第19話 ダイブ・アンダーウォーター
その日が来た。
手術台の上の甲斐美晴はゆっくり眠りについていた。
挿管—―喉に呼吸用チューブが挿入され、母体を通じて胎児にも麻酔薬が送られる。
麻酔科医も指導医クラスが二人体制で監視している。
産婦人科が管轄する第七手術室は張り詰めた緊張感が覆っていた。
子宮に到達するまでは産婦人科の領域、子宮内では神経外科の領域だ。
基本的に星来がロボットで通して手術する予定だが、万が一に備えて専門の脳神経外科医も待機している。
術中は手術スタッフがセンシティブになるという配慮から、夫である甲斐準教授は手術室の外で待機するように命じられている。
「タイムアウトを行います。患者氏名、執刀医から氏名、術式、手術部位、予想手術時間、出血量をお願いします」
「外回り」と呼ばれる間接介助看護師が手術開始の合図を開始する。
「執刀、岸 織江」
「第一助手、讃岐 哲也」
「第二助手、屋島 未來」
「……」
手術室の外部連絡用スピーカーからぼそぼそと声がするが、聞き取れない。
「第四手術室! 準備は良いか? 私の声が聞こえるか?」
岸教授がインカムに向かって怒鳴ると、スピーカーから男性の声が返ってきた。
『こちら第四手術室。臨床工学士の古市、八波その他一名準備完了です。』
ここに至っても星来の執刀は完全に情報公開されていなかった。
遠隔操作で第四手術室から第七手術室の美晴を手術するのである。
星来は第四手術室のサージョンコクピットで指のストレッチをしていた。
ゲームの大会の時にやっていたルーチンだ。
彗にもそうするように勧められた。
「彗先生……」
――すべてのコンディションを、自分の力を最も発揮できるように持っていけ、ですよね。
短い時間だったが、彗には密度の濃い指導を受けた。実際の手術ビデオを一緒に見たり、シュミレーションに立ち会ってもらった。
今日はまだ姿を見せていないが、彗に初めから頼る気持ちはない。
実際にいなくても、心の中に言葉がある。常時そうでなければならないというのも彗の教えだ。
決まった時間の中、やるべきことはやった。
ポータル――内視鏡とロボットアームを挿入する入口ができてからが自分の仕事だ。それまではゆっくり心を整える。
麗美がプレゼントしてくれたアイボリーのスクラブが気持ちいい。
みんなが私と一緒にいる。
ゲーマーの頃の様に孤独ではないのだ。
無影灯に取り付けられたカメラから手術部の様子が送信されている。
イソジンで消毒された後に覆布がかけられ、マーキングペンで印をつけてから切開の電気メスの煙が立ち上る。
滅菌カバーがかけられた内視鏡が取り付けられ、ポータルの中—―腹の中の映像に切り替わった。
子宮壁を貫通し、内視鏡が羊水の中に入った。
「第四手術室、子宮内に到達した。見えるか?」
「はい、今見えました。鉗子も確認しました」
岸教授の呼びかけが聞こえたので、星来は答えた。
少しでも胎児を傷つけないために手術支援ロボットは「サイコム」が選択された。サイコムはアームに力感センサがあるため、つまんだものや触れたものの感触、硬さや柔らかさが手元にフィードバックされる。
……これは本当に……潜水艦になったみたい。それともスキューバダイビングかな。
ポコポコと水泡が見える。その向こうには浮かぶ白い壁――胎児の背中が見えた。
整形外科の手術映像を見ておいてよかった、と星来は思った。
腹部の内視鏡ではガスを注入して膨らませ、作業スペースを作るのだが、整形外科医の内視鏡—―関節鏡手術では、肩や膝の関節の中に食塩水やリンゲル液を注入して手術するのである。
電気凝固装置を使うと溶液が沸騰してボコボコと気泡が出るのがちょっと面白かった。
背骨の隆起を追跡していく。丸く頭が見えたので反対方向に内視鏡の向きを変える。
アームを伸ばした。
水中用に古市が開発したという多重関節の特殊鉗子だ。
尺取り虫の様に動いて髄膜瘤の表面をとらえると、指先に柔らかい手触りを感じる。
瘤の中には液体とバラバラに広がった脊髄神経が収まっている。
瘤の一部が不気味に口を開けている。
「それでは…」一回深呼吸する。「行きます!」
方向を確認し、薄い皮膚を縦に切開すると引き伸ばされた硬膜が現れた。
硬膜は文字通り硬い丈夫な膜で、本来は脳と脊髄を包んで保護している。
表面に走る血管だけを電気凝固し、できるだけ神経に損傷を与えない様にする。
この裏にも潜在的に神経がへばりついている可能性があるからだ。
