説の中に沈み込んで、一九三◯年代の富士見高原に構えられたサナトリウムの一室で、物語の主人公との繋がりを示していた。病室のバルコニーに出て澄み切った青空に向けて聳え、綿雲を貫くアルプスの山巓を眺める主人公の眼は、僕の眼であるに等しかった。春めいた山風はまだ少し冷たさを残して僕の頬をも撫でていった。そして背後には、ベッドに身を起こす節子の微笑がまざまざと感じられた。
何時間が経っただろう。春の章を読み終えると机の方からの筆跡の音が止んでいることに気づいた。ふと顔を上げると、ロンはすでに部屋から姿を消していた。一人残された無音の部屋には、濃密な静寂がその四角い空間を固めていた。ロンが立ち去ったことにも気が付かないほど読書に集中していたようだ。ロンは去り際、僕に何か言っただろうか。扉の外では、どこか遠くで規則正しく釘を打つ音が廊下にうつろに響いていた。ふと、洗濯物を回していたことを思い出した。時計を見るともうとっくに洗濯は終わっている頃だった。
ベッドから腰を上げ、ランドリー室へ向かおうとドアノブに手をかけたとき、僕の書物机の上のものがちらと目に入った。近づくと、机の上にはベトナム語(おそらくそれはベトナム語なのだろう)で記された数枚の白い便箋が無造作に置かれていた。僕はその一枚を手に取り眺めてみた。流れるような濃い筆跡を目で追った。罫線に沿って小さく認められたその文字は便箋の上にびっしりと収まっていた。読解不可のその文章が「手紙」であるということは想像がついた。しかし、それが誰に宛てたものなのか、何が記されているのかは見当も付かなかった。あんなに熱心になって書き上げた手紙を、何故ロンは僕の部屋に置いたまま出ていったのだろうか。それともこれはまだ書きかけで、また戻ってきて続きを書くつもりなのだろうか。とりあえず僕はその便箋をそのままにしてランドリー室に向かった。部屋を出てからもあの手紙は執拗に僕の頭を離れずにいた。
妙にひんやりとした廊下を抜けて、再びランドリー室の扉を開けた。さっきまで猛々しく唸りを上げていた洗濯機たちは、そのうちの三台がまだ稼働していたが、前までの怒鳴り散らすような轟音とは打って変わって女が声を押し殺して喘ぐような音に変わっていた。壁付けの扇風機は相変わらず自信なさげな風だった。濡れて捻れたムラタの洗濯物をバスケットに詰め込み、空いたそこに僕の汚れ物を放り込んでスイッチを入れた。洗濯機の唸りが再び耳を劈く前に、僕は熱気に蒸されたランドリー室を後にした。
水を吸った洗濯物は、洗う前の何倍にも増して重たかった。そしてそれを五階建ての寮の屋上に持って上がることを考えると一度大きくため息をつかずにはいられない。僕は階段のおどり場で休み休み一息吐きながらようやく屋上に出た。
昼下がりの空は、遠くの方に立派な積乱雲が群れを作っているのみで、太陽の光線を遮るものは何もなかった。紫外線を照り返すコンクリート打ちっぱなしの屋上には、大きな貯水タンクが一つあり、それを囲む壁には小さな庇と白いペンキ塗りのベンチが設けられていた。そこに腰掛けていたのは、ロンのルームメイトである中国人のシユだった。彼はベンチのそばにある吸殻入れにタバコの灰を落としていた。
「こんな休日に洗濯か?」僕がバサバサとムラタのシャツやタオルを広げて物干し竿に掛けていると、シユがそう言った。「せっかくの土曜日なのにどこへも出掛けないのか?」
「特に出掛ける用事もないからね」
生暖かい微風が束の間の沈黙をさらっていく。
「元の環境から物理的には離れられても、男女の間におけるいざこざは、遠くへ来てみても付き纏うね」シユは脚を組んで膝の上に肘をつき、指にタバコを挟んだ手のひらに顎を乗せてそう言った。
