第16話 メンター
翌日、彗は約束通り先端医学講座の研究室にやって来た。
録画された自分の手術の動画を一緒に見直す作業を指示された。一回目の心臓手術、二回目の子宮の手術、そして途中で彗に助けてもらった前立腺の手術、と続く。
隣には西園寺――彗がいる。サングラスを外してモニタ画面を凝視している。
すさまじく緊張する。
「ここでなぜこういう動きをする?」
時折、自分の手術操作に解説を求められる。
「な、何となく……」
麗美ではないが、確かに自分は感覚に多くを頼る癖があると思う。
そんな答えを彗は叱るでもなく、じっと考えながら画面を見つめていた。
ところどころ早送りしながら、やがて三つの手術動画を見終わり、彗は口を開いた。
「なるほど」
「……あの、どこを直せば良いでしょう?」
「全部だな」
「全部!」
普通より少しくらいは出来る方だと思っていたのに、とんだ思い上がりだったのだろうか。というより、全部直していたらとても次の手術に間に合うと思えない。
「というか、自分で自分のどこが駄目なのか分かっているだろう?」
「は……はあ」
「構わん、言ってみろ」
彗はどこが駄目だと思っているのだろう。考えても分からない。
そっと顔色をうかがってみた。
緑がかった瞳で真っ直ぐ自分を見ている。
慌てて目を伏せた。
「正解などない。人に答えを見つけようとするな。自分の出来る事、出来ない事を言語化してみろ。自分自身に説明できなければ、その知識や手技は自分の血肉にはなっていない」
「なかなか手厳しいですな」
古市が隣の部屋からやって来た。
手に持ったお盆の上にカップが三つ乗っている。
「先輩は昔からブラックコーヒーでしたね」
「ああ、頂こう」
「眞杉君はよく分からなかったので」
「……ありがとうございます」
コーヒーだったがスティックシュガーが多めについてきた。色んな意味で人をよく観察している人だと思う。
「少し聞こえましたが、全部とはどういう意味ですか?」古市が興味深そうに尋ねる。
「正直、我々から見る限り眞杉君の手技は人並み以上に思えますが」
「機械操作者としてはな。本番の手術まで、あと何日あるんだ?」
「……四日です」
「ならこの三日は休む暇が無いぞ。次は実際にシミュレーションを見せてもらう」
「……はい」
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食事を簡単に済ませ、慌ただしく第四手術室に移動した。
古市と八波も一緒だ。
彗は自前のワインレッドのスクラブに着替えていた。
ワインレッドと言っても紫色と茶色を帯びたボルドーワインの様な深い色だ。
古市と違って颯爽と着こなしている。
マスクと帽子を着けていても自然に人目を引く。
廊下では看護師、特に女性の注目を集めていた。
「それでは、行きます」
星来はコクピットに座る。
彗は白いVRゴーグルを着けた。星来と同じ視野を共有するのだ。
「今回の手術に近い症例はなかなか無いので、差し当たり卵巣嚢腫の摘出とかで良いですか?」
「何でも良い」
古市の指示で画像が映し出された。極めて精細に作られたCGだ。
あそことあそこの血管を処理して、卵管を綺麗に剥がせば良い……そうすればクリアできる。
もう何回も練習した課題なので難しくない。星来は素早く鉗子を伸ばした。
「症例」
彗の声がインカムから唐突に聞こえたので、ビクリと手を止めた。
「三十二歳女性。数年前から強い腹痛がある。腹痛と不妊治療のために休職。不妊治療の検査中に発見された」
声が止まったので鉗子を再び動かし始めた。
だが、頭の中に女性の姿が浮かぶ。髪はセミロングで、元キャリアウーマン。
「強い挙児希望があり、卵巣の温存を希望している」
仕事を辞めたのに子供が出来ない……理解のない家族にも責められている。
女性の暗い表情が脳裏に現れる。
「卵巣は極めて癒着が強い」
途端に指が重くなった。これはシミュレーションで……ゲームのはずなのに。
慎重に、慎重に……。
「びっくりするくらい遅くなった……こんなの三十分くらいで終えてたのに」
八波が呟く。
「イメージ力……感受性が強いのですね。単に物体を把握するだけでなく、それこそ患者の人生にまで想いを巡らせてしまう」
古市が感慨深げに髭を撫でた。
「武器であり、欠点。両刃の剣だな。……それは?」
彗がマイクに向かって鋭く質問する。
組織の間にやや太い血管が露出している。
「……これ、どうすればいいんでしょう? この前まで普通に出来ていたのに」
星来は自分で情けなくなった。泣きそうだ。
「血管や神経を損傷しないのがもちろん最上だ。しかし、切ってしまっても縫ってしまえばどうということはない、そういう気持ちは必要だ。外科医は繊細かつ大胆で、楽観的でなければならない。」
「は、はい……」
「切っても大丈夫。だが、切らない意識を持て」
「はい」
「そうすれば、手が最善の手を選ぶ。最短で、最速の道だ」
星来は一度目をつぶり、開いた。
組織に赤いラインが見える様な気がする。再び手を動かし始めた。
「見えたか」
「はい」
「五ミリほど右に流れたな」
「は、はいっ」
彗先生も、このラインが見えるんだ……!
星来は夢中で手を動かした。
「手術は二手三手先を読んで行なうものだ。その血管を切ったら、次はどう侵入する? この方法が駄目なら、次はどの方法を使う? 常に三手準備しろ」
「はいっ!」
星来は手を動かすうちに気づいた。
彗は決して叱らないのだ。指示の口調こそ厳しいが、間違った選択をしても責める事がない。
常に前に進む事、進むために考える事を要求される。
口下手で内向的で、要領が悪い。人から急かされたり責められたりする事が多かった。
ゲーム以外の実生活で自信が持てなかった星来にとっては新鮮な感覚だった。
麗美の様に全肯定するのでもない。
多くの他者たちの様に非難する事もない。
正直、もっと手酷く叱られるのかと思っていた。外科医は体育会系気質で、ひと昔前は平気で罵倒したり殴ったりすることもあったという。
だが、彗が口にするのはあくまで具体的な解決方法で、時にはむしろ褒められているのかと思うこともある。
気づけば彗の言う通りに手を動かすのが快くもあった。
緊張感の中に程よいリラックスがある。
「チャンスを最大限に生かせ。縫合するとともに創に近接しろ。よし、両手を常に使え。一回のストロークで二回、三回分の仕事をしろ」
気づけば二時間以上経過していた。
脳をフル回転させていた気がする。
「終わりました……」
大きなため息をついてコクピットを降りた。
古市が髭を撫でながら頷いている。
「時間は倍以上かかりましたね」
「すみません……」
「ですが、推定出血量は五分の一でした」
「そうでしたか……」
想像の患者が笑顔になっている――そんな気がした。
「シミュレーション手術の患者の、社会的背景を作っておいた。後は……そうだな、その設定で二十はやってもらおう」
「二十症例!」
どれだけ時間がかかるのだろう。
だが、やるしかない。
気づいてみればこの二時間の経験はむしろ自信に変わっている気がする。
そうだ。
これはゲームではないのだ。
自分に足りなかったのはその覚悟――彗の言っている、「全部」の意味に星来は気づいた。
「それと、後は手を実際に動かしてもらう」
「手を実際に?」
彗の表情は読めなかった。
次回、彗の訓練が続きます。