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メディクス・エクス・マキナ  作者: くりはら檸檬・八朔こぐま
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第10話 インビジブル・オペレーター

 MIS――最小侵襲手術。

 人の体にかける負担を極力小さくして取り組む手術の総称である。

 体に加える負担や傷を小さくすることにより、手術の合併症を小さくし回復を早める概念だ。

 概念的な歴史はすでに二百年前からある。

 特に近代、メスで体を切り開くのではなく、各種の支援器械—―特に内視鏡を利用して、体の中の空間で手術を行う方法が急速に発達した。

 内視鏡で観察しながら肺の病変を切除する、胸腔きょうくう鏡手術。

 腹腔鏡手術では、腹腔ふくくう内にガスを注入して膨らませ、内部で手術を行う。

 整形外科領域では関節鏡と呼ばれる。肩・手・膝・足に液体を注入して膨らませ、内部を観察して手術する。

 手術支援ロボットはもともとこれら内視鏡手術を支援するために開発された。


「というのは知っているだろうな?」


 キョトンとしながら話を聞く星来せいらの表情を見て、久場くば教授は首を振った。

 今から第八手術室で手術が始まる。星来は第四手術室からロボット操作を行なう事になっている。

 患者の麻酔導入中に久場がやって来て語り続けている。本人はミーティングと称しているが、一方的に語るので、ほとんど講義か講演、演説だった。

 星来が黙っていると、 どんどん饒舌になる。簡単に言うと面倒くさい、ちょっと自己陶酔的な人間なのかも知れない。


 ――古市先生もハッパさんもずるい……。


 二人とも久場の相手を星来に任せ、何かと機械調整に忙しいふりをしている。


「しかし、手術室支援ロボットはそれほど急速に普及したわけではなかった。一つは一台三億円という――」ゴクリと久場は唾を飲み込んだ。星来が中学生の時に稼いだ収入を思い出したのかもしれない。「値段だが、一番の原因はロボットが必要不可欠な手術があまり無かったからだ」

「そうなんですか?」

「熟練した術者なら、ほとんど無しで出来る。だが、一つだけロボットでやった方が良い臓器があった。それが前立腺だ」


 前立腺は骨盤の一番奥にある。手術用の長い鉗子――言わば、マジックハンドだ――を、深くまで入れる必要があった。


「最大の利点は何か知っているな?」

「手ブレ防止機能……ですね」

「そう言うと何だかスマホみたいだな……。まあ、正解だ。手の震え、つまり生理学的振戦を機械的に補正する」


 生理学的振戦とは、人間が物を持つ時に自然に発生する手の震えである。深く、より長い鉗子を使えば当然、手元の震えは先端で()()大きくなる。


「そのため、ロボット支援手術は前立腺の領域で最も活躍するようになったのだ。この分野では、間違いなく泌尿器科医がフロントランナーだ」


 やっと今回の手術の話になった。

 星来は小さくため息をついた。


「今回は私が指導しながら手術を進める。私がポート(鉗子を挿入する入り口)を作るので、それから君に指示を出すからよく聞くように」


 久場のPHSが鳴った。


「うむ、そうか。すぐに行く。浦賀うらが君と相談して手術の準備を進めておいてくれ」


 電話を切ると久場は立ち上がった。後ろで古市と八波がホッとした顔をしている。


「それでは私は八番に戻る。マイクの音声に集中したまえ、眞杉君。……何か質問はあるかね?」


 やっと長い話が済んでホッとしたが、星来はずっと聞きたかった事を訊ねた。


「患者さんはどんな人ですか?」

「カルテは昨日見ただろう?」

「ええ、もちろん……五十三歳の男性で、前立腺がんの人です」

「画像所見も見ただろうな?」

「はい……」

「では、十分ではないか。何が知りたいのだ?」

「それは……」


 どんな声をしていて、どんな顔で笑う人なのか。子どもはいるのか。どんな仕事をしていて、食べ物は何が好きなのか。


「君は我々の間で、言ってみれば極秘の存在だ。第八手術室には来ない様に」

「分かりました……」


 久場は去って行った。

 程なくインカムから久場の声が聞こえ始める。


「こちら久場。第四手術室、聞こえるか?」

「はい」

「膀胱が見えるな? 恥骨の間を骨盤底に向かって侵入していけ」

「了解しました」


 モニタには膀胱が映し出された。久場の指示通り膀胱と恥骨の間から侵入し、深く深く入って行く。


「前立腺と膀胱の間を剥離せよ」

「はい」


 繰り返し練習したシミュレーションと全く同じだった。だが逆に、ひどく現実感に乏しい。まるでこれも仮想現実のゲームなのではないかと思えてくる。


「うむ、手際よい見事な剥離だ。前立腺は見えるな?」

「はい」

「陰茎海綿体神経が分かるだろう? 血管増生が強いので、十分注意しながら剥離したまえ。可能なら温存したい」

「いん……」


 医師なので普通の女性よりマシだと思うが、それでも声に出して耳元のインカムから聞かされると、ちょっと抵抗感がある。

 神経に気をつけながら、ベッセルシーラー――はさんで電気凝固する道具とモノポーラーを使って、栗の実の様な形の前立腺を浮き上がらせる様に分離していった。


「いわゆる勃起神経だ。機能温存の希望がある。人工授精ができれば子どもはまた出来るかもしれないのだが」

「また? ……って、どういう事ですか?」

「晩婚で昨年一人目の子供が流産したとか……まあ、君には関係ない話だ」

「流産……」


 突然指が重くなった気がした。

 この指先に、この人の人生がかかっている。

 仮想現実の様だった世界から、突然リアルな現実を突きつけられた。


 五十三歳……お父さんもそういえば。

 同じ歳だった。


 鼓動が速くなる。

 コンソールを握る手がピタリと止まった。

 気づけば周囲は入り組んだ血管だらけだ。

 シミュレーションよりもはるかに多い。前立腺は元々血管が発達した組織で、出血が多くなる事も少なくないのだ。


 ――もし傷つけたら……。

 私の手の中にこの人の生命がある……。


「眞杉君、どうしました?」

「セイラちゃん、大丈夫か?」


 古市と八波の声がひどく遠くに聞こえた。


 ……怖い。


「あっ」


 モノポーラの刃がひときわ大きな血管を傷つけた。


「こんなところに、こんな血管があるなんて!!」


 土管の様な血管の切り口から、噴水の様に血液が噴出し始めた。


次回、星来に大きな試練と光が現れます。


※「腹腔 ふっこう」「胸腔 きょうこう」「口腔 こうこう」というルビをたまに見かけますが、いずれも医学用語の読みとしては誤りです。

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