シユは当時付き合っていたガールフレンドと結婚を誓っていたのだが、寸前になって相手から婚約破棄の申し出にあっていた。彼は七年という長い交際期間を経て順調に結婚までの道のりを歩んでいたつもりだった。彼はお互いに信頼しあっていると信じていた。しかし実際はそうではなかった。シユはガールフレンドにとって、いわゆるキープだった。彼女は数多くの男性を股にかけていた。シユは七年のうちの大半をそのうちの一人としてしか見られていなかったことに、一度も気が付きはしなかった。
彼はガールフレンドからその事実を知らされたとき愕然とした。何が真実で何が偽りなのかがわからなかった。彼女の告白が意識に浸透するまでに長い時間がかかった。しかし、一度その事実を受け入れてしまうと全てが無駄で意味の持たないものに見えた。彼は当時働いていた仕事を辞め、半年間部屋に引きこもった。誰とも口を聞かず、ほとんど何も食べず、孤独との同棲に慣れるのをひたすらに待った。そんな日々が半年過ぎたある朝、目が覚めると妙に頭の中がクリアになっている感覚があった。彼はそこでふと思った。このままでは生きる意志を捨ててしまうだろう、と。その気づきは彼に大きなエネルギーをもたらした。このままではいけない。どこか遠く離れた場所で新しい人生を歩んでいかなければ。そう思い立ったシユは観光会社のウェブサイトにアクセスし、そこに記された最安のワーキングホリデープランに勢いのまま申し込んだ。彼は会社員時代に結婚式の費用として貯めていた貯金を持って、流れるままにセブ島へ飛び立った。
ムラタの洗濯物を干し終えシユの隣に座ると、彼はおもむろに中国産のタバコを一本僕に差し出した。紅茶タバコというらしい。ビリヤードグリーンの箱に細い金色の模様が施され、紅い牡丹がぽつぽつと散りばめられたパッケージから一本取り出して嗅いでみると、茶葉の香りが鼻腔の奥を仄かに刺激した。それにゆっくりと火を点けた。時間をかけて煙を吸い込み、鼻から煙を吐き出した。鼻から抜け出た紅茶の香りは微々たるものでどこか味気なかった。二人は何を話すでもなく、ただ暫くタバコの煙を燻らせていた。庇の影に座っていても、南国のジリジリと肌を焼くような暑さは凌ぎきれないでいた。
「ねえ、シユ」沈黙を埋めるように僕は訊ねた。「ロンが僕の部屋で何か手紙のようなものを書いていたみたいだけど、彼はいつも誰かに手紙を書くのかな?」
「よく書いてるよ。あれは母親宛のものらしい」とシユが言った。「週に一度は必ずな」
「あれだけの文量を毎週かい?」
「ああ、ベトナム語で俺にもよく分からんが、相当熱心にやってる」
汗ばんだTシャツの首元をパタパタと煽ぐ僕の隣で、シユは汗ひとつかかずに煙を吐き出していた。シユは続けた。
「あいつ、弟を亡くしてるの知ってるか?」
「それは知らなかった・・・」唐突な告白に僕は驚いた。
「あいつが六才の時に事故でな」
***
ロンはその日、両親と四才下の弟の家族四人でカンボジア沖合に浮かぶフーコック島に遊びにきていた。比較的人気の少ないビーチの近くにホテルをとり、一家は長い休暇をしばらくそこで過ごした。朝早くロンは母と弟と三人で近くのビーチへ泳ぎに行った。父は昨夜の酒が抜け切らず、ビーチへ行くのを断念してホテルのベッドで眠っていた。三人は粒の細かい白浜の上にパラソルを広げそこに陣取った。ロンは水着姿になるなり一目散に海の方へ駆け出した。二才の弟は締め付けの強い海水パンツを身に付けることを嫌がってぐずっていた。大きなサングラスをかけた母は弟の体に日焼け止めオイルを延ばしていた。辺りには数組の観光客の姿があったが、朝の早い時間ということもありビーチは閑散としていた。
泳ぎが得意なロンは弟を浮き輪に乗せ、遠くの方まで連れて行こうとするが、海に入るのが初めての弟はその未知の恐ろしさに大きな声で泣いた。その様子を見たロンの母は泣き喚く弟を抱き上げてパラソルの下に連れ戻した。泳ぎ疲れて一人になったロンは砂浜を歩いて近くの岩場を散策することにした。彼はそのゴツゴツとした岩場で足を切らないように気をつけながら変わったものはないか辺りを見て回っていた。その頃弟はやはりピタッとした海水パンツに耐えかねて、それを脱ぎ捨てて裸になった。そんな姿で波打ち際をとぼとぼと歩いていると、隣のパラソルの観光客(西欧系の若い女性二人組)が弟の方を指さしてクスクスと笑い合っていた。
