第82話.兄妹の夜2
「……だからなんだ、この手は」
「お兄様。ひとつだけ、お願いがあるんです」
抗議には答えず出し抜けに言うと、ノアが語調を強める。
「もう、殺せなどとは言うなよ」
それで私はようやく気がつく。花舞いの儀の前日、魔に堕ちたときの対処を頼んだことも、きっと彼には重荷になっていたのだろう。
そうだ。ノアは完璧超人に見えるし、実際に超人ではあるけど、弱さを捨て去るために感情を排して戦ってきたからこそ、誰よりも強靱に見えるだけなのだ。
だけど孤高の強さを持っていたとしても、傷つけば血を流す。心も身体も同じだ。ノアは私と何も変わらない、ひとりの人間なのだから。
そんな彼を切なく見つめて、私は思う。私たちには、約束が必要なのかもしれないと。
ノアが妹への罪悪感で押しつぶされたりしないように。いつか目覚める本物のアンリエッタが、大好きで大嫌いな兄と今度こそ向き合えるように。
私は、そんな二人のための――そして、もしかすると私のためでもあるかもしれない願いを、そっと唇に乗せる。
「お願いです。私が……もう大丈夫と言うまで、私の傍を離れないでください」
「分かった。約束する」
間髪容れず返事があったので、こちらが面食らってしまう。
「……いいんですか?」
「ああ」
まさか、ノアがこんなお願い事を聞き入れてくれるなんて。
驚いたが、承諾をもらった以上はその前提で話を詰めておくべきだ。というわけで、私は大事なことを付け加えておく。
「あ、でも、縁談などのお話は、適宜進めていただいて構いませんからね。妹が同居しているとなると、相手方への説明とかは大変かもしれませんが」
カレンが召喚されなかった以上、もはや攻略対象も何もない。彼女が誰かのルートに進むこともないのだから、誰もがカレン以外の女性と恋に落ちていくのだろう。特にノアやシホル、フェオネンあたりは結婚適齢期でもある。
それを思うと、『ハナオト』プレイヤーとしては寂しい気持ちになるが……そんな勝手な感傷を、口には出すまい。それぞれの人生があるのは、当然のことだ。
「縁談は一切受けない」
しかし、きっぱりとノアが言い放つので私はきょとんとする。
「でも、いずれは受けますよね?」
「受けない」
「……どうしてですか?」
理由が分からず戸惑っていると、なぜかノアが私を凝視してくる。
謎は深まるばかりだったが、気圧されるほど強い眼差しで見つめられると、さらに質問を重ねるのも憚られる。
困った私は、とりあえず彼の頬に添えたままの手を動かしてみる。目元から痩せた頬のラインを、何度か辿ったところで……ノアは小さく息を吐いて、私の手を握った。
握られた手は、呆気なくブランケットの中に仕舞われてしまう。
「もういい。寝ろ」
「えっ。でも、まだ起きたばっかり……」
「さらに寝ろ」
有無を言わさず、ノアはブランケットを私の胸元まで引き上げる。
「それなら、お兄様……頭を撫でてください」
目線で意味を問われた私は、忘れていませんよという意味で微笑んでみせる。
「だって私のこと、褒めてくれるって言いましたよね?」
その話を持ちだせば、ノアは仕方なさそうに私の額に触れてくれた。
指先で、私の額を何度も撫でる。触れているかいないかも分からない接触が、なんだかくすぐったい。
「……よくがんばったな。お前のおかげで、俺たちも助かった」
ノアの言い方は相変わらずぶっきらぼうだったけど、むっすりしながら繰りだされる褒め言葉がおもしろい。
「これで満足したか。もう寝ろ」
「……私が眠るまで、頭」
「撫でていればいいんだろう」
今日のノアは、やけに優しい。
ううん。たぶん最初から、彼は誰よりも大きな優しさを秘めた兄だったんだろう。
そして頭を撫でてくれる武骨な手の感触が、妙に心地良くて……数分と経たぬうちに、私は再び眠りの世界に引き込まれていたのだった。








