第80話.SIDE:フェオネン
◇◇◇
――ボクは、運命なんて信じない。
そんなものが本当にあるのなら、もっと早くボクを暗闇から救いだしてくれていたはずだからだ。
義母の度重なる虐待によってほとんど視力を失った左目を押さえながら、幼い頃のボクはそんなふうに思っていた。
妖魔である実の母から受け継いだ魔眼は、片目を失っても効力を失うことはなかった。むしろ、さらに女性を魅了する力が強まっているように感じたのは何かの皮肉のようだったけど。
ボクにとって何よりも恐ろしかったのは、あれほどまでにボクを憎悪していた義母が、あるときからボクに秋波を送るようになったことだ。
おぞましかった。もう、こんなところには一分一秒もいたくない。実家を飛びだしたボクは、魔眼に興味を持ったエーアス魔法学園の学園長――ハム先生の助けもあり、彼の親戚筋の家に引き取られた。
そこで姓を変えて魔法について一から学ぶ機会を得たのは、僥倖だった。学園に入学・卒業し、教師として働く資格を得て、医務室という居場所を手に入れることができたのだから。
順風満帆といって差し支えない日々だったが、ときどきボクが娘に手を出したと保護者から抗議を受けることもあった。積極的に誘惑しているつもりはないのだが、それでも女子生徒や女性教師から色目を使われることは少なくなかったのだ。そしてボクは来るもの拒まずの姿勢でそれらを受け入れていたので、ハム先生には多大な迷惑をかけることになった。
それでも、柔らかく包んでくれる女性の温もりが好きだった。甘やかな笑い声も。愛を語る指先も。恍惚としてボクを見つめる瞳も。自分が確かに他人から必要とされていると、実感できるような気がした。
だけど数多の女性と関係を持つうちに、ボクには分からなくなっていた。
彼女たちは、ボクが好きだという。同じくらい愛してほしいと口々に言う。
だけどその瞳が見ているのは、ボクじゃない。ボクの特別な目だ。彼女たちはただ魔眼に魅了されて、言いなりになっているだけなのではないか。
それに気づいてから、ボクは欲張りになっていった。虜になって盲目な愛情を向けてくるのではなく、ボク自身を見てくれる誰かを求めずにはいられなかった。
本気でそんな女性を探すのなら、それこそ、百年に一度現れるという花乙女くらいしか候補はいないように思われた。花乙女はあらゆる魔法への強い耐性を持つという。それならば、ボクの魔眼など簡単にはね除けてしまえるはずだ。
奇しくも、百年目は目前に近づいていた。ボクはその日を指折り数えながら、恋に恋する乙女のように日々を過ごしていた。
そんなある日のことだ。医務室に、気を失った女子生徒が運ばれてきたのは。
「ところで、今日は何年何月の何日でしたっけ? 自分の記憶と照らし合わせたくて」
目を覚ました彼女からそんな質問を受けたときは、薬品棚を見ながら思わず微笑んでしまった。
「今日は月花暦六百年、二月三十日だよ。明日からは三月だね」
そう。三月が終われば、当たり前だが四月が来る。花乙女が現れる四月一日が、間近に迫りつつあったのだ。
――当初、アンリエッタ・リージャスにまったく興味は湧かなかった。
ボクが軽く甘い言葉を吐くだけで頬を薔薇色に染める、初心な女子生徒。容姿端麗で、貴族にしては感情を表に出しがちなのが幼げで愛らしいが、特筆すべき点はそれくらいだ。そんな相手なら他にいくらでもいる。
ハム先生から調査を依頼されたので、彼女について何かと調べたり、目で追ったりすることは多かったが、特段気になるようなことはなかった。エルヴィス君やラインハルト殿下など、学園でも目立つ存在との交流が多いようだが、そういった関係性はおそらくノア君の妹である影響だろう。やはり、注目すべきには値しない。
すべてが変わったのは、花舞いの儀の日だ。
噴水広場に向かったボクは、きっと誰よりも胸を高揚させていたと思う。
もちろん、この学園の生徒が選ばれるとは限らないので、目の前で花乙女誕生の瞬間を見届けられない可能性はある。それでも、初代花乙女が創設者のひとりであり、有力な貴族令嬢が多く通うエーアス魔法学園のことだ。優秀な成績を修めている生徒の名前を浮かべるたびに、ボクは胸を高鳴らせていた。
そして――選ばれたのは、彼女だった。
「女神エンルーナは、アンリエッタ・リージャスを花乙女に選ばれた!」
生徒の誰かが興奮して叫んだとき、笑みが込み上げずにはいられなかった。
時ならぬ喜びに震えながら、視界の中心に彼女を捉える。頭上から降り注ぐ祝福の花弁を浴びながら、呆然と突っ立つ彼女……六代目の花乙女に選ばれた、アンリエッタ・リージャスを。
それから、目が離せなくなった。ボクは個別の授業を担当していないので、彼女の顔を見る機会は限られていたが、それでも見かけるたびに心が弾んだ。
だが、本当に彼女が花乙女なのか確信は抱けずにいた。今のところ花乙女としての能力は見られないし、ボクが迫ったときも変わらず狼狽えていたからだ。
そこでボクは、ハム先生に頼んで布石を打っておくことにした。従魔作りの授業は迫りつつある。いずれ、追い詰められたノア君がボクを頼ってくるかもしれないと考えたのだ。
その予感は見事に的中した。ノア君と彼女が、二人で医務室を訊ねてきたのだ。
