第17話 サージカル・ノット
「あら、星来ちゃん、感心ね」
屋島が星来の白衣の胸ポケットを見て言った。
午前中は産婦人科の病棟で働き、午後は美春の手術の準備をする事になっている。
白衣の胸ポケットには三色ボールペンが刺してあるが、クリップ部分にミサンガの様に編まれた絹糸が何本もぶら下がっている。屋島が感心と言ったのはこれの事だった。
糸結びは外科医の基本技術である。
外科結び・片手結び・両手結びなどと呼ばれる結び方を反復練習するのだ。筋膜など強い組織は力強く確実に結び合わせ、血管は緩まない様にしっかり、しかし引きちぎらない様に繊細に結ぶ事が要求される。
さらに求められるのは、速度だ。
外科系を志す研修医は、必ず練習する事を命じられる。
「たくさん練習してるのね。指を切らない様に気をつけてね」
星来は思わず絆創膏だらけの指を隠した。
結び目がほどけない様にきっちり《《ロックをかける》》と、丈夫な糸のテンションで人差し指や中指、小指の角が切れる。
彗からは一日三百回以上を命じられた。実のところは約千回結んでいる。通常の外科医が数年かけてやる回数を、数日でこなさなければならないと思っているからだ。
「もうすぐ一時ね。教授の手伝いも大変ね」
「……はい」
星来の執刀は秘密なので、屋島には、岸教授直々で論文の手伝いを命じられていると説明されていた。緊急分娩や帝王切開にも参加してみたいが、ひとまず手術の準備が優先なので免除されている。
屋島の性格が良いだけに、騙すようで少し申し訳なかった。
病棟を離れて先端医療講座の研究室に行くと、彗が待っていた。
いつものように赤いマグカップにブラックコーヒーを入れて飲んでいる。
「結紮はやっているらしいな」
星来の指を見て彗は言った。
「器械結びは?」
「百回……くらいです。綿包帯一本分なので」
「良いだろう」
器械結びとは、持針器と鑷子――縫合用の鉗子とピンセットを使って縫合する手技だ。一般的に皮膚の縫合はこの方法で行なう。
綿包帯は整形外科でギプスの下に巻く、文字通り綿でできた包帯だ。これに切り込みを入れて薄い綿を破らない強さで縫合する練習だった。
男性の上腕ほどの太さの包帯がボロボロになるまで縫い続ける。
ロボット手術に何が役に立つのかと思う。だが、星来が首を傾げる前に彗は言った。
「小脳と体幹に覚え込ませるためだ」
「小脳ですか?」
「ヘタクソな奴ほど、手首から先を使おうとする。手先に頼るほど先端がぶれる。縫合など息をするように出来なければならない。それが皮膚でも、一ミリ以下の血管でもな」
「息をする……呼吸と同じってこと……?」
「自転車や水泳と同じだ。しばらくしていなくてもいつでも出来る。そもそも基本的な手技を疎かにしている奴が多すぎるんだ」
彗は不自由な腕でやって見せてくれた。
左手の片手結びであれば、普通の医師より遥かに速くて上手かった。麻痺の無い現役の頃はどれだけ凄かったのだろうか。想像もつかなかった。
「さて、今日は手術本番――具体的な術式の感覚を練っていかなければならないだろうな。何せ、国内では胎児手術の症例数が少なすぎてシミュレーションも作れない。一応、古市がドイツとアメリカから手術動画を取り寄せてくれた」
そういうと彗は先端医学教室備え付けのデスクトップパソコンを操作した。
「これ……ですか?」
再生されて数分で星来は首を傾げた。
その反応を見て、彗は少しだけ笑った。
「どう思う?」
「これって……」
「構わない。口に出してみろ」
彗はコーヒーを飲みながら、星来が言葉を紡ぐのを待っていた。
「これ……外国の偉い人の手術なんですよね?」
「……下手なんだろう」
「いや……えーっと、そこまでは言いませんけど」
胎児の背中にできた瘤にザクザクと電気メスを突っ込み、中にあふれた神経を押し戻しているだけに見える。「閉鎖術」とはよく言ったものだというのが、星来の素直な感想だった。
「こんなので……治るんでしょうか」
うっかり口に出して、星来は口を押さえた。
「俺の知人—―お前の言うところの「偉い人」に当たる医者が昔嘆いていた。白人にいくら微小リンパ管吻合を教えても、できる様にならない、とな」
「それって……」
「人種差別じゃない。欧米の外科系の教授のポストは、多くがアジア系で占められているのは事実だ。とある偉い白人教授に言わせると、アジア人は子供の時からピンセット――箸のことだな――を使っているせいで母指球筋が発達している、生まれつき有利なのだ、だとな」
「それで……でも、これは」
自分がやりたい手術ではない。
「お前のイメージに合わないんだろう? 今回お前が挑む手術は、お前自身がイメージを作り出さなければならない。お前はどうしたい?」
甲斐美晴のおなかの中にいる、小さな命を助けるために、何がしたいのか。
自分が精一杯できることは何だろう。
「私だったら……こう、したいです」
星来は逡巡した後、それを口にした。言葉にするのが難しい。
絹糸の様な細い細い神経が、本来の形を失って胎内でほどけている。
――ならば。
研修医の自分では、医学知識も語彙も足らない。手と指の身振りを交えて、一生懸命伝えるのを、彗は黙って聞いていた。
彗の目を見つめる。
緑色がかった不思議な色の瞳に自分の顔が映っていた。
今まで出会った多くの人たちと違って、頭ごなしに否定したり急かしたりしない。真剣に耳を傾けてくれているのが分かる。
自分の胸の奥にある熱を何とか伝えたかった。
「む……無茶でしょうか?」
「そうか……それは……若さゆえというか……実に面白い発想だな」
そう言うと彗は自分の鞄からSSDを取り出してパソコンにつなげた。
古いフォルダらしく、しばらく検索して数個の動画ファイルを取り出した。
「お前がイメージしているのは、これか? ……一部は、俺が昔執刀した手術もある」
星来は食い入るようにその動画を見た。
すぐに自分が求めているもの――イメージ通りの物だと直感した。
「先生……! 私、これがやりたいです」
「ふむ……」
彗はしばらく考え込んでから言った。
「時間のない今、それは非常に難しい方法になるかもしれない。さらに特殊な訓練が必要だ。だが、この技術は通常何年もかけて習得することが多い。それに、練習しても全くできる様にならない奴もいる」
「でも……できる可能性があるなら」
「論理的には支援ロボットを使うのは有利だと言われている。手の生理学的振戦を修正してくれるからな。だが、かつてフランスの研究グループが実用化を試みて、完全撤退したという事実もある」
彗はもう一度星来の顔を見た。
「それでも、お前はやるんだな」
「はい」
「なぜそこまで?」
刹那、父の顔が浮かぶ。
「私の、この手の届く範囲にある生命なら……助けたいんです」
「分かった。では練習方法を教えよう。だが、過酷になるぞ」
「お願いします」
星来は頷いた。
彗はどこか嬉しそうだった。
次回、星来の理想の手術の一端が分かります。