第79話.覚醒
乾いた地面に、彼の赤い血が散る。それだけではない。ノアの全身はボロボロだった。服はあちこちが裂けているし、牙や角で攻撃された箇所からは血がにじんでいる。ロキとも五角以上にやり合っていたノアとは思えないほどに、傷ついた姿だった。
知らず、視界がにじむ。赤い空がぼやける。歯の根が合わず、がちがちと震えだす。うまく呼吸ができなくて息が苦しい。杖を取り落とした私は胸を押さえながら、必死にその場に踏ん張るけど、もう立っているのだけでも限界だった。
怖かった。自分が死ぬことだけじゃない。自分のせいで人が死ぬのが、怖くて堪らなかった。
今、私がいるのはゲームの中のはずだ。だけどここで生きている私も、彼らも、たった一度きりの人生を過ごしている。致命傷を負えば死ぬし、病気になれば死ぬ。そんな、当たり前のルールの中にいるのだ。
でも、どうすればノアを助けられるのだろう。どうすれば守れるのだろう。その答えだけがどうしても見つからない。ずっと暗闇の中を迷走しているようだった。
出口なんてないと思えるほどに、深く濃い闇。
それを打ち破ったのは、力強く響くノアの声だった。
「思いだせ、アンリエッタ!」
「……ッ!」
私は、驚いて顔を上げる。
実力が発揮できないまま、苦痛にまみれているのだと想像していたノア。でも、ノアはそんな逆境にも拘わらず笑っていた。
それは――私が初めて目にしたのかもしれない、ノアの笑顔だった。
「上手にできたら、俺が褒めてやる」
この上なく、不器用な笑みだった。注視しないと分からない程度に、ごくわずかに上がった口角。目の下は引きつっていて、早くこの表情筋の動きをやめたいと切実に訴えているかのようだ。
そんな兄の下手な笑顔を前にして、私はぐっと唇を引き結ぶ。
傷つきながらも戦うのをやめないノアに、泣き言なんて言えるはずがない。私にできるのは、まっすぐノアの言葉に応えることだけだ。
「……はい! 任せてください!」
私が答えると、ノアは少し安心したようで、迷宮生物の相手に専念している。
彼とフェオネンが敵を集めてくれているおかげで、今のところ一体たりとも私のところに向かってくることはない。それに感謝しながら、そっと両目を閉じる。
……落ち着け。ノアに言われたように、今までの特訓の日々を思いだせ。ノアが魔力を流し込んだ日、私の魔力を押さえる蓋はとっくに外れたのだから。
どうせ無理だ、と心に落ちる黒い影を片っ端から追い払うように、ふぅ、と私は息を吐いて目蓋を閉じる。ただ、体内を巡るものだけに意識を集中させる。
深く呼吸を繰り返す。何度も、何度も……息を吸って吐くのを繰り返すうちに、お腹の底がじんわりと熱くなり、身体全体に魔力という名の熱が広がっていく。
杖を拾い上げるのも忘れていた。今、媒介は必要ない。それが感覚的に理解できていたから。
さらに意識を研ぎ澄ませる私の耳に、フェオネンの声が届く。
「個人によって相性のいい魔法属性は、確かにあるけどね。でもキミは花乙女だ。花乙女はあらゆる魔法を、想像すら追いつかないような高水準で使いこなす」
もともと、魔法には属性なんてものはなかった。人々が未知に包まれた部分を協力して解き明かしていくことで、魔法は体系化され、六つの魔法属性へと分類されるようになったのだ。
「それだけじゃない。初代花乙女は、一般的な魔法士のように呪文書に書かれた呪文を覚える必要すらなかったそうだよ。なぜなら……いかなる形で唱えようとも、世界は必ずその願いを聞き届けるから」
魔法を使う際に、特定の魔法元素に【コール】から始まる呼びかけをするのも、その先に続く詠唱内容をあらかじめ限定しておくのも、世界への影響力と術者の負担を最小限に抑えるためである。
だけど、そんなルールとは関係ないのだとフェオネンは言う。
私は、私だけは――定められたルールとは無縁に、魔法を行使することができるのだと。
「さぁ、本当のキミを見せてくれ。六代目の花乙女」
私は閉じていた目を、ゆっくりと開いていく。
両手を遥かな空に伸ばすようにしながら、舌の上に弾丸を乗せた。
「――――【吹き飛ばして】」
言霊は、たったそれだけで事足りた。
ノアやフェオネンに群がっていた大量の魔法生物だけが、突如として爆風を喰らったかのように空に浮き上がる。その混乱が解ける前に、私は続けざまに唱える。
