第12話 フィータル・サージャリー
今日の星来は産科病棟に来ている。
久しぶりに麗美と一緒だった。
「臨床研修なのに、毎日機械にずっと触っているなんて変な感じにならない?」
「うん。ちょっとね」
麗美の言う通りだった。毎日手術ロボットのコンソールを握ってシミュレーションばかりしている。こんな研修医がどこにいるのだろう。
赤ん坊の泣き声がする。
「ここは元気でいいね」
「生命力にあふれてるって感じ。産科もいいかなあ。でも、産婦人科って全然もうからないんだよね。激務だし」
麗美はそんな不謹慎なことを言っているが、どこか楽しそうだ。
産科病棟の特徴はある意味そこにいる人たちに本質があると言っていい。
妊婦たちは正確に言えば、患者ではないのだ。
隣の婦人科病棟が子宮がんや卵巣がんの患者を治療しているのと比べると、陽だまりのような暖かさに満ちている。
「生命力……」
それでふと思い出した。
先日の背筋が凍るような体験だ。泌尿器科の手術で血管を損傷し、一瞬とはいえ患者の生命を危険にさらしてしまった。
死の臭いがふっと香り、心臓を背中からつかみ取られるような恐怖。
あの時自分を助けてくれた声の主は誰なのだろう。
古市も言葉を濁して教えてくれなかった。
初めて手術した心臓血管外科の時は無我夢中だった。
この前みたいなときには、どうすればいいのか。
乗り越えなければならない壁があるのはわかる。
だが、それが何でどうすればいいのか、漠然としてつかみ取れない。
「ちょっと、研修医の先生たち! 赤ちゃんのケアを手伝ってください。もうすぐ岸先生の教授回診なんですからちゃんとして!」
「はい、はーい」
「す、すみません」
助産師に叱られ、麗美はいつもの調子で、星来は慌てて授乳室に入った。
保育器に入っている飛び切り小さい新生児が一人いる。その隣には透明の保育ワゴンが五つ並んでいて、中では新生児があくびをしたり泣いたりしている。
星来は泣いている女の子を抱きあげた。
「赤ちゃんだ……」
ふわふわで温かい。
このまま悩みを忘れてしまいたくなる。
独特の甘く優しいにおいがする。
生命の匂いだ、と思った。
「何だ? 何故、眞杉がここにいる?」
聞き覚えのある声がして、星来は振り返った。
岸教授だ。すらりとした長身にコート型の白衣を羽織り、医局員を従えて立っている。岸は病院規定の使い捨てマスクではなく、トレードマークなのか紫色の立体型マスクを着けていた。
「一応、産婦人科の臨床研修ですので……」
「そうか、そうだったな。讃岐先生、すみませんが回診は代わりにお願いできますか?」
丁寧な口調で隣の准教授に頼むと、讃岐は一礼して医局員をぞろぞろと引き連れていった。
普段岸は男のような言葉遣いなので星来は少し驚いた。
それを察したらしく岸は苦笑した。
「女性のトップはなにかと立場が難しいのだよ。島師長、先週はたくさん出産があったようだな」
「そうですね、おかげでまあ、色々と大変ですよ」
話しかけられた看護師長の島は麗美の服装とピアスに抗議の視線を送っている。もちろん当の本人は全く気にしていない。
「それで、例の妊婦は?」
「昨日入院されました。405号室です」
「分かった。眞杉、ついてきなさい」
「えっ!?」
いきなり話しかけられたので、抱っこしていた赤ちゃんを思わずとり落としそうになった。どうしよう、と麗美の方を見る。
「……仕方がない。安室も一緒に来るがいい」
岸教授に連れられ、病棟カンファレンス室に入った。
電子カルテを操作しながら岸が尋ねる。
「久場教授から泌尿器科の手術で、大変だったと聞いた」
「はい……どうもすみません……」
「いや、結局無事終わったと報告を受けている。しかし、その後練習はしたのか?」
「はい、あれから何度もVRシミュレーションで練習しています。……泌尿器科の手術が四百例、お腹の外科が三百、産婦人科は百例練習しました」
岸の指が一瞬止まる。
「それをこの三日ほどでやったのか?」
「はい」
「どういう計算だ? 一例二時間としても千六百時間だぞ。とても計算が合わない」
「いえ……そんなにかかりませんから」
岸は思い出したように再び指を動かし、一人の患者のデータを立ち上げた後ため息をついた。
「全く……すべてが規格外だな。……見せたいのは、これだ」
画像データが立ち上がる。砂の嵐の様な白黒の線がゆっくり動いている。
「分かるか?」
「……いえ」
子宮の超音波検査画像であることは分かるが、それ以上は分からない。麗美は少し控えめに塗ったネイルの爪で線の動きを追っている。
「これはもしかして……髄膜瘤ですか?」
「ほう。安室は見かけによらずよく勉強しているな。前期研修医でこれが読影できるのか。眞杉にも分かるようにすると」
何度かマウスをクリックすると、3次元画像になった。胎児の顔と身体が映し出される。
背中の下の方、お尻の線の上あたりに大きな膨らみがあり、さらに穴が開いていた。
岸がもう一度クリックすると胎児MRIの画像がその横に表示される。背骨—―脊椎を見ると臀部に近い腰椎から仙骨の背中側に袋があり、その中に灰色の《《ひも》》がかすかに映っていることが分かった。
「開放性・二分脊椎。脊椎の一部が欠損して嚢腫が形成され体外に連絡している。眞杉にわかりやすく言えば脊髄が体外に露出している状態だ。脊髄神経が子宮の壁や胎内運動で損傷されるため、下肢の麻痺や膀胱直腸障害が起こる」
「麻痺? 膀胱直腸障害?」
「おしっこやうんちが自分で出せなかったり、脚の動きや感覚がなかったりとかってことよ。肺の発達を待って帝王切開で出産後、できるだけ早期にこの穴を手術で閉鎖するんでしたっけ?」
「生後二十四時間から四十八時間以内の手術、と言われている。ひと昔前まではそれが標準だったが、欧米を中心に主流になりつつあるのは胎児手術だ」
「胎児手術……って、お腹の中にいるうちに手術するんですか??」
「うむ、母体の腹壁と子宮に小切開を加えて行う」
「そういえば講義で習ったよーな。確か、そのほうがより安全で、しかも自力で歩ける様になる子供も多いんですよね。子宮の中にいる方が体の修復能力が大きく働くんじゃないかって」
それはとても素晴らしいかもしれない。だが、自分は病気でないのに手術を受ける母親はどんな気持ちなのだろう。想像するとお腹が痛くなる。
「だが、胎盤剥離や早産を含め、胎児だけでなく母体へのリスクも少なくない。日本では倫理的な問題から導入が遅れていた。近年では安全性を高めるためにドイツでは内視鏡手術が始まっている。」
「内視鏡……? それ、もしかして」
ここにきて星来は自分が呼ばれた意味を察した。
「そうだ。眞杉に次に執刀してもらうのはこの患者だ。ロボット支援内視鏡手術による脊髄髄膜瘤手術。そしてその際には微小外科手技を駆使し、可能な限り神経を修復してもらう。ここまでの試みは世界初になる」
岸のマスクが不敵な笑みの形に歪んだ。
次回、星来は患者さんと直接会います。