ロンはその岩場で小さなイソガニを何匹か目にした。すばしっこい動きですぐに岩の隙間に隠れてしまうイソガニを何とか捕まえてやろうと彼は夢中になっていた。奮闘の末、そのうちの一匹を岩場の角に追い込みそのまま捕まえることができた。ロンはイソガニを捕まえられたことに嬉しくなり、二人に見せてあげようとパラソルの方まで走って急いだ。イソガニが逃げないように両手で包み込むようにしっかりと握って。
ロンは、パラソルから少し離れた波打ち際で一人で遊んでいた弟に獲ってきたイソガニを自慢気に見せた。すると弟は、初めて見る小さな生き物に興味津々でロンに触らせてほしいと頼んだ。しかしロンはそれを断った。弟に渡すと逃げてしまうと思い、何としてもそれは避けたかった。見せるだけだと言って聞かせるが、それでもカニを触りたい弟はバタバタとその場で飛び跳ねてぐずった。
「そんなに欲しいなら自分でつかまえてこいよ」そう言ってロンは弟を冷たく突き放した。
頼みをきいてもらえなかった弟はやはり大声で泣き出してしまった。泣き喚く弟は丸裸の姿で岩場に向けてとぼとぼと歩いて行った。
だいぶ日が昇ってきた頃、ビーチには徐々に人が集まってきていた。そのほとんどが海外からの観光客だった。海鳥の影が白い砂浜の上を素早く流れていった。遠くの水平線の上には高密度の入道雲が立ち込めていた。時折海面に姿を見せる白波はどこまでも穏やかだった。
その日ロンの弟は帰ってこなかった。それほど広くはない午前のビーチで弟の行方は突如消えてしまったのだ。見つかったのは五日が経った日の夕方、ビーチから三キロほど離れた海岸に二才の白くなった裸の弟は打ち揚げられていた。
***
雲一つない青く澄んだ西の空を、一機の飛行機が流れていた。飛行機はゆっくりと、まっさらで新品の空に一筋の白い線を引いていった。耳をすますと微かに小さなエンジンの音が聞こえてくる。それは隣室から漏れ出る誰かの寝息のようにうつろに響いていた。寮の屋上のベンチに座る二人の間には行き場のない沈黙が停滞していた。二人とも身動き一つせずに空間の一点を見つめていた。
すると、シユのズボンのポケットの中で携帯が鳴り出した。シユはそれを取り出すと、物憂げな目でしばらく画面を見つめていた。その間もコールは続いていた。彼は十二回目のコールで何も言わずに立ち上がり、電話に出た。彼は低く穏やかな調子で、僕の解らない言葉を話しながらドアの向こうの薄暗がりに消えていった。
屋上の庇の下では、車やバイクがアスファルトを走る音や、遠くの方で鳴るサイレン、風にそよぐココヤシの葉の擦れ合う音、洗濯物が風にはためく音が聞こえてくる。しかしベンチの周りに居座る沈黙は前よりも濃密なものに変わっているような気がした。南国の真夏の昼下がりの太陽のもとで、ジリジリと肌を灼くような暑さの中にいても、僕はしばらくベンチから腰を上げることができずにいた。二、三度口をつけただけの紅茶タバコは長細い灰に変わって今にも地面に落ちかかっていた。
突然入り口のドアが開く音がした。振り返るとそこにはムラタが立っていた。
「探したよ」ムラタは手のひらで顔中の汗を拭ってそう言った。「これから出掛けるんだ。お前も一緒に来ないか?」
「出掛ける?どこへ?」と僕は訊ねた。
「オスロブのビーチだよ」
「悪いけど、今はビーチに行く気分じゃない」ムラタの提案に乗り気にはなれなかった。僕は少し間を置いてそう言った。
「ビーチパーティがあるんだ。そこに招待されている。こっちの知り合いに紹介してもらったんだ。ちゃんとお前の席も用意されてる」
僕は昼間に食堂で見た黒服の坊主頭の男の姿とムラタの強張った表情を思い返した。ムラタの誘いからは、そこに関わってはいけないという危険信号が明らかに読み取れた。