「――【燃やして】……【もっと燃やして】!」
赤い空をさらに真っ赤に彩るようにして、迷宮生物たちの身体が燃え上がっていく。絶叫を上げる間もなく、その肉体は燃やし尽くされ……再び地面に戻るときには、灰色の塵と化している。
人智を越えた光景に、残った迷宮生物がたじろぐ。もはやノアやフェオネンには見向きもせず、私に向かって怒濤の勢いで押し寄せてくる。
それらを両瞳で冷たく見据えながら、私は力ある言葉を唱える。
「【湖に】【溺れて】!」
荒涼とした大地に、突如として湖が出現する。勢いを殺せないまま、次々と迷宮生物たちはその中に落ちていく。四肢をばたばたと動かして這い出ようとするが、それは叶わないままに水の底へと沈んでいく……。
そうして私は一方的に、百体の迷宮生物を蹂躙していった。
すべてが終わるまで、一分とかからなかったと思う。私は運動をした直後のように肩で激しく息をしながら、荒野を見回した。
その頃には、出現したはずの湖も消えている。迷宮生物のいなくなった荒野は嘘のように静まり返り、私たちを見下ろす赤い空は爽快な青空へと色を変えていた。
それを成し遂げたのは、自分でも戦慄するほどの圧倒的な魔法だろう。それを思うと、どこか空恐ろしく……私は茫漠とした心持ちで呟く。
「これでなんとか、百体倒せ……、いっ!」
でも、最後まで続けることはできなかった。
「アンリエッタ!」
その場に蹲る私に、ノアが駆け寄ってくる。
私は苦痛のあまり顔を歪めながら、小さな声で訴えた。
「いっ……痛い、です……! お兄様……!」
「どこだ。どこが痛むッ?」
ノアに問われても、うまく答えることができない。
頭の内側を力任せに殴りつけられているような痛みが、こうしている今も襲いかかってくる。それに凄絶なほどの悪寒がして、全身ががたがたと震えだした。
同時に襲い来る激痛と極寒にわけもわからないまま涙ぐんでいると、誰かに抱き寄せられる。ノアの逞しい身体ではない。甘い香水の香りをまとわせた――フェオネンの腕だ。
「大丈夫だよ、魔力の余波で身体がびっくりしているだけだから。魔法の制限も解けたことだし、治癒魔法を使ってあげるね」
教え諭すような優しげな口調で言いながら、フェオネンが私の頭に触れる。
「あ……」
それだけで、まるでフェオネンの手のひらに吸い取られるように痛みが引いていき、血の気を失っていた身体に温度が戻るのが分かった。
ホッとして、力んでいた肩から力を抜く。だけどまだ足りないと、私は自分から身体を寄せる。まだ、ここが痛い。ここも痛い。もっと触ってほしいと甘えるようにすると、フェオネンは静かな笑みを湛えて軽く頷いてみせる。
少しずつ痛みが失せていくのにホッとして、私はわずかに目を開ける。至近距離から私を見下ろすフェオネンの双眸は、熱に浮かされているようだった。
「見事だったよ。やはりキミは、女神の代理人――正真正銘の花乙女だ」
でも蛇のような目は、見つめ合う私のことを見ているわけではない。そんなふうに感じた直後、ゆっくりと整った顔が近づいてきたので思わず目蓋を閉じる。
「ん……」
こめかみのあたりに、熱が触れた。反射的に目蓋が震える。
私に分かったのは、その感触によってさらに痛みが取り除かれ、身体が温まったことだけだ。ぼんやりしていると、ノアの腕が私からフェオネンを引き剥がした。
「もう治癒は済んだでしょう、アンリエッタを離してください」
お兄様、と名前を呼ぼうとするけど、身体にうまく力が入らない。強い虚脱感のせいだ。
フェオネンは笑みを含んだ声音でノアに言う。
「彼女、今はがんばっても身体に力が入らないと思うから。横抱きしてあげたほうが楽だと思うよ?」
「……余計なお世話です」
ノアは尖りきった声音で返しながら、私の身体を軽々と抱き上げた。
お姫様抱っこなんて恥ずかしいからぜったい無理、と断りたいけど、やっぱり口がうまく回らない。私は羞恥心を覚えつつ、大人しくノアに抱きかかえてもらった。
喋るのは難しそうだが、せめて視線でお礼くらいは伝えておいたほうがいいだろう。重い目蓋を開いて、なんとかそんな意志を眼差しに込めようと奮起していると、労るようにノアが言う。
「今はいい。とにかく休め」
うーん……ノアがそう言うなら、そうさせてもらおうかな。
優しげな言葉を最後に、私の意識はゆっくりと闇へと落ちていった。