ボクはこの日のために用意していた迷宮の書を使うことにした。用途については説明しなかったが、ハム先生はきっとボクの意図を正確に読み取っていただろう。それでも止めなかったのは、利害が一致しているからだ。
結論から言うと、追い詰められた彼女は最高の成果を発揮した。詠唱の形式を取っていない――駄々をこねた子どものように力任せに唱えただけの願いですら、世界は忠実に叶えてみせたのだ。
強すぎる力を使ったことで、本人は痛みと寒さに呻いていたが……それもボクが身体のあちこちに触れるうちに、落ち着きを取り戻していった。
ボクは溢れ出る感情を抑えきれずに、無防備なこめかみに唇を落とす。
早く、その青く澄んだ目でボクを見つめてほしい。キミの青い瞳はきっと、他のどんな女性とも違う輝きを湛えて、ボクを見つめ返してくれるはずだから。
安直な希望。過度な期待。愚直な信仰。ボクもまた、ボクの魔眼に囚われた女性たちのように、彼女の花乙女という冠に惹かれているだけの哀れな男なのだろうか。
だけど、それでもいいと思えた。思えてしまった時点で、きっとボクは救いようがないのだろう。
「もう治癒は済んだでしょう、アンリエッタを離してください」
いいところで、割り込んできたのはノア君だった。
彼が感情の片鱗でも覗かせるのは珍しい。否――思い返してみると、《魔喰い》との戦闘後に医務室に運び込まれてきた妹を、血相を変えて迎えに来たこともあった。
冷酷無慈悲で知られる"カルナシアの青嵐"すら、この少女に心を揺さぶられているのだ。
そう思うと、ボクは口を閉じたままではいられなくなる。それがただの意地悪なのか、恋敵への牽制なのか。それも分からないままに、唇はすらすらと言葉を紡いでいる。
「ねぇ、ノア君。カルナシア王国に生まれた人間は、赤子の頃から魔力が体内を循環する感覚に慣れているものだ。もしも魔力量が一定のラインを超えた場合も、自然と身体の外側に流れだすようになっている」
意識を失った妹を横抱きにしたノア君が、訝しげに見返してくる。突然なんの話が始まったのか、理解しかねたのだろう。
気にせずにボクは続けた。
「だけど彼女は、どういう理由があってのことか……自分の魔力の一片たりとも、外に漏れることを許さなかった。だから魔力はどんどん体内に蓄積され続けていった。莫大な魔力の塊を、ずっと体内に爆弾のように抱え込んでいたわけだ。……ふふ。今まで、まともに日常生活を送れていたのが奇跡に近いと思うよ。こんな状態じゃ、いつ魔に堕ちたとしてもおかしくなかったはずだから」
「…………!」
魔に堕ちる。その言葉を聞くなり、ノア君の表情に亀裂のような動揺が走る。
どうやら心当たりがあるようだ。ボクはその心の隙を見逃さずに、畳みかける。
「ノア君。これは完全なる憶測だけど――彼女が病的なまでに魔力の放出を恐れたのは、キミのせいなんじゃないの?」
徹底的に心を抉る問いを放てば、彼の瞳の中の光がかすかに揺らぐのが分かった。
「……それは……」
「キミを差し置いて、花乙女に選ばれたくなかったから。だから彼女は、自分の魔力に蓋をするなんて自殺行為に至ったんじゃないの?」
言いながら、ボクは一歩ずつ彼女に近づいていく。絹糸のように垂れ流しになっている銀の髪に触れようとすると、パッとノア君がボクから距離を取る。
「おっと。嫌われてしまったかな?」
おどけながら両手を上げると、ノア君はばつが悪そうな顔をしながら首を横に振る。
「……いいえ。手段については同意しかねますが……あなたの判断は概ね正しかった。そのおかげで、アンリエッタは魔法が使えるようになったんですから」
感情を押し殺した声に返されれば、ボクは苦笑してしまいそうになる。ノア君の実直さは美点だ。ときに理性的すぎて、同情したくなるほどに。
「そう思ってくれるなら良かった。でも、しばらく彼女の魔法については詳細を伏せておいたほうがいいだろうね。キミも分かっているだろうけど、あんなふうに詠唱を破棄して魔法を使えるのは、歴代でも初代花乙女だけだよ。強すぎる力は、国に大いなる混乱を招くだろうから」
「……あれは、あなたが焚きつけたように見えましたが」
「けしかけるだけでそんな奇跡を起こせるなら、本物の実力ってことさ」
目端が利くノア君なら、皆まで言わずとも分かっているだろう。つまり、アンリエッタ・リージャスは――最も女神に近い力を行使していた初代花乙女に、近い存在だということを。
それを思うと、興奮のあまり肌が粟立つ。今すぐに彼女の尊い肌に触れたくて仕方なくなる。だが彼女を抱えるノア君は、ボクから遠ざけるようにそっぽを向いてしまった。
「……その点は、時機を見て女王陛下にご相談します」
苦笑を浮かべたボクは、両手の塞がった彼に変わって最後の仕事をこなすことにした。
百体の迷宮生物はすでに彼女によって倒された。あとは迷宮の書が用意した旗を地面に突き立ててしまえば、それで元の世界に戻ることができるのだ。
旗を拾い上げたボクは、広い背中からわずかに覗く長い銀髪を一心に見つめる。
ボクは、運命なんて信じない。
だけど、手に入るというのなら――もう、逃すつもりはなかった。
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