第18話 マイクロ・サージャリー
「おーいセイラ、何してる?」
麗美の元気な声が聞こえる。
VRゴーグルを着けたまま星来が振り返ったので、麗美が盛大に笑っている。
「ゲラゲラ。何してんの!? それで見えるわけないじゃん」
慌ててコンソールを手放し、ゴーグルを上にずり上げた。
胎児の脊髄修復手術まであと二日しかない。
病棟の仕事は教授命令で一時免除され、先端医学講座の研究室に朝からこもりっきりだ。
「手術の練習。これはデジタル顕微鏡支援ロボットっていうの」
「デジタル?」
「ここでコンソール――というか、このワイヤレス端子付きのピンセットを動かすと」星来は部屋の反対側を指さした。「あそこの手術ロボットが動くんだよ」
「でも顕微鏡?」
「そこのパソコンの画面を見てみて。それで倍率は三十倍だって」
麗美はモニタの中に突き出したアームと実際の手術ロボットを見比べた。手術ロボットは理科の顕微鏡をそのまま大きくしたような形をしている。
「なるほどね。こういうの、そういえばフリーソフトと通販で売ってるよ」
「そうなんだ」
「最近はパソコンにつながる携帯式の超音波検査機の端子まで売ってるからねえ。うちの従兄なんて、奥さんが妊娠した時買おうとして怒られてたよ。で、こんな大がかりな機械で拡大して何やってんの?」
「マイクロ・サージャリーの支援ロボットの練習」
「マイクロ? あの血管吻合とかするやつ? 形成外科とか、手外科とかで」
「うん」
「今回は産婦人科の手術でしょ?」
「そうだけど……」星来は口ごもった。「彗先生が、私がやりたい手術に必要だって」
「ふーむ、でも、これ何? これもケイセンセイの指示?」
麗美はロボットのそばに置いてあるビニール袋を指差した。
「うん。これが練習には一番良いって言われたから」
ビニール袋の中には糸こんにゃくとカイワレ大根、鶏の手羽先が入っていた。しかもそれぞれ10袋はある。
「ちゃんこ鍋でも作る気?」
「糸こんにゃくは注射針で穴を開けたのもあるから、料理には使えないよ」
麗美はロボットの小さなアームの先端を覗き込んだ。
目を細めて見ると、どうやら糸こんにゃくの先端同士を糸で縫ってつなぎ合わせてある。
こんにゃくの断面はマカロニの様に中空になっており、これが注射針で空けた穴らしい。ゴミ箱には同じ様に根元同士がつなぎ合わされたカイワレ大根が捨てられていた。
「ちょっと食べ物がもったいないけど」
「何だか騙されている気もするなぁ……こんなのが何の役に立つのやら」
「彗先生のことだから、何か考えがあるって信じてる」
「ケイセンセイを信じてる、ねぇ……それより、どうなの?」
「どうって?」
「だって、二人っきりで手術の勉強しているんでしょ」
麗美がニマニマ笑った。
「うん。そう。厳しいけど、とても勉強になる。手術の動画を一緒に見て、それから縫合の仕方とかも細かく指導が入るの」
「えーっとさ、こう、もっと何か面白い展開はないの? まあ、ちょっと歳は離れてるけどさ、その辺のオジサンに比べたら結構いい線いってると思うんだけど」
「いい線? 彗先生はまだ三十台だから、おじさんって言ったら失礼だと思うな。……面白いと言えば、ハサミとピンセットの面白い使い方を習ったっけ」
「ああ……セイラにはまだ早かったか……あなたの言葉は光だとか言ってたのに」
「だって本当に見えたんだもの。共感覚っていうんでしょ? 音に色が見えたりとか」
「いや、あんなのほとんど告白じゃんよ」
「えぇっ! そんなふうに聞こえたの?」
「なかなか大胆だったよ」
「……初対面の人に告白なんてするはずないでしょ!」
「初対面の人とセイラがよく話せたよねぇ」
「それはそうなんだけど……」
あの時は必死だったのだ。
「彗先生は、ほんとにすごい先生なの。海外の大学の名誉教授もしてるらしいし、確かに、今考えると信じられない……」
それ以外の何者でもない。仰ぎ見る師、古市風に言えば恩師だ。
彼の知識は尊敬できるし憧れるが、男性として意識したことなど……ない。
「ふーん、そういうもんかな。ピンセットを持つ手を指導していて触れたらトゥンク、とかないの?」
「何それ? 少女漫画じゃあるまいし」
彗はいつも無表情だが、自分の言葉に時折小さな笑顔を見せる。
あの不思議な色の瞳を見ていると、時々吸い込まれそうになることはある。
―そんな時は確かに少しだけ嬉しいけれど。
「とりあえず、カイワレ百本、糸こんにゃく百本、鶏手羽の血管百本がノルマなので」
「三百本繋ぐの!?」
「初めは一本二十分くらいかかったけど、今は五分くらいでできるから、あと十五時間くらいで終わるよ。本当は、練習時間は一万時間を超えなきゃいけないって」
「スパルタ教育だ!?」
「ううん、私、勉強は苦手だけど、繰り返し何かするのは頑張れる。それに、人を治療するって、そういうことだと思う。ゲームだって熟練までは一万時間、って言われたことがある」
星来は甲斐の言葉を思い出していた。
――お前のメスは軽い――。
「……しばらくこの三つを使った料理は食べられなくなるね。そうそう、これ私から」
麗美はバックパックから包みを取り出した。
「今回の手術はうちの病院の秘密計画じゃん? 私が一緒にいるわけにはいかないからさ」
「何?」
包みを開けると、アイボリーのスクラブが出てきた。
可愛い裏地が付いている。女性向けのアパレルと白衣のメーカーが共同開発した物で、長時間でも快適な着心地を保つ機能があるらしい。胸ポケットの上にはSEIRA MASUGIのイニシャルが刺繍してある。
「これ、高いやつだよ……いいの?」
「自分のを買うついでだから。早めの誕生日プレゼントだでも思っといて。親友の晴れ姿にそのくらいしたいじゃない」
麗美はパタパタと手を振った。
「ありがとう……」
「大学病院で最下層の研修医が、教授の代わりに執刀なんて、痛快じゃない。セイラ、一発かましちゃえ」
「うん……」
「それにしてもこの部屋、生臭いね」
「手羽とコンニャクがあるから」
麗美が鼻をつまむ。
笑ったせいで、我慢していた涙が一粒こぼれた。
次回、いよいよ本番の手術です。