「十分後にエントランスの前で集合だ。一応水着に着替えておいた方がいい」
「僕は海には入らないよ」
「いいから着替えておけ」そう言ってムラタはドアを閉めた。
僕は深いため息を吐いた。僕の予定を狂わすのはいつも決まってムラタだ。それも唐突に。そして僕はいつもそれを断れない。僕の休日の予定というのは概ね読書だ。それを人は予定とは言わないのかもしれない。しかし僕にとって、僕の涸れて乾いた人生において、本を読む時間こそが唯一の楽しみなのだ。誰にも邪魔されることのない聖域なのだ。陽の射す窓辺に椅子を持ち出して、窓の外を眺望しながら小説のページを捲る午後。外の通りを行く人々を目で追いながら、物語の考察を練る至福のひととき。それこそが読書家の時間だ。しかしその幸福はいつもムラタの手によって奪われる。轆轤を旋回す陶芸家の後ろで猫が棚の上の家財を割り散らかすみたいに、ムラタは前触れも無く平穏を台無しにする。そこには変形して潰れた陶土が残っているだけだ。
僕はまたふいにため息を吐く。どうしてこうも性格の合わない人間と昼夜同じ空間で過ごさなくてはならないのだろう。この留学生活において、僕にとっての安寧が保たれる場所はないのだろうか。そう独り言ちながら屋上を後にし、自室へ向かった。
部屋に戻った僕は、ボストンバッグの中を漁って水着を探していた。しかしそこでふと気付いた。家から水着を持ってこなかったことに。留学先で海に入ることなど、考えてもみなかった。そもそも実家に僕の水着があるかどうかすら定かではなかった。
これからビーチへ行くことを考えただけで嫌気がさした。額に噴き出た細かい汗を拭い、立ち上がって部屋を出て外から鍵をかけた。冷えたコンクリートに囲まれた廊下の奥の方からは、未だに何かに釘を打ち込むカンカンという音が聞こえていた。
建物から一歩出ると、真夏の南国の容赦のない渇いた暑さが肌に張り付いた。エントランスを出たところの石段にはムラタがひとり腰掛け、太陽の眩しさに目を細めていた。僕に気付いたムラタは振り返り、石段をポンポンと叩いて隣に座るよう僕に促した。僕は示されるがままにムラタの横に腰を下ろして膝を抱えた。
「もうすぐ迎えが来る」暑さに項垂れながらムラタはそう言った。
通りを挟んだ向かい側の歩道に備え付けられたベンチには、昼間見た老人がその時と同じ格好で腰掛け、隣では黒い大きな犬が伏せていた。老人は微動だにせず、両の手を杖の上に乗せ祈るかのように頭を垂れていた。顔の至る所に刻まれた皺が際立つ肌の上には汗ひとつかいておらず、呼吸に合わせて微かに肩を上下させているだけだった。
僕は迎えを待ちながら、なんとなしに向かいの老人に目を向けていた。この老人は、朝から晩までここにただ居座っているのだろうか。帰る場所を持たないのだろうか。誰かをここで待っているのだろうか。そんな疑問が僕の頭を旋回していた。
「やっぱり僕は行くのをやめるよ」老人の方を見ながら僕はそう言った。
ムラタは耳を疑った様子で、半ば呆れて僕の方を見た。
彼には彼なりの考えがあって僕をビーチに誘ってくれたのだと、諭すような口調で聞かされた。この街に来る人はみんなそれぞれに悩みや不満を抱えている。そういう自分を少しでも変えようとして。自分もその一人だとムラタは言う。お前だってその為にわざわざこんなところにまで来たんじゃないのか?いつまでも自分の世界に閉じこもっているだけじゃ何も変わらない。
ムラタの言葉は僕の内側で滲み入るように響いた。彼の言う通りかも知れない。僕は自分の意思で次の一歩を踏み出さなければいけないのかもしれない。しかし、それと同時に昼間見た黒いタートルネックの男の姿が頭の中にちらついた。そしてその時のムラタの表情を。
案の定その「迎え」は昼間に見た黒いフォルクスワーゲンだった。寮の前に止まった車はその場にそぐわない異質さを備えていた。運転席に座る男はバックミラー越しにしっかりと僕の目を捉えていた。