「硬膜を切開します。ナイロン糸で瘤を開いたままに固定……あっ」
瘤の中に侵入すると、神経線維が飛び出して来た、海藻の森に迷い込んだ様だ。いや、むしろ細さからすると水に揺蕩う糸束の群れに似ている。
「硬膜の切開部を保定しなさい」
名前を知らない脳神経外科の先生からメッセージが来た。
「はい」
神経を巻き込まないように鉗子で切り開いた硬膜の端をつまみ、別の鉗子に切り替える。
内視鏡も含め、五本分のアームを二本の手で操る。
星来にはあまり苦にならない。実のところ、もう一本足で操作できるアームがあれば良いのに、と思ったので先日古市に改良を頼んだばかりだ。
六分の一ミリの糸をかけて袋状になった瘤の薄皮をめくり返す。
海外の手術動画を彗と一緒に見たが、全く荒々しい手技だった。
あんな風には、絶対自分はしない。
繊細な神経を扱うなら、極力電気凝固器は使わない。
神経の目――線維に沿って剥離して、神経そのものもつかんだりつまんだりしない。
やるなら……
――究極のア・トラウマティック・アプローチ。マイクロサージャリーだ。
彗が見せてくれた手術の映像は、脊髄外科の手術と手外科の手術だった。
脊髄の中にできた腫瘍を切除するために極細のチタンのヘラで神経を分離する。
一ミリ以下の指の神経線維に、0.02ミリの糸をかけて縫い合わせる。しかも神経を包む膜だけに糸をかけるのだ。
「今から身に着けるのは簡単でない。ただ一点だけ有利なのは、手術ロボットは手の生理学的振戦を補正してくれる。通常多くの医師は訓練でそれを克服するのだが」
「私、やります。だって、これが必要なんだと思います」
「分かった。ならば教えよう」
そう言って教えられたのが、あの『糸こんにゃくとカイワレ大根の練習』だ。
「ロボット支援手術も突き詰めれば人間の手の動きの延長だ。この部分はお前のオリジナルの手術で、VRシミュレーションはない。ならば、実物に近いもので練習するしか無い」
今なら、彗の指示した「特訓」の意味が分かるような気がした。
動かした手の数が確実な自信につながっていると思う。今日のこの手術に関して自分より熟知している人間が、この地球上に五人といるとは思えない。
神経が嚢腫の内側でもつれ、ところどころ内壁に癒着している。
糸の様な神経の方向と弾力を感じ取り、剥離していく。
――剥離はワンストローク。
組織に平行に微小操作用の尖刀を入れて、一回の尖刀の開きで神経を分離する。
できればメスを使う。ハサミの角すら組織を傷つける可能性があるからだ。
もつれた糸玉の様な神経が徐々にほぐれてきた。
これで神経を体の中に押し戻し、硬膜と皮下組織、皮膚を閉鎖すれば手術は終わる――普通なら。
だが、それを超える。自分が目指すのはそれだった。
「よし……十分剥離できたな。さすがの手際だ。それでは閉鎖を……」
岸教授は満足できる段階に達したらしい。
手術を終わろうと声をかけてきた。
「いいえ。これで終わりではありません」
「何だと!?」
「見てください」
タタタン、とフットスイッチを踏み、内視鏡の画像を切り替える。
「何本か神経が切れているところがあります」
「それはその通りだが……いったい何をする気だ?」
「神経を修理するんです!」
答えながらも星来の操作する鉗子がめまぐるしく動き始めた。
水中型の尺取り虫のような鉗子が動きを止め、極小のマニュピレータに切り替わる。
ほとんど針のような先端で剥離した神経の線維を整え、もつれを取り除き、束ねて整えていく。
0.07ミリの縫合糸を使い、神経を包む極薄の膜に針を通し、つなぎ始める。
「ま、まさかっ? 羊水内で神経縫合をやる気か?」
「こいつ、何をする気だ? ……まさか、脊髄円錐と馬尾神経を再建しようとしてるのか!?」
「だって、神経を修理するって、そういうことでしょう!」
「ちょっと待て、眞杉、止まりなさい!」
「眞杉って、あなた、もしかして星来ちゃん!?」
岸と脳神経外科医、そして指導医の屋島の驚く声がする。
だが、星来はすでにその声を聞いていなかった。
すべて想定通り。
手先に集中するのみだ。
「生まれて初めて、たとえ世界初の手術でも、突き詰めればそれは既存の方法の組み合わせに過ぎない。徹底的に頭の中でシミュレーションをやれ。信じるべきものは自分の脳だ。シミュレーターよりもはるかに優れている」
彗の言葉が脳裏によみがえる。
屋島に自分のことがばれてしまったようだが、もうどうでもいい。
この子供の治療に、自分の全身全霊を捧げるのだ。
「眞杉星来、行きます!」