第81話.兄妹の夜1
◇◇◇
目を開くと、見慣れた天井が見返してきた。
伯爵邸の自室だ。あの荒野から、無事に戻ってこられたらしい。
数えていたわけじゃなかったけど、ちゃんと百体倒せたなら良かった。そう思いながら起き上がろうとすると――視界の端から、美丈夫がこちらを覗き込んでいた。
「気がついたか」
「おにっ……」
変に喉が詰まって、軽く咳き込む。私の咳が治まってから、ノアは身体を起こすのを手伝って少しだけ水を飲ませてくれた。
人心地ついたところで、私は専属侍女が傍にいないことに気がつく。
「えっと、キャシーは?」
「今は深夜だから、休ませている」
言われてみれば、窓の外が暗い。体内時計がくるって、変な時間に目覚めてしまったようだ。
私は寝着姿なので、たぶん着替えさせてくれたのはキャシーだろう。夜は、ノアが私の傍で甲斐甲斐しく世話を焼いてくれていたということらしい。
忙しいのに申し訳ないなぁと思っていると、椅子に座り直したノアがぽつりと言う。
「お前が眠ってから、丸三日経っている」
私はぱちくりと目を瞬かせる。
「み、三日ですか?」
そんなにも寝ていたなんて信じられないが、ノアはそんな冗談を言うような人ではない。
えっと、迷宮の書に入ったのが金曜日の夕方だったから、そこから三日というと……今日は月曜日の深夜、ということか。
まずい。意図せずして授業をサボってしまった。それに、従魔作りの授業も二日後に迫っていることになるけど……。
「お兄様。そういえば私、迷宮で魔法が使えてましたよね?」
「ああ、そうだな」
そう。花乙女を求めるフェオネンの協力――もとい策略によってとんでもなく怖い思いをしたが、大きな成長ができたのもまた事実だった。身体に走っていた痛みも悪寒も、フェオネンの治癒魔法のおかげか今は消え失せている。
「でも……」
「どうした?」
私が言い淀むと、ノアが首を傾げる。
「すみません。変なことを言っているかもしれませんが……私、怖かったんです。自由に魔法を使うたびに、なんだか、自分自身の魔力に呑み込まれるような感覚があって」
迷宮で私が使った魔法には、およそ制限というものがなかった。特定の魔法元素への呼びかけも、呪文書に載っている呪文の詠唱も必要なく、望めばなんでも叶ってしまうような万能感だけが身を包んでいた。
でも、同時に恐ろしいとも思ったのだ。大切な誰かを守るためなら、私はあの強大すぎる力を厭わずに使うことができるかもしれない。それこそ迷宮生物ではなく、人間に向けることすら――。
そう考えるだけで、ぞっとしてしまう。私は震えを押し殺すように、自分の身体を抱きしめた。
カレンだってゲームでは【コール】から始まる詠唱をしていた。あれがゲームとしての分かりやすさ重視の演出なのか、カレンも私と同じように詠唱破棄ができたのかは分からないけど……。
「お兄様。あの力は、なんなんでしょうか」
どちらにせよ、今まで授業で習ってきた魔法とは根本的に仕組みの異なる力に思えた。確かフェオネンは、初代花乙女にも使えた魔法だと言っていた気がするけど。
ノアは考える間を置いてから答える。
「まだ分からない。だが、しばらくあの魔法を使うのはやめろ。また三日前のように、強い反動が起きる可能性もある」
「え? でも、魔法を使えないと……」
従魔作りを乗りきれないのでは、という心配を顔に出すと、ノアが動じずに答える。
「一般的な詠唱による魔法を試してみればいい。おそらく今のお前なら、使いこなせるはずだ」
「あっ、そっか! 変な魔法が使えたなら、ふつうの魔法を使うことだってできるはずですもんね!」
思い立ったら、すぐに試したくなった。しかしベッドから出ようとした私は、ノアに押し留められる。
「お前は病み上がりだ。もう少し体力が回復してから練習しろ」
う、確かに……。もうすぐ従魔作りの授業があるのに、ここで無理をして倒れたら元も子もないよね。
正論に納得した私は「分かりました」と身を引く。
それにしても、とベッドからノアの様子を窺う。ノアの声音にはいつになく覇気がない。先ほどから私と目線を合わせてくれないし、気づくと俯きがちになっている。いつでも実力に裏打ちされた自信に漲っているノアとは、何かが違う。
「お兄様……?」
確かめるように名前を呼ぶ。無表情のノアはこちらを見ないまま囁いた。
「分かっていたつもりだった。お前を苦しめていたのは、他の誰でもない俺だと。だが……俺は、どうすれば償えるんだろうな」
「……フェオネン先生が、何か言ったんですか?」
私が眠りについたあと、二人の間に何かあったんだろうか。だがノアは誰を責めるでもなく、首を横に振るだけだ。
「そうじゃない。ただ、自分の情けなさに腹が立っているだけだ」
私は思わず、自嘲的なことばかりを繰り返すノアに手を伸ばしていた。
白いすべすべの頬に、私の人さし指がちょんと触れる。意表を突かれたらしく、ノアはほとんど反射的に私の手を握って動きを止めた。
「……なんだ」
「泣かないでください、お兄様」
心外だというように、ノアが目を瞬かせる。
「泣いてなどいない」
「私には、そう見えるんです」
ノアは意味が分からない、というように私の手を離す。しかし自由になった私の手が再び頬に触れれば、ますます困ったように顔を顰める。