「もう少し真剣に向き合った方がいい、自分の意思と」ムラタはそう言って一人でセダン車の助手席に乗り込んだ。
そして車は去っていった。あとに残された僕は、ムラタの誘いを自らの意思で断れたことに少しばかりの開放感を覚えた。しかし、彼の言葉が魚の小骨のように喉の奥につっかえて、どこかうらぶれた気持ちになった。
僕は洗い終わった自分の洗濯物をバスケットに移し、再び息を切らしながらそれを干しに屋上へ行った。すでに陽は傾きつつあった。誰のものかはわからない白いシーツが、仄かに柔軟剤の匂いを漂わせながら、土曜の午後の風に膨らんでいた。和解を求める白旗のように。
自分の洗濯物を干し終えた時、また一人になったことに心は馴染んでいた。
もう少し真剣に向き合った方がいい、自分の意思と。彼は本心で僕にそう告げていた。彼が東京で感じた疎外感や、すでに失われていた神戸での居場所のことを思うと、彼が自らの意思に対して実直であろうとする姿勢に見習うべきものがあることは明らかだった。しかしどうだろう。僕の立場にそれを置き換えたとき、何らかの壁にぶつかる感覚がそこにはあった。そもそも僕はどうしてここに来たのだろう?僕はどうなりたくてここにいるのだろう?その問いかけに対して応えてくれるものはいなかった。この僕でさえ、自分の意思というものをうまく理解できていないのだ。それを見つける手立てもなければ、見つかった後の自分を想像することもままならない。僕にできることは、自分だけの時間を愛すること。起伏のない穏やかな一日を繰り返すこと。それでいいじゃないか。何を求めるかは個人の自由なのだから。着実に、誰も傷つけずに日々を過ごすこと。それが出来るだけでも僕が僕であることを認めることの大切な要素だ。
今まで深いところで凝り固まった体の一部が出し抜けに刺激されて、少しの間自分が昂っていることに動揺していた。
誰もいない212号室には、開け放たれた窓から西日が入り込んできていた。何となしに開いた冷蔵庫の中で、サン・ミゲルが二本といつからあるのか分からない青リンゴが一つ冷えていた。僕はサン・ミゲルを一本手に取り、栓を抜いて一口飲んだ。窓辺に置かれた安楽椅子に腰掛け、オットマンのかわりにスーツケースの上に足を乗せた。
いつものように、休日の閑散とした寮は静かだった。時折、大学の方からテニスボールを弾く音が耳に届いた。僕はサン・ミゲルに口をつけながら『風立ちぬ』の最後の章を読み進めた。文章を目で追いながら、何だか自分が、棲家となるに相応しい巻貝の殻に入り込むヤドカリになったような気持ちになった。探し求めていたものにぴたりと合う形や大きさを持ち、その中でもぞもぞと自分が落ち着ける体勢を探り、誰の邪魔もされない砂の中へ沈んでいくような。パセティックでとても穏やかとは言えない物語を読んでいるのだけれど、僕の内側は風が止んだ湖面のようにどこまでも安らいでいた。
それこそが僕が必要としていたものだった。ムラタは自分の意思と向き合うべきだと言った。そして僕が導き出したものは、自意識の保留だった。僕という個人が含まれる全ての環境を捨てて、一切のしがらみを放り出した先で何かを強く求める僕が待っているはずだ。日本を離れる前に漠然と頭の中に浮かんでいたイメージが一つになっていく感覚があった。そんな風に考えると気持ちが楽になっていく気がした。カーテンの隙間からこぼれる生温い風にも涼しさを見出すことができた。
ふと耳を澄ますと、どこかの部屋から音楽が聞こえてきた。僕は立ち上がって部屋のドアを開けた。撫でるようなドラムスとピアノ、トランペットの軋み。暗くて冷ややかな廊下にチェット・ベイカーの歌声が微かに響いていた。どこの部屋から流れてくるのかは分からない。僕はしばらく部屋のドアを開けたままにしておいた。
最後の章が読み終わるのとほとんど同時にサン・ミゲルの入った瓶は空になった。
Le vent se lève, il faut tenter de vivre.
