第14話 タレント・オブ・サージャン
「岸教授、今度の眞杉君の手術の件ですが—―なかなか思い切ったことをされますね」
古市はひげを撫でながら言った。
岸の統括診療部長室に比べると、先端医学講座ははるかに狭い。
コンピュータの筐体と段ボールが所せましと並んで、医療関係の研究室というよりもまるでジャンクパーツを扱うコンピュータ・ショップのようである。
合材とスチール製の簡素なテーブルに着き、二人は向かい合って話している。
「今、本学は学部長も病院長も内科系で抑えられているからな。研究予算も医学部の運営方針も、ほとんどあちらに持っていかれる。外科系としては何としてでも目立った業績が欲しいのだよ。できれば、ランセット級のメジャー・ジャーナルに論文が載るような圧倒的な実績がな」
テーブルの上では古市お気に入りのアールグレイティーがマグカップに入って湯気を立てている。いつ洗ったかわからないようなマグカップはMS06と書かれた胡散臭いデザインで、岸は手を付けようとせず紫色のマスクをしたままだ。
「インパクト・ファクターの高い雑誌、ということですね。基本的にニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディスンやJAMA、ネイチャー・メディスンは基本的に内科系の雑誌ですから――勝負はもともとあちらに有利だ」
「学部長—―循環器内科の銀嶺教授がどうにも手ごわい」
「銀嶺先生は基礎医学との連携も上手ですね。部下の研究がネイチャーやセルにも掲載されている」
「臨床医としての資質はどうかと思うが、日本の大学病院のシステム――文部省が「英文論文」で医師を評価しポストを競わせるというシステムである限り、その土俵で勝たねばならん」
「それでその切り札が眞杉君というわけですか」
「外科系―—ひいてはうちの大学のためだよ」
「先生が上に上がるためでもありますね。手術支援ロボットをこれだけの台数揃えられるだけでもすごいと思いますが」
「ロボットの値段を知っているだろう? 一台三億円だ。それの元を取らねばならん」
「維持費が年間二千万円でしょう? もともと元は取れませんよ。現在のロボット手術は導入すれば病院が赤字になると言われている。地方自治体や国の補助金なしには成立しない」
「医業収益よりもむしろ知名度さ。君をわざわざマサチューセッツ工科大学《MIT》から呼んで寄付講座を作ったのもそのためだ。そこにあの娘がそろった。彼女は今どうしている?」
「暗記はひどく苦手みたいですが、根が真面目なのでしょうね。色々な内視鏡手術の動画を繰り返し見ている様です――。だが、シミュレータで練習するようにはいかないようです」
「だろうな。前例がほとんどないからな。シミュレーションも組めない――しかも、子宮内で神経を展開した後は産婦人科や腹部外科ではなく脳神経外科や脊椎外科医の領域だ」
「そっちの動画も見せました。――ですが、先生もお気づきなのではないですか? 彼女には決定的な問題がある」
「経験の問題とでも?」
「いえ、眞杉君の数時間は普通の医者の十数時間に匹敵する。手技だけ見ればあれを経験不足とはとても言えません」
「ふむ――」しばらく考えてから、岸は口を開いた。「そうか、なるほど。あの性格か。……確かに外科医らしくない」
「そうです。繊細過ぎる。言ってみれば心が弱すぎるのです。能力に比較して自己肯定感が低く、自信がない。シュミレータはいわばゲームだ。ゲームの達人である彼女にとって造作もない。しかし、自分の一挙手一投足—―自分の操作が実際の患者につながっていることを強く意識すると判断が止まり、動けなくなる。初めての執刀の時のように無我夢中になれればいいのかもしれませんが」
「外科医は――私も外科医のはしくれだが――そうかもしれんな。どこか楽観的で、なおかつ肝が据わっている人物が大成するのかもしれん。人間の体に傷をつけて治す――患者の生命と人生を受けとめ、失敗を引きずらず、繰り返さず、常に前に進み続ける――レジェンドと呼ばれるような偉大な外科医は、そういった性格の先生方が多い気がする。しかし、どうする? それでもあれだけの才能は得難い」
「彼女には指導者が必要です」
古市はテーブルの上に避けてあったクリアファイルを差し出した。
西園寺の履歴書が挟んであったが、写真が妙に不鮮明だ。
「これは……ほう。 あの、西園寺 彗――プロフェッサー・ケイか! すごい大物をつれてきたな。こんなコネクションが古市にあったとは。専門が違う私でも名前を知っている。最近あまり名前を聞かなくなったが……」
「たまたま同じ高校の先輩でしてね。彼は病気で休んでいるのですよ。実は先日、泌尿器科の手術の時に助けてもらいました」
