第78話.フェオネンの嘘
恐る恐る目を開くと、そこはもう本の中だった。
近くには、先ほどと同じようにノアやフェオネンが立っている。だが私は安心できなかった。目の前に広がる世界は、『小さな木に初級魔法を当ててみよう』や『一年生のための薬草図鑑』とはまったく様相が違っていたからだ。
「こ、ここは……?」
頭上には、気味が悪いほどに赤い空が広がっている。地面にはゴツゴツとした岩が転がり、草の一本も生えておらず、そんな荒れ果てた光景が地平線まで続いていた。
殺伐とした景色を、私は眉を顰めて見回す。本のタイトルにも『荒野』とあったから、タイトル通りの光景かもしれないけど……でも、それなら『戦い』というのは?
そう疑問に思ったときだった。耳に違和感を感じた私は、遠い地平線に目を細める。すると空の赤ににじむようにいくつもの黒い影が出現しており、大地を揺るがすような足音が連鎖して響き渡った。
「あれって……」
「さっそくおでましだね。迷宮生物の軍勢だよ」
砂埃の量からして、十匹ところではない。それこそ、百匹近くいるのではないだろうか。
ぞわり、と背筋に寒気を覚える。その軍勢は、明らかにこちらを狙って押し寄せてきていた。
「フェオネン先生。この本は、『荒野の戦い』ではありませんね」
周囲を観察していたノアが、そう指摘する。驚く私の前で、フェオネンが薄い唇を三日月の形につり上げた。
「ご明察。これはハム先生から預かった本――『少女ひとりの荒野の戦い』だ」
「少女ひとりの……?」
「この本に一度に入れる女性はひとりだけ。そして迷宮生物への攻撃が通用するのも、その女性のみ。一緒に男性が入ることもできるけど、魔法も攻撃もほとんど通じないよ」
「……!」
ノアが表情を険しくする。
「ハム先生を巻き込んで、事前にこんな本を用意させていた……。最初から、俺があなたを頼ることを予期していたんですね」
ここに来るまでの間に、きっとノアは何度もフェオネンの態度に違和感を覚えていたのだろう。その言葉を、フェオネンはあっさりと肯定した。
「そうだね。キミたちが行き詰まっているのは、他の先生たちの嘆きぶりからも明らかだったし……それに、さっきも言っただろう?」
荒野の乾いた風が、フェオネンのくせっ毛を靡かせる。長い髪の隙間から覗く爬虫類じみた双眸が、食い入るように私を捉えた。
「アンリエッタ・リージャス。ボクは一度も、キミの実力をこの目で見ていない。だから、確かめさせてほしいんだ。キミが本当に、花乙女なのかどうか――」
その言葉が終わるのすら待たず、迷宮生物たちがどっと押し寄せてくる。
私は目を瞠る。猿にネズミ、バイソンにワーム……様々な形をした迷宮生物が奇声を上げながら、私たち三人に襲いかかってきた。
隠れる場所もほとんどない荒野である。為す術なく私が硬直していると、長剣を抜いたノアが庇うように前に出た。
「はッ!」
力強い一撃を、突撃してくるバイソンに向かって放つ。
ロキですら、直撃を避けた攻撃だ。しかし現実のバイソンは避けようともせず、突進の勢いが弱まることもなかった。
「――ッ!」
怯まず向かってくるバイソンを、ノアがどうにか横合いに飛んで避ける。別の方向からは、土色のネズミたちがノアに次々と襲いかかった。
ノアは腕を振り、剣で凪ぎ、蹴りを放ち、襲い来る迷宮生物に対処する。だが、それらの攻撃を迷宮生物たちは事もなげに受けきっては、なんのダメージもなく行動を再開する。
フェオネンの言った通りだ。この迷宮では、鍛え上げられたノアの攻撃すら敵には通らない。
紙一重で攻撃を防ぎ続けるノアだが、その包囲網を抜けて何体もの迷宮生物が私のほうに向かってくる。
「くっ……! 【コール・アニマ】――吹き荒れよ、すべてを呑み込め!」
体勢を崩しながらも、ノアが中級風魔法を唱える。
彼は風魔法を最も得意とする。本来であれば、大威力を発揮するはずの魔法だったはずだ。だがこの世界ではほんの数秒間、複数の敵の身体をわずかに浮き上がらせただけで魔法は弾けてしまう。男性は腕力だけでなく、魔法も軒並み弱体化させられているのだ。
「ッくそ……!」
歯噛みしながらも剣を振るうノアの向こう側で、フェオネンは自分の周囲に水の陣のようなものを張っていた。身を隠すような場所がないので、簡易的な結界を展開しているのだろう。多方面から攻撃されるたびに破られるそれを、何度も詠唱を繰り返しては張り直している。
詠唱の合間、彼は棒立ちになっている私を流し目で見やった。
「物量で押され続ければ、"カルナシアの青嵐"といえども限界は来るよ。こう言ったほうが分かりやすいかな。――キミが百体倒さなければ、ボクも大切なお兄さんもここで死ぬよ?」
「っ」
私は顔を歪める。悪意はないのに尖った針のような言葉が、胸の奥に刺さっていた。
「フェオネン先生!」
立ち尽くす私を必死に庇いながら、ノアが声を張る。
「この迷宮の書からの脱出条件は、他にないんですか。このままでは、アンリエッタが――」
「死なないさ。彼女が本物の花乙女なら、きっと」
ノアに睨みつけられても、フェオネンはどこ吹く風という感じだ。それどころか、つまらなそうに肩を竦める。
「昔のノア君なら、ボクのやり方を歓迎してくれると思ったんだけどな……"カルナシアの青嵐"も腑抜けたものだね。妹を溺愛しているという噂も、これで真実だと証明されたみたいだ。……おっと。【コール・アクア】――無垢な旅人に、大海の守護を授けたまえ」
寄って集るネズミたちに水の陣をかじられたフェオネンが、中級水魔法を重ねがけする。
ようやく私は、ノアがフェオネンを頼るのは最終手段だと言った意味が理解できた気がした。
フェオネンは、目的のために手段を選ばない。花乙女の覚醒が見たいがために、自分の命すら危険に晒してでも賭けに出たように。
勝ち目のない戦いを続けながら、ノアが苦悶のにじむ声で言う。
「アンリエッタ、ここは俺がなんとかする。お前は安全な場所に退避を……!」
私は唇を噛む。ノアが見誤ったわけではない。フェオネンの花乙女への執着心を見誤っていたのは私だ。原作プレイ済みだというのに、情けない限りである。
だからこそ今日だけは、いつものようにノアを頼るわけにはいかない。私がなんとかしなければ、ノアもフェオネンも本当に死んでしまう。
浅く呼吸をしてから、杖を取りだした私はなんとか詠唱を紡ごうとする。
「【コール・アニマ】……」
震え声で唱えかけた直後、巨大なワームが飛び掛かってくる。
小さく悲鳴を漏らして頭を庇おうとする私に、ノアが覆い被さる。
「お兄様!」
目を見開く私の前で、ワームに噛みつかれたノアの肩口から鮮血が迸っていた。