—— 風立ちぬ、いざ生きめやも
フランスの詩人ポール・ヴァレリーの詩を堀辰雄はそのように訳した。少しずつ読み進めてきた物語が終わり本を閉じてしまうと、そこにはやはり幾らかの寂しさが残った。僕は冷蔵庫からサン・ミゲルの二本目を取り出し、廊下に鳴り響く音楽を聞きながら物語の回想に耽った。
その日の夜、ムラタは戻らなかった。他人と生活を共にすることに慣れていない僕が、常に蒸し暑く騒々しい寮生活の中でずっと求めていた静かな時間。それを僕は独り占めにすることができた。洗い立てのシーツの上で仰向けになりながらそんなことを考えていると、僕はいつの間にか眠りに落ちていた。僕はその短い眠りの中で夢を見た。とても細部までありありとした夢だった。
僕がいるのは寮の廊下だった。暗くて空気が冷えていて、セメント塗りの壁は細かい汗をかいていた。その廊下は僕が生活している寮の廊下で間違いなかった。しかしある違和感がそこにはあった。その廊下は現実のそれに比べて明らかに長かった。僕は212号室に向けて歩いているところだった。やはり夢の中であっても誰かが何かに釘を打ちつける音が廊下中にこだましていた。匿名的な金槌が匿名的な釘を叩いていた。こもって妙に引き伸ばされたその音を耳にしていると、それはこの廊下自体が発する音だと言うことに気がついた。普段なら聞こえるはずの自分の靴音はどうやら長い廊下が吸い込んでしまったようだ。廊下は間違いなく僕一人に向けて何かを訴えていた。その硬い警鐘が何を意味するのか、そこまでは分からなかった。僕はひたすらに真っ直ぐ歩いていた。ぴたりと閉じられた各部屋の扉。その意味を成さない蛍光灯のわずかな灯り。どこまでも続くその光景は曲がり角を持たない。それぞれの部屋のドアプレートには何も刻まれてはいなかった。振り返るとそこにあるのは振り返る前の風景と何ら変わらない一本の廊下。僕はそこにある確証のない212号室に向けて前に進む以外に選択肢を持たなかった。それが夢の中で起きていることだと分かっていても、不安と恐怖を拭い去ることは難しかった。どれだけ歩いても終わりの見えないその廊下は僕に向かって匿名的な釘を打ち続けていた。
かなり遠くまで歩いてきたところで僕はあることに気がついた。前方に微かに見える光。目を凝らすとそこには光があった。僕は駆け出した。近づくにつれてその光の正体が何であるかが僕には分かってきた。それは僅かに開かれた部屋のドアから漏れ出る光だ。そこが212号室であることが僕には分かった。気づくと廊下に響くあの音は止んでいた。少しだけ開いたドアの前まで来ると、その奥で待ち受けているものに恐れを感じた。走ったことで切らした息を整えるのに少し時間がかかった。僕は深く息を吐き、意を決してドアを開けた。
そこは昼下がりの僕とムラタの部屋だった。そして中には誰もいない。窓は開いており、陽射しを受けた白いレースのカーテンが時折風になびいていた。窓際には安楽椅子と僕のスーツケース。二つのベッドのシーツにはどちらもシワがついている。いつもと何ら変わらない212号室がそこにはあった。さっきまでの張り詰めた空気とは一転して、窓から入り込むやわらかな風が僕を落ち着かせてくれた。僕の使っている書物机の上には昼間見た時と同じように数枚の便箋が乗せられていた。
僕はドアを閉めることも忘れ、引き寄せられるようにその便箋を手に取った。それは黒いボールペンで刻まれたベトナム語の手紙だった。まるで活版印刷でプレスしたように、強い筆圧で書かれた文字はほどよく窪んでいた。そこにはその日の昼間に手に取った時とは違うところが一つあった。僕にはそれを読むことができた。
母さん、元気にしてるかい?