「あの久場の手術でか!? IDは? 院長の許可なく手術室に入っていたのか?」
「私のIDで、するっと――病院のセキュリティは緩いので」
古市は全く悪びれない顔で笑った。岸が頭を振る。
「お前は全く……困った男だな。だが、あの西園寺彗を招聘するのには全く異存がない。むしろそれなら彼に執刀を依頼すれば――そうか。それはできない事情があるのだな」
岸は古市の言った「病気」という言葉に納得した。履歴書の職歴に並ぶ大病院の名前が途中でブツリと途切れ、突然老人保健施設のそれになっているのに気付いたのだ。
「それにしても……写真が妙な角度だな」
「ええ、実はその履歴書は私が作成しました。趣味とかは適当です」
つまり偽造文書だ。こうなるともう滅茶苦茶である。岸は頭を抱えた。
「ということは本人の希望でも、了承したわけでもないのか!? 彼がよく一介の研修医の指導などを引き受けたと思っていたが」
「いいえ、私はきっと引き受けてもらえると信じています。ただ、その条件が少々難しく……」
「何だ?」
「彼女が――眞杉が自分で自分の問題に気付き、自分で彼に指導を依頼しなければならないと」
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「少し元気だしなって。気分転換にカフェにでも行こうよ」
「うん……でも、もうあまり時間がないから」
「そういう時こそ、息抜きしなくっちゃ」
麗美と並んで星来はトボトボ歩いていた。
大学病院と研修医室のある臨床実習棟は少し離れた場所にある。夕方近くなると長い渡り廊下を歩く人も少ない。
「もう何時間もぶっ続けで勉強してるんでしょ?」
「解剖の図譜と、よく似た手術のビデオを繰り返し見てるけど……」
「じゃあもうあらかた頭に入っているんじゃない?」
「物の形や場所、手順はね……」
医学生時代の授業は丸暗記が多く、座学と記憶ものが苦手な星来は試験前の一夜漬けでしのいでいた。
だが、それとはまったく訳が違う。
自分が身に着けたものがそのまま患者に直結するのだ。
そして、いくつも見た手術の動画は何かピンと来るものがなかった。
腑に落ちないというか、自分の中で納得いかない。
何が違うのかと言われると、うまく答えられない。ずっとモヤモヤし続けている。
患者—―美晴のことを思い出す。
胎児――子どもを守る決意。
子どもの人生を背負う責任感。
自分の体がたとえ危険になっても子供を助けたいという信念。
岸教授に自分と子供の運命をゆだねる意志力。
甲斐の怒り、焦りも理解できた。
自分の妻と子供が傷つけられないか心配なのだ。
自分も外科医であるだけに、その何分の一の経験しか持たない研修医の力量に疑問を持つのは当たり前と言えば当たり前だ。
――甲斐先生と美晴さん、そしておなかの中の赤ちゃん。
三人の人生がこの手にかかっている。
自分がそれに応えるだけのものを持っているのか。
どれほど動画を見てもシュミレータで練習しても自信がなかった。もし失敗したらと、そればかり考えている。
どんな結果でも責任は岸教授やその他のスタッフたちがとると言っている。
だが、そういう問題ではない。自分自身に対する責任だ。
「ええい、軟弱者! セイラなら大丈夫だって」
「そんなこと言っても……」
麗美のような強さが欲しかった。
治療経験が足りず判断が及ばないことがあるとは自認している。
練習時間を増やすだけならいくらでも頑張ることができる。
しかし、自分の決断を自分で信じることができない。生命の重さを感じたとき、指がその重さで動かなくなる。
あの生命の重さを支え、護る強さが欲しい。
そのために。
俯いて歩いていると、聞き覚えのある声がした。
「すみません、先端医学講座はこちらで宜しいですか? ……ええ、古市教授と約束があります。統括診療部長の岸先生と面会することになっている」
時間外受付に背の高い男が立っていた。
通った鼻筋が目立つ。サングラスをかけていて胸板が厚く、一見医者には見えない。
「全く、古市のやつめ……勝手に決めやがって」
守衛が電話でアポイントメントの確認をした後、呟く声がする。
間違いない。あの時の声だ。
泌尿器科の手術の時に、自分の背中を押して助けてくれたあの声。
星来は直感した。
「あっ! あの!」
自分でも大胆な行動だと思ったが、気づいた時には男のところに走り寄っていた。
「この前の! あの声の人ですよね!」
「君は?」
「あの腫瘍の手術の時に、助けてくれた!」
会話になっていない。男は眉をひそめたが、お構いなしで星来は頭を思い切り下げた。
「お願いします! 私に手術を教えてください!」
ついに彗と出会った星来。次回、星来が彗の心を動かす為に、勇気を振り絞ります。