第90話.捨てた世界
そうして、変わり映えのしない毎日を送る中。
その日の私は、全力で仕事に励んでいた。普段も手を抜いているわけじゃないけど、今日ばかりは残業するわけにはいかないからだ。
というのも今日は午後七時から、『聖なる花乙女の祝福を2』の特番が放送される。続編でもヒロインは変更なし、隠し攻略対象のロキの再登場も示唆されているので、エルヴィス様が登場する可能性もなきにしもあらずなのだ。命を賭してでもリアタイ視聴しなければならない。
「お先に失礼します!」
退勤時間と同時、誰かに声をかけられる前に急いでデスクを離れる。絶対に残業しないという強い意志が通じたのか、誰に呼び止められることもなく会社を脱出することに成功した。
今日は寄り道せず、まっすぐ家に帰ろう。そう思いながら雑踏に紛れて早歩きで進み、地下鉄の階段に踏みだそうとして……私は、ぴたりと足を止めていた。
「……あれ?」
それは自分でも恐ろしく思えるほど、唐突に訪れた実感だった。
気づいた――否、私は思いだしてしまっていた。
未来の私は、『ハナオト2』の特番を視聴できなかった。目の前の階段を下りようとして、足を踏み外してしまったのだ。最期の瞬間まで「これじゃ放送に間に合わないなぁ」と残念がっていたから、鮮明に覚えている。
「そっか。私、今日…………死ぬんだ」
虚ろな呟きを拾った通行人が、ぎょっとした顔で横を通り過ぎていく。
私は、じっと駅の階段を見下ろす。蛍光灯の光は、不安を催すようにちかちかと点滅している。
それを見ているだけで額が汗ばみ、小刻みに両足が震えだす。見慣れた通勤路のはずなのに、階段の先が奈落の底に続いているように思えてならなかった。
「!」
その瞬間、スマホが鳴りだす。急かされるようにポケットから取りだして操作すると、向こう側からは独特の嗄れ声が響いた。
『そのまま進むといい、アンリエッタ』
「……え?」
『足を踏み外さないよう、くれぐれも気をつけるんじゃぞ』
すぐに通話は切れてしまった。
私はスマホの画面を見る。これは……そうだ。さっき洞窟で出会った《白神竜》の声だ。
記憶を探る。あの魔物は別れる直前、私になんと言ったんだっけ。
「そうだ。お前が、戻ってこられたらって――」
思索の邪魔をするように、またスマホが鳴る。どこか苛立たしくなりながら画面を見やった私は、表示されている名前にハッとした。
「……お母さん」
慌てて応答ボタンを押して、スマホを耳に押し当てる。
耳元に響くのは、聞き違えるはずもないお母さんの声だ。
『久しぶり。明日、こっちに戻ってこない? 久々にお好み焼きをやろうと思って』
「……お好み焼き……」
『あなた、大好物だったでしょ』
私は、言葉に詰まる。それでも返事を待たれていたから、なんとか頷きを返した。
「うん。お母さんの作った生地、焼くともちもちでおいしいから」
『でしょ? それで、予定はどう?』
「……お母さん……」
私は、口を開く。何も言えないまま閉じる。
本当は、空いてるよと言いたかった。必ず会いに行くから待っていて。せっかくだから、何かお土産でも買っていこうか。
そんな無責任な言葉を、頭の中で何度も何度も、それこそ摺り切れるほどに繰り返し反芻した末に……私は、涙声で返事をする。
「私、行けないや。ごめんね。本当に、ごめん」
伝える合間も、瞳から次々と涙がこぼれ落ちる。
気の置けない友達はいたけど、彼氏ができたこともなかった。だけど家族仲は良好で、たまに実家に戻ると、お母さんはいつも変わらない笑顔で迎えてくれた。ゲームの話ばかりする私に呆れながらも、「変わらないわねぇ」と楽しそうにしていた。
きっとお母さんとお父さんは、ひとり娘の死を知ってたくさん泣いただろう。たくさん悲しんだだろう。私はほんの不注意で、二人より先に命を失い、消えない傷を残してしまったのだ。
それは電話越しに謝ったところで、到底償いきれるものじゃない。
「ごめんなさい、お母さん。……今までありがとう」
だから私は、胸がはち切れそうな痛みを覚えながら謝罪をした。それから、小さな声でお礼を言った。
お母さんからの返事はない。いつまでも待ちたいような気がしたけど、名残惜しさを断ち切るように通話終了のボタンを押す。
視界を霞ませる涙を拭った私は、パンプスに包まれた足で階段から遠ざかるように距離を取る。
地下からの生ぬるい風に肌を撫でられながら、ゆっくりと深呼吸をする。胸の前で硬く握った右手は不思議と熱くて、私を勇気づけてくれるようだった。
そうだ、と決意を固める。こんなところで、立ち止まってなんかいられない。現実の私は、とっくにこの先に進んでいるのだから。
それに。
「エルヴィス様のいる世界を、今さら捨てられるわけがないでしょーっ!」
自分の背中ごと押すように叫びながら、私は階段に向かって勢いよく駆けだす。
間もなく、足先が宙に浮く。数秒後に訪れる衝撃を覚悟して、私は強く目を閉じて――。
「――エッタ! アンリエッタ!」
……誰かが、懸命に名前を呼んでいる。
それが誰の名前なのか、今の私は間違えたりしない。ゆっくりと目を開けると、目の前には彼の切羽詰まった顔があった。
「エル、ヴィス……?」
私が呼ぶと、エルヴィスはホッとしたように息を吐く。
「気づいたか……」
仰向けに倒れた私は、エルヴィスの腕に抱きかかえられているようだった。
右手はエルヴィスによって強く握られている。つまり私を勇気づけてくれた温かい熱は、エルヴィスが分け与えてくれたものだったのだ。私の視線に気がつくと、ばつが悪そうに手を離してしまったけど。
「お前、急に倒れて……ちょくちょくオレの名前を呼ぶから、採掘どころじゃなくなった」
心当たりがありすぎる。ゲームプレイ中は、感極まって彼の名前を連呼していたからだ。
「……ありがとう、エルヴィス」
私は掠れ声でお礼を言う。遠く洞窟の天井を見ながら、唇を動かした。
「夢を見てたの。すごく懐かしくて、大変なこともあるけど楽しくて、大好きで……でも私はその世界を捨てて、ここに戻ってきた」
私のたどたどしい言葉を、エルヴィスは自分なりに分析してみせる。
「《白神竜》に幻覚を見せられてた、ってことか」
だが幻覚と呼ぶには、あまりにも現実味がありすぎた。
だからといって、あれは私が過ごしてきた世界そのものでもないのだろう。私が階段から落ちたという過去が覆ることはない。今さら遡って、別の選択肢を選ぶことなんかできない。もし、あのまま何事もなく家に帰ろうとしていたなら――その時点で私は、どこでもない場所に消えていたのだと思う。
エルヴィスに支えられてゆっくりと身体を起こす。変わらず水辺に寝そべっていた《白神竜》は、私に気がつくと赤い目を細めてみせる。