僕は相変わらず日が傾くとついついビールに手が伸びてしまうみたいだ。そこは父さんの血筋だから仕方のないことだよね?こっちの最近は焼けるように暑い日が続いててスコールだってほとんど降らない。故郷のじめじめとした空気が恋しいと思うなんて僕はどうかしてるのかも知れない。ルームメートは前の恋人と相当ひどい別れ方をしたみたいで時々ノイローゼなんじゃないかと心配になることがあるよ。こっちにいるみんなはそれぞれに忙しそうでどこか悲しそうで、寮の壁にはそういう雰囲気が染み込んでしまってなんだかあまり居心地が良いとは言えないみたいだ。それでもみんな休日になると一目散に海へ出かけていくんだ。まるで水を得た魚だよ。(これはなかなか上手い例えだと思わない?)ここにいる留学生の多くは、ここに来る前は勉強熱心で新たな自分を模索するハングリーな目をしてる。でもそのうちのほとんどがこの馬鹿げた暑さにやられて、休日にビーチに行って浴びるほどビールを飲んで暑さを吹き飛ばすってだけの生活をするマインドになってしまう。この地を踏んだら最後、元には戻れない。疲れ果ててビーチから帰ってくる彼らの長い時間海水に浸って白くふやけた肌を見ると、僕はユンのことをどうしても考えてしまう。もしユンがまだ生きていたら彼は十八歳だよ。僕の中でユンは、未だに海水パンツを放り捨てて裸でビーチを駆け回るような無垢で可愛い赤ん坊でしかないんだ。彼が大人になったらなんて、どうしてもうまく想像できないよ。あの時頑なにイソガニを触らせてあげなかったことで僕が自分を責めていることを母さんはいつも優しく諭してくれたね。私が目を離してうたた寝してしまったのが悪いんだって。やっぱり僕は思うんだ。誰のせいとかじゃない。あれがユンの運命だったんだって。そうやって考えていかなきゃ、ダメになるよ。ユンが僕の夢に出てこなかった夜はないよ。彼はいつだって裸で泣きながら砂浜をとぼとぼ歩いて行ってしまうんだ。そうして夜中に目が覚めて、眠れなくなってついついビールの栓を開けてしまう僕を許してほしい。
僕たちは幸か不幸か残されたんだ。残されたものは決して失われたものの人生を連れて生きてはいけない。それが死者に対するせめてもの償いだと僕は信じてる。自分の足で、自分の意思で着実に前に進んでいかなくてはいけない。母さん、僕はこうして母さんに宛てた手紙の中で僕自身に向かって問いかけているのかも知れない。もうすぐ留学生活も折り返しだよ。早く母さんに会いたいよ。
ロン
バタン、と唐突に扉が閉まった音がした。
目を覚ました時、白いシーツは全身から玉のように吹き出た汗でぐっしょり濡れていた。僕は上半身をベッドに起こし、乱れた呼吸を落ち着かせようと目を閉じた。僕の頭の中は白い殻のなかで煮えたぎる卵のように渦を巻いていた。舌の端が微かに痺れていた。顔の上を流れる汗が顎先を伝ってぽたぽたとTシャツに黒いシミをつくった。
開け放たれた窓からはここが常夏の島だということを忘れさせるような肌寒い風が流れ込んできていた。次第に身体中の汗が引くと僕は凍てつくような寒さを感じてブランケットに包まった。
うんざりするほど気の合わないムラタの外泊は僕に充実した休息を与えるはずだった。しかし目を覚ました時、僕の心は人間の暖かさを強く求めていた。涼しさを通り越した寒気が部屋を満たし、渇いた汗は僕を芯から震えさせた。いつも求めていた厳かな静寂は僕に孤独を認めさせた。知らない国の知らない町で交わされる解らない言葉は僕のことなど気にしない。騒がしく鳴り止まないノイズ、僕の心の訴えにとってそれは徹底的沈黙を意味していた。
ムラタやロンやシユは、それぞれに個人的な孤独を抱えていた。そしてしっかりとそれに向き合い、打ち勝とうとしていた。着実に前に進む努力をしていた。だけど、僕はそうではなかった。僕は今まで、自分の中の孤独に気づいていた。気づいていながら、それと向き合おうとはしなかった。無意識のうちに、僕はそれをなるべく見ないように努めてきた。向き合ってしまえば、自分が傷つくことはわかっていたから。傷つかないように、寂しさや哀しさという感情を押し殺してきた。
その鮮明な夢は、僕が目を逸らせてはいけない現実を差し出した。それに呼応するように僕は内側から震えている。これまでその場凌ぎで拵えてきた土嚢は崩れ、感情の河岸は音もなく決壊した。
僕は声を押し殺すことも忘れ、力の限り咽び泣いた。泣くということに慣れていない僕の身体は留まることを知らず、息をするのも困難だった。引き攣った横隔膜が、胸の中でひっくり返ってしまうのではないかと真剣に不安になった。
日本に帰りたい。日本に置き去りにした、向き合うべき現実にしっかりとミットを構えなくては。僕の内側で、自我の種がようやく芽吹き出したのを感じた。これまでに感じたことのない感覚に、名のない臓器が激しく呼応しているのが分かった。泣き止んだ僕は立ち上がって流し台に向かい、みなぎる決意をグラスに残った水と一緒に腹の奥にに流し込んだ。月光が差し込むほの暗いキッチンの流し台に、水を飲み干したグラスをこんと置いた。その時、開け放した窓から強い風が勢いよく吹き込んだ。突風はレースのカーテンを翻し、部屋の中を旋回して瞬く間に212号室に満ちた澱んだ空気を攫っていった。